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マトリョーシカのネズミ  作者: 相葉俊貴
11/23

―11― ***仏の顔も――

 鬼に変貌する顔。近しい者がそう変化する恐怖は味わった者にしかわからないエグ味がある。

 凛はテキパキと夕食を用意しながら、この先のことを考えていた。 友也から事情を聞き出せるか。彼の言葉筋と、車の死体が無縁とは思えない。しかし彼の顔が鬼に変貌する様は見たくない。秘めてしまえば、幸せであり続けられるのか。

 感覚が友也の帰りの時間の頃を告げる。友也がバスで会社に向かった時は、たいがいこの時間に帰ってくる。習慣の帰着時間。そろそろ、ほら――。

 ただいま、という言葉と外の空気を身に纏いながら友也はリビングへ侵入した。侵入――ではない、「帰宅」と言葉を胸の中で訂正する。

 凛はつとめて平静を装い、おかえり、と言った。隠せているか、悟られていないか、笑顔はかたくないか。鼓動が速くなっていくのを必死に抑え込むように、胸に手をあてた。

 友也の着替えを手伝う。男の人ほどオンとオフで見た目が違う生命体はいないと凛は思う。オンが重すぎるのか、オフが軽すぎるのか。軽くなった友也は、いつもの流れに乗せて食卓に着く。凛は右足と右腕が同じタイミングで前に出ているのに気がついて、気づかれぬうちに修正した。食卓を彩っていく。

 味つけはいつもと変わらないか。凛の神経がびきびきと家中に張り巡らされる。箸先は震えていないか。――友也はいつもと変わらないか。

「そういえば、車使えなくて大丈夫だった?」

 予想しなかった核心への質問で、凛は肩をピクッとさせてしまった。

「あ、うん。今日は家にいたから」

 そう、と友也が小さく呟いた。

「友也こそ、書類なくて大丈夫だった?」

 一つ目の質問。仏を鬼にさせぬために、凛は追求……質問を三つまでと定めていた。

「ああ。全然問題なし。今日は現場でてたから書類仕事はしてない」

 なら何故持って帰ってきたことにしたの。偏った物の見方かもしれないが、やはり釈然とはできない。

「体に気をつけて。あまり家でも仕事しないで済むといいんだけど」

「ありがとう。今が少し忙しいだけだから」

 書類に関することは全て嘘である。そのことが悲しくて、それ以上踏み込めなかった。踏み込めば踏み込むほど傷つくのは凛の方で、向かう先は繁茂するイバラの道。

 友也に変化らしい変化はない。無心で口を動かしている。それすらも滑稽に感じはじめたので、凛は自分を諌めた。

「昨日帰ってきたのも遅かったもんね。忙しいなら車で通勤してもいいのに。しばらくは出かける予定もないから」

 二つ目。アレを処分したいのなら、これが助け舟になるはずである。

 そもそもなぜ今日車を置いていったの?

 もしかしたら、繁忙なのは本当で、アレを遺棄……処理する時間がとれなかったのか。それならば、不用意な移動を増やすよりも、ここに置いていった方がリスクが低くなるのか。にしても、アレを置いていった神経には驚嘆を禁じえない。

「いや、バスで行くよ。書類使うのもまだ先になりそうだし」

 だからならなぜ持ち帰ったと言ったのか。緊急性と書類とを切り離してしまったのなら、そもそもの言い分に理屈がなくなってしまう。友也には少なからずそういった場当たり的なところがあった。都合のよい皮算用はしょっちゅうで、典型的なお金を貯められないタイプである。何か理屈らしい理屈が欲しい。

 家で見返したいとか、もう全て頭に叩き込んであるとか。

「そう。わたしに気を遣わないでね」

「ありがとう。ならお言葉に甘えて、しばらく書類置かせてもらおうかな。休みの日には片付けるよ」暗に車使用不可期間延長の申し出を受ける。

「分かったわ。わたしで良かったら、代わりにやるからいつでも言って」

「うん。その時はお願いする」

 何でも言って。切に願う。この幸せを守るためなら、何にだってフタをすることができる。質問するたびに窮地に追い込まれていく凛。


――――――――だよ!》


 再び二人は夕食を食べはじめる。既に凛は何の味も感じなくなっていた。やはり味付けがおかしかったのかもしれないが、味わうことを拒否しているだけかもしれず、もう凛には何が何だか分からなくなりつつあった。

 三つ目の質問、最後の質問、どうすればよいのか。既に友也は食事を終えようとしている。何となく、この食卓だけが質問の場と思えた。ここを離れたらもう何も質問できる気がしない。友也の口が動くたびに、タイムリミットが迫っていく。

 まるでジェンガをやっている気分であった。直方体のブロックを横に三つずつ積み上げたタワーから、一つブロックを引き抜いて上に積み上げる単純作業。崩したひとの負け。抜く緊張感と、置く安堵感を交互に繰り返していくゲーム。いざ崩してしまった時は、参加者全員が「あいうえお」のどれかの言葉で悲鳴をあげる。崩した本人は、崩した物の大きさを、一人で積み上げたわけではない物の尊さを、じんわりと胸に染み込ませていく。

 さあ、どのブロックを抜くべきか。

 「殺したの?」――これは論外。殺しました、と返答されたらどうする。わたしが崩れ去るだけ。

 「書類なんてないよね?」――これもダメだ。その事実を知っているなら、先の質問で指摘していなければ友也を崩してしまう。

 「最近、誰か女の人を車に乗せた?」――このレベルでも直接的、という感が拭えない。タワー全体の重みを感じる。

 ついに友也が食事を終えた。分かりやすく満足した顔を見ると、彼のためにご飯を用意することが報われた気がする。しかし今日のそれは、つまりタイムリミットを告げる鐘を意味していた。

「何か困ってない?」

 最後のブロックがすっと抜けた。まるでそうなることが決まっていたかのように、自然な振る舞いだった。友也は正面から凛を見据えた。お願い、積み上げて。崩さないで。

「困ったことは何もないよ。ごちそうさま」

 そう言った友也の眉毛は八の字になっていた。

 それは友也が心底困っている時にする表情だった。本当にジェンガをやって、高く積み上げたタワーを崩してしまったとき、きっと友也の顔はこの表情だろう。

「そう」

 それなら、わたしが何とかしてあげる――と、凛は決意を新たにした。


――――――――――だよ!》

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