城郭拾集物語① 愛媛松山城 『金貨のエンゲージ』
煙のないところに火はたたず、事実のないところに伝説はない。
記録と物証の残る歴史を史実といい、口伝による歴史を伝説という。
しかし口伝とは時の人の生きる社会情勢や時代背景により変化する水物で、その内容は極めてあいまいさを残したままやがて定型化する。
また史実は事実を正確に伝えているかもしれないが、その時代を生きた人の数に比べればほんの微々たる部分の切り抜きでしかない。
ゆえに史実は全てでなく、本当の歴史の真実は常に闇の中に隠されている。
しかし伝説と史実を重ねて歴史を読み解けば、今より真実に一歩近づけるかも知れないと筆者は思う。
そして真実とは、自分という一個の己の中でしか見いだせないものだとしたら、それを触発するのが物語の使命かも知れない。
城郭拾集物語は、そんな挑戦を試みた短編小説集だと思っている。
城郭拾集物語①愛媛松山城
金貨のエンゲージ
愛媛の松山城は実に二十六年という歳月をかけ、戦国大名加藤嘉明によって築城された。彼は賤ケ岳七本槍にも数えられる猛将だが、ついにはその完成を見ることなく会津へ転封になった。その後、蒲生忠知から松平定行へと城主を替え、やがて幕末を経て第二次世界大戦をも越えて、幸運にも戦禍にまみえることなく現在にその姿を残す。
層塔型の天守に登れば遠く四方を眺望でき、東に道後温泉、西は天気が良ければ瀬戸内海まで見えると言う。そして南側下方に目を移せば二の丸があり、そこに水をたたえた池が見える。話によれば池ではなくそれは大きな井戸なのだそうで、日露戦争というから今からおよそ一世紀前、城郭としての役目を終えた松山城を望むその場所に、戦場から搬送されたロシア兵を収容するいくつものバラックがあった。いわゆる捕虜収容所であるが、多い時には六、〇〇〇人もの捕虜兵がいたと言い、バラックのそれは病舎を兼ねて、傷を負ったロシア兵を幽閉しながらその治療を施していた。
今回は、そこで拾集した一組のロシア兵と日本看護婦の物語をつづってみよう。
※
ミハイル=コステンコはロシアで生まれ、今年二十四歳の青年である。
生来絵を描くのを好み、病室の花瓶に生けられた桔梗や夾竹桃、紫陽花や露草や百合など、看護婦の配慮か日ごと替わる花卉を水彩で描くことが、負傷して歩けぬ体と行く末知れぬ身の上の憂いから逃れる唯一の慰みであった。
ロシアと日本との戦争が始まってからというもの、日本兵に捕らわれたロシア兵達は、ここ松山の収容所に次々と送られて来ており、ついに公会堂や周辺寺社だけでは収容しきれなくなった当局は、松山城の二の丸北側にあった千百余坪の練兵場内にバラックの捕虜収容施設を新設した。バラックとはいえまだ真新しい病舎の第一病室でミハイルは、外に咲いているのであろう花瓶に生けられた名も知らない野花を、いつものように絵筆を動かしながら憂鬱な気持ちを紛らわせている。
東部シベリア狙撃第三砲兵旅団付中尉──これはミハイルの別称だ。ついこの間まで旅順にいたはずなのに、得利寺付近で勃発した日本兵との激しい戦闘の中で、鉄砲玉で右足を貫かれ、腹部にも大きな傷を負い、気づけば日本の捕虜輸送船の暗い船底で、どこ知れぬ日本の松山捕虜収容所に輸送されたのだった。
もともと彼は軍人でない。しかし遼東半島をめぐるロシアと日本との不調和から日露戦争が勃発した時、若さは彼の「世界を知りたい」思いを駆り立てた。今年(一九〇四・明治三十七)の二月のことだ。
比較的裕福な家で育ち、厳格な父親は「何事も経験してみるがよい」と軍隊へ送り出してくれたが、その心は、世界に名だたる大帝国ロシアがまさか発展途上の日本という小国になぞ負ける訳がないといった過信があった。そのうえ上流家系といえば学もあったから、軍に入ってもおのずと少尉だとか中尉などの軍位が与えられ、最前線で戦うこともなかろうと達観していた。
「何か美味しいものでも食べなさい──」
家を出るとき母がそっと手渡してくれたのは直径二・二センチほどの一枚の十ルーブル金貨である。一八九九年製、表面にはロシア皇帝ニコライ2世の肖像が刻まれており、日露戦争当初の旅順では、一ルーブルで卵が一個、肉なら約四五〇グラム買えた時代。ミハイルはその金貨をお守り替わりに軍服の襟の裏に縫い込んだ。母の眼から雫がこぼれていた。
それと同じものがミハイルの目にも滲み、ぐるぐる巻きにされた動かない右足の包帯が霞んで見える。なんと情けないことだろうか、若気の至りで家を飛び出してみれば、今にも死んでしまいそうな大怪我を負い、遠い異国の地で捕虜となって、唯一健康な両腕で花卉の絵ばかり描いているのだから。
ミハイルは立て板と白布で仕切られた十人ほどの負傷兵が横たわる病室を見まわした。
この城北練兵場バラック捕虜病院に輸送される捕虜たちは特に重傷を負った者ばかりで、健常者や退院した者は公会堂とか法龍寺や勧善社といった周辺の寺社に収容される。病室は第一号から第七号まであって、ロシア軍の兵役の階級を重んじ、第一号室は将校専用とされ、東と西とに分かれた四人一部屋のミハイルは東側にいる。西室の入口には(ナースステーションと云えば聞こえがいいが)篤志看護婦詰所があり、今も数名の看護婦が忙しそうに出入りしていた。二号室は重傷者の病室で、重傷者といっても衛戍病院に運ばれる者に比べたらまだまだ軽いわけだが、そこは一人ずつ板塀で仕切られ白布はない。三号室以下は下士官と兵卒の軽傷者室にあてがわれ、中央通路の両側に藁蒲団を敷いて寝ているロシア兵には仕切りもなく、その間を看護婦たちがせわしく働いている。それもそのはず、戦闘著しい遼東半島付近から、二陣三陣、四陣五陣と次々に捕虜が送られて来て、このとき既に新設バラックだけで三〇〇人以上の負傷兵が収容されているのだ。
ふつう捕虜と云えば、敵国に収容され有無を言わさぬ強制労働を強いられるイメージがあるが、ここ松山に送られたロシア兵達は極めて自由な時間が与えられていた。捕虜を人道的に扱うことを定めた『ハーグ条約』を順守したとはいえ、時の捕虜取扱委員長内野少佐の方針か、あるいは愛媛松山人の気質か、「捕虜はできるだけ丁寧親切に取り扱ってやりたい」とは松山捕虜収容所の気風であり、またある将校は、「名誉の戦闘でやむなく捕虜となったのだから敵ながらあっぱれ。されば充分な待遇をしてやりたい」と言った。しかし捕虜に与えられる食費は一人一日十五銭と定められており、月に換算しても約四円五〇銭だから(ちなみに時の通訳の月俸が八十円前後)とても十分といえないながらも、松山の市井に呼びかければ茶碗や歯磨きなどの日用品やトランプなどの遊戯具などはすぐに集まった。これこそ〝おもてなしの国〟松山の淵源と言えるだろう。そのうえ週に三日ほどの外出が認められていたから、健常者は捕虜として稼いだ僅かな賃金で町に繰り出し、煙草や土産物や異国の珍しい民芸品を買い、時に道後温泉や海水浴にも連れて行ってもらえる。こと看護婦たちの献身的な親切さにおいては、彼らにとって松山は死と隣り合わせの戦地とはかけ離れた別天地であった。そんな様子がロシアの新聞でも報じられたものだから、戦場にいるロシア兵たちは皆「マツヤマ、マツヤマ」と云い合って、愛国心の薄い者の中には志願して捕虜になった者までいた。
「なにを描いているのですか?」
ミハイルの手元を覗き込んだのは、見慣れない一人の看護卒だった。赤十字の白い看護帽をかぶり、白い夏用の看護服を着たその十七、八の乙女は、ミハイルの手元の紫陽花の絵を少し見てから、視線を彼に移してニコリと笑んだ。おそらくその時だったろう、真っ暗闇な彼の心に淡い生気が宿ったのは。ミハイルは顔を赤く染めて描きかけの絵をおもむろに隠した。
「お加減はいかがですか?」と、その乙女はためらいもなく、彼の首筋にその柔らかな手を当ててきたので、ミハイルはドキリと緊張して胸の鼓動が高鳴るのを覚えた。「大丈夫そうですね」とまた笑んだその二、三の日本語は全く解からなかったが、優し気な表情から自分を労わっていることはすぐに知れた。
収容所の病舎には軍医、看護長のほか医員通訳、篤志看護婦なるものがある。篤志看護婦というのは民間の志願者による看護婦人会から派遣された女性で、赤十字社の下、歩兵隊で四ヶ月間の軍事教育を受けたいわゆる看護婦のことを指す。ミハイルのいる第一病室は松山の日本赤十字社第八〇救護班が担当していたので、その乙女はおそらくそこの所属で、本日付で松山衛戍病院から新しく派遣されて来たのに違いない。
元来、一救護班では百名の患者を救護するのが普通なのだが、この収容所の病舎ときたら一日一度の包帯の巻き替えだけでも容易でなく、ほとんど二班を必要とする患者を一個班で引き受けているものだから忙しいのも無理はない。その新人の看護卒は枕もとの用紙に何か記録すると、シーツの皺を直して隣の将兵のところへ移動し同じことをした。
地獄の淵に佇んでいたミハイルは、この日、天に光り輝く天使を見たのだった。
※
いつもなら一人で絵を描いているミハイルのベッドに、今日は隣のバラックに収容されているポーランド人のザイオンチコーフスキー大尉が見舞いに来ていた。
年の頃なら四十前後、祖国に父母と妻、それに愛娘を残していると言い、家族は音信の途絶えた父は戦死したものと落胆していたところ、新聞で日本の捕虜となっていることを知り、狂喜して手紙を送ってよこしたのだと笑った。実は見舞いとは口実で、ミハイルに自分の肖像画を描いてもらって、その絵を添えて返事を書きたいらしい。ついでに家族が心配している同郷のロッゲ少尉はミハイルと同室で、彼のも頼むと、今は治療のため動けない彼の横顔を見ながら自分との関係を説明した。今やミハイルの名は〝絵画中尉”としてバラック収容所のちょっとした有名人だ。
それにしても松山の夏は暑い。
およそ瀬戸内海から蒸発する湿気を伴っているためか、それにしても熱すぎる。
ミハイルらが護送されて来た六月下旬には、すでに蚊が大量発生していて、傷の痛みと蚊との格闘には閉口したものである。今もベッドの仕切りと仕切りの間に蚊帳を吊るしてはいるが、それがまた風を阻んで蚊帳の中はサウナのようだ。それでもミハイルは汗をダラダラ流して絵筆を走らせていたが、大尉の方はたまらず「看護婦さん!風を送ってくれ!」と叫んだ。ところがロシア語では理解されるはずもなく、通訳が来てようやく意味が伝わると、団扇を仰ぎにやって来たのが若い二人の看護卒、その一人はミハイルが天使と見まごうあの乙女であった。
この時季の晩餐時間といえば、事務所北向かいの将校室で晩飯が始まるが、一号室と二号室には二人の看護婦が食事にかかる捕虜将校に団扇をあおいで涼を送る。その様は父母に対する孝行娘のようで、それが蚊帳をつり下げたその中でまでなお仰ぐ姿は、捕虜に対しての親切と云うより行き過ぎた贅沢である。それをザイオンチコーフスキー大尉の妻は手紙の中で、ジョークか本音か知らないが、「あなた様はどうせ日本でよき女子をこしらえて楽んでおいででしょう」と知りもしない日本での生活を想像して嫉妬しているのだと、椅子に腰かけモデルをする大尉は、
「どうじゃ心安からぬ話だろう? そこでそんな不埒なことは絶対ないと、早速手紙をしたためる決心をしたわけじゃ。負傷した我々のために日本の看護婦さんにどれほど世話になっているか。そのお蔭でこうして手紙も書けるというのになぁ」
と、献身的な二人の看護卒に目をやりながら、さぞ面白そうに呵々大笑するのであった。
ところが当のミハイルは、看護卒が蚊帳に入って団扇を仰ぎだしてからというもの、ますます汗をかきだした。絵筆の先は鈍り、ときたま一人の乙女の方をチラリチラリと見つめては顔を赤らめ、大尉の肖像画など遅々として進まない。不審に思った大尉は、
「お前さん、ひょっとしてこの看護婦の令嬢に惚れておるな?」
と冷やかした。
それには肝を冷やしたミハイルは、慌てふためき動く腕だけをバタバタさせたが、幸いロシア語だったので乙女にその意味は伝わらなかった。しかしそれらの様子から、彼女はミハイルに好意的に思われていることを薄々感じたかも知れない。
ようやく肖像画が描きあがり、二人の看護卒も病室を出て行くと、ミハイルは大尉に「日本語を教えてほしい」と願い出た。得利寺付近で捕虜となり、護送される船の中やバラックに来てからも、日本人と接する機会は沢山あったはずなのに、恥ずかしながら心を閉ざしていたミハイルは、言葉を覚えるどころか話そうともしなかった──というより気力すら失せていた。その彼が日本語を覚えたいと言い出したのは、紛れもなくあの乙女の出現によるものに相違ない。
ところが大尉も英語は少しばかり話せるが、日本語は「ありがとう」と「おはよう」くらいしか知らないと頭を掻いて、とりあえずミハイルが最初に覚えた日本語はその二つであった。
大尉はそんなに日本語を覚えたいならと、ここに来てから盛んに同国語の勉強をしている何人かのロシア兵の名前を挙げた。たまに外出許可が下りた際、健常者が収容されている公会堂へ顔を出しており、そこにドルスブルーという背の高い十八歳の軍曹がいると教えた。彼は士族の身分でなかなか頭が良く、最近は日本の尋常小学読本第一を手に入れて学んでいると言う。今では毛筆で五十音まで書けるようになったとかで日本の衛兵を驚かせているそうだ。そしてもう一人、同じく公会堂にいるダブリューム=ミシンという背の低い男のことを教えた。松山収容所ができてほどなく送られて来た曹長で、収容所内でも軍の階級を明確にして扱って欲しいと訴えたのも彼だそうで、その進言があったればこそバラック収容所も第一病室は将校専用とされたのだ。彼は今ではすっかり収容所のドンとなっており、日本衛兵に対する愛嬌も良く、北清事変の戦功で賜わったという二個の勲章を胸にちらつかせながら、今では縫工靴工場の監督を任されているそうだ。彼もまた時間を見つけては熱心に日本語を研究しており、簡単な単語くらいは話せるから通訳官も大いに重宝しているらしい。
そんな話を聞くうちに、足の負傷で歩けないミハイルは悲しくなった。今はベッドから離れることすらできない。それを察したザイオンチコーフスキー大尉は、絵を描いてくれたお礼だと言って『ロシヤ・ジヤパン対照会話』というポケット辞典を彼に与えた。そこにはロシア単語に該当する日本単語がカタカナで記されていて、以来ミハイルは独学で猛勉強を積むことになる。
※
住めば都で収容所暮らしも悪くない──次第にミハイルはそう思う様になっていた。
相変わらず歩けはしないが、バラック第一号室のミハイル=コステンコ中尉の所へ行けば絵を描いてもらえるという噂が広がり、今では彼の周りに捕虜たちが集まるようになっているし、朝から夜に至る間に何度か彼の天使は彼の様子を伺いに来てくれるし、彼女に対して少し前から、朝は「おはよう」、それと、何かしてくれるたびに「ありがとう」の日本語を言えるようになった。
そのたび彼女も優しく微笑んで言葉を返してくれ、その意味もおぼろげながら理解できるようになり、ジェスチャーを交えれば意思の疎通まで可能になって、たまに二人で笑い合う時などこの上ない幸福感を覚えるのだ。
ところがいまだに名が知れない。
足さえ動けば調べる行動を起こすに雑作もないだろうが、彼の所に寄って来る者に聞くのもおこがましいし、それ以前に恥ずかしい。目下ミハイルの目標は「あなたの名前は何といいますか?」という日本語を探し、彼女自身に直接問うことである。
それにしてもなんと充実した日々であるか──
心が変われば世界が変わることを最近ほど強く実感したことはない。
「脱走事件があったようだよ」
と、今日の話し相手は同室のベログール中佐だった。
金州南山の戦いで騎馬に乗って部隊の指揮を執っていたところ、すさまじい轟音とともに巨大な砲弾が頭上を掠めた。アッと思う間もなく落馬して気を失い、目が覚めると左足の甲から大量の血が噴き出していた。苦痛に耐えながら自ら包帯を巻いていたところ、日本兵に取り囲まれ松山に連れて来られた。
祖国に妻子を残し、年は四〇半ばとミハイルとは二〇ほども離れているが、なんともフレンドリーに接してくれる兄のような中佐なのだ。
その話によれば、公会堂に収容されているミルスキー大尉が、夜中に五人の部下を引き連れ囲いを飛び越え逃走したそうだ。脱走事件はこれまでもなかったわけでない。ひと月ほど前には雲祥寺の捕虜兵が夜中に逃亡を図って地元の学生に見つかり、わけなく衛兵に捕らえられたという事件があったが、これはどうやら助平根性を起こして一夜の春を買うために収容所を出たようで、また少し前には同所の二人の捕虜が竹垣を破って逃げ出そうとしたが、これまた理由を正せば花町付近で年頃の女に煙草をあげるからと手招きされたのにつられ、竹垣の下をメリメリいわせて出ようとしたところを衛兵に捕まったということだ。つい先日も法龍寺の捕虜が夜抜けしようとしたが、付近の住民に通報されて難なく捕われた。しかしこれも逃走が目的でなく、酒に酔った勢いで月見でもしようと無断で散歩に出たものらしい。
そんな捕虜たちの性格を収容所勤務の衛兵に尋ねれば、みな口をそろえて「酒が好きトランプが好き昼寝が好き女が好きの上にまた小供が大層好き」と答えるくらいだから、〝酔うた〟〝助平〟は仕方のない事として、こたびの脱走はどうやら本気のようだった。
脱走したミルスキー大尉というのは一風変った男で、左手に戦場で受けた古傷があって自由がきかず、本来なら現役を辞してもおかしくない年齢だが、今回の日露戦争にも喜んで従軍した兵である。恐るべきはその健脚で、山を走れば猿のよう。松山に入檻してからも、誘っても温泉へも海水浴へも行かず、一向に外出しようとはしなかった。彼の持ち物を調べたところ、至極精細な英語の日本地図が見つかり、投げ縄を携帯していたところを見ると、どうやら虎視眈々と脱走の時を狙っていたとは当局の調べだ。四日間の逃走の末捕らえられ、盛んにその否を諭されているようだが、ミルスキー大尉は懲りずに、
「きっと逃げてやる!オレは国を出る時誓ったことがあるから、捕虜になったからといって決して思いとどまりはしない。この体内に一滴でも生き血のある限り、敵対行為を止めぬからそう思っていてもらいたい!」
とキッパリ言い切っているそうだ。
「みあげたものじゃないか。戦争が終わって本国へ帰った暁に、我は捕虜となってもかくの如く勇敢だったのだと賞辞に預りたいのさ。君はどう思う?」
とベログール中佐は聞いた。ミハイルとて足さえ負傷していなければ、あるいは脱走も考えたかも知れない。しかし今は──
そう考えたとき、あの天使が病室にやって来た。二人は話すのをやめた。
「お加減はいかがですか?」
いつものようにその言葉をかけた天使は、優しく温かい掌でミハイルの首筋を触って体温を確かめた。何か話しかけたいところであるが、近くにベログールがいたのでそれもできず、「ありがとう」とだけ言って見送った。するとベログールは天使を訝し気に目で追いながら小声で言った。
「君の足の具合はどうなのだい? いいかげん包帯が取れても良さそうな頃なのに、一向にそうする気配がないじゃないかい──」
と、つい先日行われたフレルヘイ=ユクリセレンフという兵卒の右足切断手術の話をし出した。
彼は右大腿軟部貫通銃傷というミハイルと同じような傷でバラックに収容されているが、既に二度も血管が破裂して大量出血したものだから、衰弱しきってついに切断しかないと診断された。祖国には父母も妻子もない独り身だが、もし手術が失敗すれば命は無いと覚悟して、看護婦や朋輩等に別れを告げて手術に臨んだそうである。そのとき手術の立ち合いに志願したのが、今ここに来たあの新卒の看護婦なのだと彼の眼は軽蔑の色を示した。ベログール曰く、
「執刀医が腕利きの菊池軍医監で、助手に医師を二名つけるほどの大手術だったそうだが、あの新卒看護婦はその名医に足が切られる様を見たかったに違いない。可愛い顔をして残酷な女もいたものだ」
ミハイルは俄かに腹立たしさを覚えた。
「あなたは僕の足も切断されればいいと思っているのか? 僕は、彼女は後学のためにあえてその場に居合わそうとした優秀な看護婦だと思うがね! 彼女に切られるなら本望だ!」
態度の急変にベログールは目を丸くしたが、それきりミハイルは口をつぐんでしまった。
レルヘイ=ユクリセレンフの手術は無事に終わり、右足三分の一を残して切断されてしまったが、術後の経過は極めて良好とのことである。足に限らずこのバラックにいれば、片手を切断したとか片目を失ったなどの話は日常茶飯事、生きていれさえすれば儲けもので、それはそのまま戦場のすさまじさを物語っている。
明日は我が身のミハイルは、天使の顔を思い浮かべた。
※
ここにいるとなにやら慰問者がよく訪れる。
どこぞの牧師やら僧侶やら、役人のお偉方やら代議士やら新聞社やら銀行員やらと、たまに英国陸軍軍医とか仏国武官とかいうのもあるが、元来病室の慰問は毎週月曜と金曜の午後一時から四時までと定められているのに、慰問面会者はそんなことは関係なしに出かけて来る。およそ慰問というより見世物小屋で、見られる捕虜にとってはあまり心地よいものでない。それでも音楽生とか女学生とか美術学生とかのそれは、純粋な心が伝わって来て心和ますものがある。また、慰問ではないが金銭や物品の寄付贈与にあっては、物には罪はないのでむしろありがたい。
ミハイル〝絵画中尉”のところにも噂を聞きつけて、先だって松山に来ているある代議士がやって来たから、花卉の水彩画を一葉記念に渡して帰ってもらったが、過日も何々医員長と名乗る者がやって来たので、これまた桔梗の絵を渡して丁重に帰した。
「まるで流行りの画家さんですね」
足の包帯を巻き直しに来た天使は、ミハイルの枕もとに置かれた向日葵の絵を見て尊敬の笑みを浮かべた。包帯を巻き直す時ばかりは、いつもより少し長めに一緒にいられる特別な時間なのだ。
「ナンデスカ?」
すると天使はザイオンチコーフスキー大尉の『ロシヤ・ジヤパン対照会話』を手にすると〝人気〟というロシア語と〝画家〟というロシア語を探して指さした。ミハイルは少し照れくさそうに先ほど描き終えたばかりの向日葵の絵を、「ドウゾ」と言って天使に渡した。
「くださるのですか? まあ、うれしい!」
無邪気に喜ぶ天使はまだ幼さを残してはいるが、もうすっかり乙女なのだ。ミハイルは予ねてよりの目標を達成せんと、胸をドキドキさせながら呟くように問うた。
「アナタ、ナマエ、ナニ?」
天使は少し驚いた顔をして、「私の名前?」と聞き返すと、
「立場なか……」
と小さく答えた。
ミハイルはまるで神の名でも思い出したように「タチバ=ナカ」を二、三度──四、五度繰り返し、やがて「ウツクシイ、ナマエ」と言った。そして自分の名前も伝えようと、「ワタシ、ナマエ──」と言った次の瞬間、
「知ってます。ミハイル=コステンコさん」
ミハイルは驚愕したが、なんのことはない、毎日問診する患者の名前くらい看護卒なら知っていて当然なのだ。しかし彼にとっては、初恋の人にでも再会した時のような驚きと感動の衝撃をもたらした。
彼女が自分の名前を知っていた──
そう思うだけで歓喜があふれ、天にも昇る幸福感を得た。その日はそれだけで充分過ぎた。
眠りに就く前、ポケット辞典から「タ」「チ」「バ」「ナ」「カ」というカタカナを一文字ずつ拾い集め、いつもなら水彩絵の具の色を落とす真っ白な洋紙に、鉛筆を握ってその文字を何度も何度も書いてみた。やがて紙いっぱいに「タ・チ・バ・ナ・カ」が溢れると、鉛筆の黒い文字は七色に彩られ、ミハイルの心に楽園の花園を創り出した。が、それも束の間、次第に胸が切なく、苦しくなるのを覚えるのだった。
明日は何を話そうか──
あれこれ考えているうちに、やがてナカの事を悪く言ったベログール中佐のベッドから、彼がトイレに立つのが目に入った。彼は小さな明かりの点いているミハイルの方に目をやると、「まだ起きていたのかい」と言って病室を出た。
彼とて人の子、そのうえ子を持つ父親であることを考えると、別に悪気があって言ったわけではないと、彼を許してやろうと思い直したミハイルの脳裏に、先日彼を訪ねて来た一人の日本婦人がいたことを思い出した。
その婦人の名は沢田女史。松山の裁縫学校の校長をしていると言っていた。
彼女には息子がおり、次男は第五師団の歩兵少尉をしていて、この度の戦争に出征しているそうだ。人の縁の不思議を感じるのは、その息子とベログール中佐が戦地で会ったということである。その話を聞きつけた母が、早速に礼を尽くしに面会に来たというわけだった。
「あなたはどこで息子に会ったのですか?」と、通訳が彼女の言葉を訳して伝えた。
「自分は捕虜となり、金州から十九里ほど離れた日本軍の屯所で、二、三日滞在いたしました。そのときお世話になったのが沢田少尉です」
沢田女史は歓喜の動揺を隠しきれない様子で「息子はどのような様子でしたか? 達者でしたか?」と続けた。ベログールは屯所を去る際に沢田少尉から託された言葉を、「少佐はこう申されました」と前置きしてから、できるだけ忠実に伝えたのだった。
『あなたが内地へ護送されたら、伊予の松山という処へ送られるでしょう。そこは小生の故郷で、母がおります。しかしなにぶん忙しく、手紙ひとつ書いている暇がなく、おそらく母はひどく心配しているに違いありません。松山に着いたらどうか、どうか母に伝えて欲しいのです、私は健在でいるから心配しないで下さいと──』
感慨余って女史の両目に溢れんばかりの涙が光っていた。ベログールはようやく次の言葉を見つけて、
「あなたには子が何人ありますか?」
と聞いた。
「三人おります」
「実は私にも三人の子がありますが、明けても暮れてもその子ども達の事が頭から離れません。国は東西と違っていますが、子を思う親心に変わりはないのですなぁ。戦争など早く終わらせて、愛しい我が子に早く逢いたいものです」
二人は心の傷を労わり合うようにいつまでも見つめ合っていた。
翌朝、いつものように「お加減はいかがですか?」とやって来たナカに、ミハイルは照れくさそうに「オハヨウ」とほほ笑んだ。
ナカはいつものように体温を調べると、枕もとのノートに記帳しながら、
「そういえば軍医の先生が言っていましたよ。もうじき包帯が取れるって」
と伝えた。ミハイルが首を傾げたので、意味が伝わっていないことに気づいたナカは、
「Doctor sayed,take bandage soon」
と、つたない英語でも一度言った。英語ならばミハイルも多少理解できる。
「そしたらお祝いしましょうね。Celebrate」
「Celebrate? トテモトテモ、ウレシイ!」
幸せというのは突然にしてまとまって訪れるものなのだろうか。ミハイルは天にも昇る気持ちで、次に彼女が来た時には何を話そうかと胸をときめかせながら、『ロシヤ・ジヤパン対照会話』をむさぼり読んだ。
※
前述した逃亡者の動機もそうだが、〝女を見なければ夜も寝られない動物〟とまで評されていたロシア兵捕虜たちの女好きときたら、松山市井でも有名だった。しかしそれと同じくらい子どもも好きといった具合だから一概に憎めないところもあるが、ある者などは美女が描かれた絵団扇をもらって大喜び。常日頃から女といったら影法師でも嬉しく思っていたというから、団扇に頬を撫で擦りしているうち、ついに絵に接吻したところが美女が涎で滲んで台無しになって、その男は泣くほど口惜しんだ笑い話や、寺の縁日で観音堂に参詣した時などは、詣でる婦女の多さに大喜びして、押し合いへし合い争って、彼女たちの顔を覗き見してだらしなく涎を垂らしていたとか、外出許可の下りた散歩で町に出れば、写真屋の前でみな足を止める。何を見ているかと思えば、店頭に飾られた女の写真に釘付けで、「ヤレ口が大きい」やら「小さい」だのと、他人の顔を好き勝手に批評して大はしゃぎ。中でも気に入った梅子という芸妓の写真を見つけた日には「ぜひ一枚買いたい」と騒ぎ出し、付き添いの委員がようやく止めたという騒動もある。また健常者は用もないのにとにかく病院に入りたがる。そして入ったら最後、なかなか出ようとはしなかった。なぜかといえば看護婦の顔を見て口説くのを無上の喜びとしているとかで、道後温泉に行けば、風呂に入るより茶番の婦人を見ながら、酒をあおって飯など喰うのが唯一の楽しみだとか。
そんなロシア兵捕虜たちの女好きの噂はナカの耳にも聞こえているはずで、先輩看護婦や上官からよほど「気を付けなさい」と忠告を受けているに相違ない。それとは知らず、その日の午後に問診に訪れたナカに、ミハイルはこう言った。
「包帯、取レタラ、差シ上ゲタイ、モノ、アリマス」
ナカは警戒したような表情を作った。確かに「お祝いしよう」とは言ったが、患者から物品をもらうなど考えてもないようだ。
「何かしら?」
「ソレ、云エナイ、ヒミツ」
「香水とかハンカチーフならご遠慮ください。このあいだも温泉で、あなたのお仲間が何か問題を起こしたようですから」
それは道後温泉に入浴に行くたび捕虜たちが、茶番の女にチップをやってナンパしようとする話の顛末だ。規則で禁じられているらしく女はチップを受け取ろうとしないので、考えた捕虜たちは、やがて香水やハンカチーフのような物品を土産に持って行くようになった。その様子を見ていた捕虜の監督係員は、もし間違いでもあったら一大事と、彼らの入浴の際に限り、女を休憩所へ近づけてくれるなと温泉側に注意を促したという話である。今日は捕虜の希望者が道後温泉に行く日なので、朝礼でそんな話が出たものだろう。
「once more」
ナカは「いいです」と言って掃除をし始めた。
寝たきりのロッゲ少尉と歩けないミハイルを残して、他の者はみな温泉に出かけてしまっており、病室内はクマゼミの声が聞こえるだけ。閑散とする中、ナカは雑巾をかけたりベッドのシーツを敷き直したりしながら世間話をしはじめた。どうやらミハイルが多少なりとも日本語が話せることを知って、話し相手になってやろうとしたのだろう。
「ミハイルさんも早く歩けるようになるといいですね。道後温泉は日本有数の温泉地なのですよ」
〝ドウゴオンセン〟のことは仲間から聞いていたので、その言葉がなんとなく理解できた彼は、「歩キタイ。オンセン行キタイ」と返した。
「包帯がとれればお酒も飲めるし、毎晩二号室でやっているトランプだって歩いて行ってできますね。ミハイルさんも子供がお好きなのですか?」
ナカは気を遣ってあえてロシア兵の〝女好き〟だけ省いて聞いたと思うのだが、そんな気遣いに気付くはずもないミハイルは、ナカと二人だけで話ができる嬉しさで「子ドモ、大スキ!」と声を挙げた。
「国にお子さんがいらっしゃるのでしょ? いまおいくつ?」
〝クニ〟〝コドモ〟と聞いて誤解を招いては一大事とばかり、ミハイルは更に大きな声で「イナイヨォ!」と叫んだ。
「チチ、ハハ、イマス。ワタシ、ヒトリ」
「そうなのですか? ハンサムだからもう結婚なさっているのかと思いました」
と、ナカは一通りの掃除を終えると、「マッコール嬢みたいな素敵なお嫁さんが見つかるといいですね」と言い残して病室を出ようとした。マッコール嬢とはイギリス皇后の名代として現在来日中で、つい先日、松山収容所のロシア捕虜兵慰問のため、この施設を訪れたばかりだった。城北の新設バラックでも各病室を回って見舞い、その気品ある姿と言動に誰もが瞠目して、このところ毎日のように話題にのぼっていたところなのだ。ミハイルはナカを呼び止めた。
「ミス・マッコールヨリ、ナカサン、ウツクシイ」
ミハイルは午前中に覚えたばかりの日本語の比較表現を初めて言葉にした。ナカは少し照れくさそうに、
「ご冗談ばかり。ロシアの兵隊さんのうまい言葉は半分に聞いておけって、軍医の先生も申しておりました」
ナカはニッコリ微笑んで隣の病室へ行ってしまった。
※
包帯が取れたのはそれから数日後のことである。恋の力というのは恐ろしいもので、その間のミハイルの日本語の上達ぶりといったら目を見張るものがある。
治療の方はというと、痛々しい腹部と右足の傷口は残ってしまったが、包帯も添え木も取れた体は非常にすがすがしく、軍医は「これで大丈夫!」と言って治りたての患部を叩いた。しかし傷が治ったのはいいがすっかり筋肉が衰えてしまっており、歩くことができない。
「しばらくは少しずつ歩行練習をして養生することだ」と軍医はリハビリを勧め、「立場君、君、ミハイル君と気が合いそうだからお願いね」と、あっさりリハビリ担当を彼女に託すと、そのまま病室を出て行った。
その日の一日の業務が終わり、お祝いだと言って二、三の看護卒に囲まれて渡されたのは、彼女たちがお金を出し合って買ったという新品の革靴で、収容所の工場で作られたものを安くしてもらったのだと笑った。夕食も野菜スープとビーフコロッケに、彼だけ特別ナカが炊いて来たのだという赤飯を食べた。
「早くこの靴をはいて歩けるようになりましょうね」
ナカの先輩看護卒が言ったが、ミハイルが約束した〝差し上げたい物”とは、ナカの分しか用意してなかったので心苦しく思いつつ、やがて彼女たちは散会して帰って行った。
「ナカさん」
出際に彼女を呼び止めたミハイルは、枕の下から一葉の、女性が描かれた水彩画を差し出した。それは美しい緑と黄色を基調にして佇むナカを描いたものである。包帯が取れるまでの間、いやそれ以前から、彼が密かに彼女が働く姿を何十枚も描き溜めたものの中から、一番良く描けたものを選んだ一枚だった。
「まあ、キレイ! これ私なの? いただけるの?」
感嘆の声を挙げた彼女に、ミハイルは静かに頷いた。
それからというもの、リハビリ担当となったナカと一緒に過ごせる時間が格段に増えた。ミハイルにとっては好い事づくめの捕虜生活となり、松葉杖をつきながら、愛しい女性の肩を貸してもらい、歩く練習を重ねていろいろな身の上話をしたのであった。
彼女は宇和島で生まれた。
幕末の宇和島藩のお殿様はとても先進的で、どこよりも早くイギリスと交流を始めたから、町にはそんな開けた気風があるのだと言った。少しばかり英語が話せるのもそのためで、女学校を卒業して篤志看護婦を志望して松山に来たが、ちょうどロシア兵の捕虜を受け入れている最中と重なり、ここに回されて来たのだと教えた。また、兵卒の足の切断手術に立ち合ったのは、後学のためもあるが、彼女を育てた父の「ひとたび家を出て看護婦になるのなら、イギリスのナイチンゲールのようになりなさい」との言葉を思い出し、勇気を奮い起こして志願したとのことだった。それに詰所には、ロシアの軍医さんや看護婦さんも来て協力してくれるし、松山にいながら国際的な友情を結べることが何より楽しいと言った。戦地では、勝利すれば敵国の人間はことごとく捕虜として日本本土に護送されるが、医者や看護婦、あるいは商人や学生などの非戦闘員は、身元が証明されれば間もなく本国に送還される。ところが医師や看護婦の中には、人道的な立場から捕虜施設の病院に残り、日本の医師等と協力して負傷者の治療看護に当たることを希望する者もいるのだ。
そんなナカの人間性を少しずつ理解しながら、彼女の好きな色、好きな花、好きな景色、好きな食べ物──あらゆる情報を聞き得たミハイルは、このままずっと二人でいたいと思った。
足の力が回復してくると、やがて二人はバラック屋内の歩行練習から、晴れた日は外に出るようになるが、その仲睦まじい姿はまるで互いを労わる恋人同士だった。
最近のロシア捕虜兵たちの関心事といえば、旅順が日本に攻撃されたとかされないとかの噂を受け、表向きは呑気にしているように見えて、内心は戦況のことが気になって仕方ない。旅順の港と大要塞は、ロシアの陸海軍が立て籠もっており、補給路を確保したい日本の陸海軍にとっても最大の要衝地なのだ。折しも日本では戦勝の提灯行列が盛んで、「提灯屋の製造が間に合わないから、日本軍も提灯が出来るまで旅順は落とさんだろう」という風刺まで囁かれていたから、ロシア兵たちにとっては気が気でない。収容所当局に言わせれば、仮に今陥落したとしても、現在の規模ではとても捕虜たちを収容しきれないから、バラックの増築・増設を急ぐとの算段である。
「旅順はどうした? 遼陽方面の消息を聞かせろ」
と、捕虜兵たちは通訳官を捕まえてはしつこく尋ねていたが、通訳も忙しいのでいちいち対応できない。するとこの頃になっては一日数回配達される新聞の号外を読む者が出てきて、誰からともなく戦報を知り得、「常陸と佐渡がやられた」とか「我らの軍艦が元山を襲った」とか、誰からともなく互いに情報交換するようになって、今ではいまだ旅順が陥落していないことを知ると、
「いかに日本軍がジタバタしたって、旅順は到底落ちないわい。いつかは陥落するにせよ、そうやすやす日本人の思うようにはいくまい。骨折り損のくたびれ儲けじゃい!」
「旅順は決して落ちぬ。もし落ちたら俺様の掌に毛をはやしておめにかけるわい!」
と鼻高々。
ところが収容所にいるのはロシア人ばかりでなく、ポーランド人や韃靼人、ユダヤ人やドイツ人もいる。収容部屋は人種毎に割り振られているが、数の少ないユダヤ人などはロシア人と同室の者もいた。するとそこでいじめが起こり、人知れず涙をこぼすユダヤ人もいたという。考えてみればポーランド人とかユダヤ人等は自国の戦争に参加しているわけでなく、ほとんど奴隷同然にロシアに連れて来られたから、長年の怨恨を抱いている者もおり、今回の戦争も好きでロシアに従っているわけでなく、彼らは嫌々にして日本に弓を引いている。そんな者たちの言い分は、
「そうは云うが、決して楽観してはおられぬぞ。冷静になって考えてみれば、とどのつまりは旅順とて陥落するに決まっている」
と、意見が割れて論戦になるが、やはり少数派のポーランド人とかユダヤ人等は、多勢に無勢で言い負かされてしまう。
そんな中を歩行練習のミハイルとナカが通りかかれば、途端に議論をやめて冷やかしの声や指笛を鳴らして見守る昨今である。これでは二人ができているとの噂が立つのも当然だったろう。しかもこの当時の新聞報道といったら、現代と比較すればプライバシーの意識の差に天と地ほどのひらきがある。その二人の様子は地元新聞紙に小さく報道された。
※
最近のリハビリは松山城二の丸、城北練兵場敷地内にある井戸の周辺だった。
井戸といっても東西十八メートル、南北十三メートルもある日本屈指の巨大なものだ。江戸時代の頃はこの井戸の上に建物があり、炊事場として、あるいは火災時の消火システムの機能を担っていたようだが、陸軍訓練場となってからは建物は取り壊され、今は水が無駄に溜まった長方形の池と化していた。その周辺には、今の季節は芙蓉や桔梗や鬼百合などが咲いている。
「ナカさん、コンド絵ノモデル、シテモラエマセンカ?」
「えッ? そんな、恥ずかしいです……」
ナカは小さく俯いた。
「アナタノ絵ガ描キタイ、ダメデスカ?」
「こんなにたくさん綺麗な花が咲いているではありませんか。花卉の絵は描かないのですか?」
「ボクニトッテハ、ナカさんガ花デス」
ナカは、またいつものロシア人の戯れ言と思っただろう、
「……ロシアの男性は女性を口説くのがお上手ですね」
と聞き流した様子だったが、ついにミハイルに押し切られ、モデルを務めることになったのである。
こうしてリハビリにかこつけて、ミハイルは井戸の周辺でナカをモデルに絵を描くようになった。
ところが彼女は思いのほか忙しく、たびたび「高浜港に収容兵が到着した」との報が入ると、その場を立って急患者の看護業務に戻らなければならなかった。捕虜の中でも負傷していない者は公会堂や法隆寺、勧善社や雲祥寺などの収容所へ送られるが、負傷兵はすべからくバラックに運ばれて来るのだ。第一回から計算すればかれこれ三十数回の〝捕虜着松〟の報を数えており、増設されたバラックの収容人数は既に五〇〇名近くにのぼり、松山全体においては一千数百名を越えていた。そのうえ戦争終結の目途は全くたっておらず、先行き不透明な不安感は、捕虜兵ならずもそこにいる全ての人間の心を汚染していた。
一人残されたミハイルは、先日菊池軍医監の夫人から寄贈された綺麗な絵が描かれた団扇を仰ぎながら、湿った大気で霞む空を眺めた。このまま怪我が治癒したら、バラックを退院して他の収容施設に移らなければならない。「そんなのはいやだ!」と、彼はある決意を余儀なくされていた。
その日は京都美術学校の学生を名乗る青年がミハイルを慰問に訪れた。二人は偶然廊下ですれ違い、青年が寄贈したいと持ってきた一葉の洋紙に描かれた自作の花卉の絵を見て、「ジョウズデスネ」とすっかり意気投合してしまったのだ。ミハイルは彼を自分の病室に招き、ある将軍が騎馬にまたがったその傍らに犬を描き、馬と犬とが競走している自作の絵を見せると、「この将軍はあなたですか?」とたちまち画談に花が咲く。
「アナタハ、ドンナ絵描キさんガ好キデスカ?」
「私はフィンセント・ファン・ゴッホという画家の絵が好きです。オランダの画家でまだ無名ですが、彼の絵は、いずれ世界的に評価されると思います」
と言って古びたカバンから『メルキュール・ド・フランス』というフランス語で書かれた画集のような雑誌を取り出すと、その中からゴッホの絵を見せて、「彼は生前一枚しか絵が売れなかった不遇の画家ですが、この絵から放たれる力強さは類を見ません。自分もこんな絵が描きたい。ぜひ本物を見てみたいものです」と興奮気味に語った。
「中尉は誰がお好きですか?」
「当テテミテクダサイ」
「う~ん、この絵から察すると印象派ですね。さしずめクロード・モネといったところでしょうか?」
この頃、印象派の画風はフランス画壇でもてはやされ、特にクロード・モネの『印象・日の出』に始まった印象派グループのそれは一躍脚光を浴びていた。ミハイルの描く淡い色使いの絵は、なるほどその類いに分類されよう。
「サスガ、ビジュツダイガクセイデス。当タリデス」
そんな談笑をしているうちに、彼らの周りに各病室の捕虜将校たちが集まってきて談議に耳を傾けた。すると一人の将校がハンカチーフを取り出して美大生に揮毫を求めた。ミハイルは、
「ココノ暮ラシハ、スルコトガナク、ケッコウ退屈デス。ドウカ何カ、描イテアゲテクダサイ」
とお願いすると、美大生はカバンから書道具を取り出して、絵も言われぬ早さで『三保の富士』を描き上げた。それには将校も大喜びで、やがて学生は満足そうに帰って行った。
その晩、ミハイルは悩んだ。ナカとのことである。
この調子でいけば半月もすれば退院の勧告を受けるだろう。そうでなくとも病室は絶えず一杯なのに、そうなればバラックを去らなければならない。移転先は公会堂になるか周辺の寺社になるかは知れないが、いずれにせよ厳しい監視のもと外出するのもままならないだろう。そうなる前に自分の気持ちを伝えなければならない。少なくとも彼女の気持ちを確かめたかった。
どうやって伝えようか──
考えあぐねているうちに、家を出るとき母から餞別にもらった十ルーブル金貨の事を思い出した。お守り替わりとして軍服の襟の裏に縫い込んだままだが、今、あの激しい戦火を潜り抜け生き得たのも、また、ナカに出合えたことも、全部その金貨が守ってくれたのだと思えた。ここに来てからは怪我のため、就労もできずに無一文であるが(ちなみに『捕虜労役規則』では官衛で働く場合、下士官相当の者は一日七銭、兵卒は一日四銭支払われた)、先進諸国に比べると日本はまだまだ物価が低く、両替すれば一、二カ月は生活できるくらいの価値があるはずだった。今の彼の唯一の財産といえばその一枚の金貨で、それはあまりに高価な、最後の生きる手段であり希望でもあった。
ミハイルはベッドの下にしまってある血で汚れたボロボロの軍服を布団の上に広げると、襟の裏からその金貨を取り出し握りしめた。そして俄かに立ち上がり、松葉杖をついてこっそりと病室を抜け出した。従来バラックの負傷捕虜は、夜間は病室から出る事を許されていなかったが、幸いこの頃は夜も猛暑続きで耐え難く、同構内に限って自由に散歩してよいことになっていた。
暗い病舎の中を、便所や湯飲室、浴場などをくまなく回り、目的の物がないと知るや次には汚物焼却室や消毒室、ついには霊安室まで回ってやっと見つけたのが、長さ三センチほどの一本の釘だった。収容所内には刃物や先端の尖った金物類等は、捕虜の目にとまる場所には一切置いてない。たったその一本を見つけるために二、三時間も費やした。そして庭に転がっている程良いざらつきをした石ころを見つけると、ベッドに戻って小さな明かりを灯す。次にやり出した怪しい行動は、見つけた釘の先端を、拾った石で研ぎ始めた事である。それは間もなく満足のいく形状に仕上がったようで、研ぎ澄まされた釘の先端を見つめてミハイルは生唾を飲み込んだ。
次に鉛筆で、金貨の国章『双頭の鷲』が刻まれている面に、淵の平らかな部分に添って『М Костенко』というロシア語の自分の名前を下書きした。釘の先端で名を刻もうというのであった。刻み終わるとその右側に、今度は、天使の名を初めて知ったあの日、洋紙いっぱいに書き連ねた『タチバナカ』の文字を下書きし、同じように釘の先端でできるだけ丁寧にその名を彫り込む。この金貨を婚約の証しとして彼女に渡そうと考えているのだ。コインのもう片面に刻まれた『ミハイル2世』の面に刻めば、平らかな部分がより広いので適していたが、『双頭の鷲』の面の方に刻んだのは、もし婚約が成立して、以後日本に住むようなことになったら、祖国を裏切ってしまうようで気が引けたからだった。ところがそこまで刻んでしまって考えた。自分の名前はロシア語綴りで、ナカの方はカタカナ綴りなのは変だ──そこで彼女の名を刻んだ対象方向に、自分の名を同じカタカナで刻んでみた。多少いびつな文字になってしまったが、今のミハイルにとっては精一杯の誠意だった。
気付けばもう東の空が白らみはじめ、新しい朝が空けようとしている。彼は完成したばかりのエンゲージコインを大切そうにポケットにしまい込み、その長い夜の仕事を終えて眠りに就いた。
※
翌朝、いつものように「お加減はいかがですか?」というナカの声に起こされたミハイルは、眠い目をこすって上半身を起こした。
「あら? ずいぶんと眠そうですね。昨日は遅くまで起きていたのですか?」
「チョット……」とミハイルは言葉を濁した。
「ナカさん、今日ノ歩行練習ハ何時コロニナリソウデスカ?」
「そうですね……」と彼女は少し困った顔をした。
「実ハ、大事ナ、オ話シガアリマス」
「ごめんなさい。今日は昨日収容された人たちの看護が忙しくて、時間がとれないかもしれません。明日ではだめですか?」
ミハイルは「ワカリマシタ」と答え、その翌日の夕方頃になってついにその時が来た。
陽が沈みかけた大井戸のほとりで、ミハイルは何から話そうかと言葉を詰まらせた。
「大事なお話しって何ですか?」
ミハイルはポケットをゴソゴソやって一昨日の晩に作った金貨を握りしめた。
「ソノォ……ボクハ、イツ退院スルノデスカ?」
ナカは「なんだ、そんなことか」といった表情で、
「今月の二十日頃には退院できるのではないかと、軍医の先生は言っていますよ」
「ハツカ……」と、ミハイルは悲しい目をして「退院シタクアリマセン」と呟いた。
「でも、決まりですから……」
「退院シタラ、ドコニ、送ラレマスカ?」
「多分、公会堂収容所になると思います」
「ソコニ行ッテモ、ナカさん、アナタト、会エマスカ?」
ナカは何も応えなかった。ミハイルは胸の内をそっと伝えた。
「ボクハ、アナタト、一緒ニ居タイ──」
ナカの瞳が悲しみを帯びたものに変化するのが見てとれた。
ミハイルは先ほどから握りしめていた金貨を彼女に差し出すと、「コレヲ、受ケ取ッテ下サイ」と言って手に握らせた。
「何ですの? ロシアのお金?」
ナカは珍しそうにその金貨を見つめると、今度は彼女の方がポケットに手を忍ばせ、中から十銭銀貨を取り出し「では、これをどうぞ」と言って彼に渡した。おそらくその金貨をお別れの記念だと解釈し、十ルーブルの『一〇』を見て、同等の価値があると考えた十銭を取り出し、交換してお互いの想い出にしようと思ったに相違ない。ミハイルはその勘違いに気付きながら十銭銀貨を受け取った。
「ソノオ金ニ、アナタトボクノ名前ヲ、書キマシタ。ボクト、結婚、シテ下サイ」
「えっ……?」
と言ったまま、ナカは次の言葉を見いだせずに俯いた。真っ赤に染まった顔色は、あるいは夕陽が反射していたものかも知れない。しかしミハイルは、彼女の心にも自分が棲んでいることを確信し、黙ったままの彼女に対してどうしていいやら分からなくなって、やがて無意識に松葉杖を落とすと、目の前の美しい天使をそっと抱きしめた。ナカは拒むでもなく抱き返すでもなく、目を開けたまま、二人の呼吸は互いの体を確かめあって、その時間が永遠に続くのではないかと思われた。
「そんなこと言わないで──あなたを愛してしまうじゃない……」
吐く息とも思われた小さな声は、ミハイルの思考を蘇えらせた。
「愛シテ、イイデス……愛シテ下サイ──」
「でも……」
と言って、彼女は静かに彼の身体から離れた。
「あなたの国と私の国は戦争をしています。結婚なんて……できるはず、ないでしょ──?」
「逃ゲマショウ」
「脱走するつもりですか?」
「逃ゲテ、遠クノ山奥ヘ逃ゲテ、畑ヲ耕シナガラ、アナタト静カニ暮ラシタイ……」
「でも、そんなことしたら──」
ナカは泣きそうな目をしてミハイルの真剣な眼を見つめ返した。
「驚カセテ、ゴメンナサイ。返事ハ、イマデナクテイイデス。デモ、退院スル前ニ、教エテ下サイ」
ミハイルは再び彼女を抱き寄せて、その小さく開かれた唇に口づけた。
そんなことがあってから、ナカはどことなし余所々々しく、二人の間には見えない壁ができたようだった。あの日の出来事を切り出すのは、どこか腫れ物に触れるようでなかなか言い出すことができず、結局バラック内で見聞きした出来事や事件を持ち出して、たわいのない世間話に終始する。
ミハイルは、先日バラックに送られて来た収容兵は、日本の貨客船『常陸丸』を魚雷で撃沈させた装甲巡洋艦『リューリク号』の乗組員だったという話題を持ち出した。彼らは様々な国に上陸するのでいろいろな国の言葉を話せる。水兵ですら簡単な日本語ができ、ある捕虜海兵は日本の記者に煙草の火を貸してもらったとき「おおきに」と言ったらしいが、それは日本のどこの言葉かと笑ってみたり、またある海兵は、喉が渇いて「アナタみーずみーず」と叫んだら、意味が通じて飲料水をもらえたという話をすれば、ナカはナカで、ナゾローフさんは気に入らない事があるとすぐに私たち看護婦を殴るので、みな怖がって接したがらないが、今回送られて来た人たち(リューリク号の乗組員)は、みな規律正しく、本来私たちがしなければならない病室の掃除も、「かよわい婦女にやらせるのは気の毒だ、我々は常に艦内の掃除をして慣れているから引き受けた」と言っていつもお部屋を清潔にしてくれている。同じロシアの人でも随分と違うものだと苦笑した。そして話題につまれば捕虜兵たちの病状を尋ねてみたり、言う事を聞いてくれない将校に対する愚痴を聞いてあげたり、そうこうしているうちに日々は光陰のように流れ、ミハイルは松場杖なしで歩けるようになり、ついに翌日退院しなければならない日を迎えた。時に明治三十七年(一九〇四)九月十九日のことである。
ナカの返答次第では、即日にでも決行できる綿密な脱走計画も練っていたし、一生彼女を守り抜く覚悟も決まっていた。ところがなかなか切り出せないまま、最後のチャンスであるこの日を迎えてしまったのだった。そのように躊躇していたところを、
「ミハイルさん、今晩お時間いただけますか?」
と、声をかけたのはナカの方だった。二人は今宵八時に、例の井戸の近くで会うことを約した。
※
大井戸の水面におぼろ月が映っていた。
散歩を装って一人外に出たミハイルは、少し早かったかなと後悔しながら約束の場所に来てみると、既に彼女はそこに立っていて、「こんばんは」とどことなし作ったような笑顔で迎えた。不安と緊張が潜む表情を無理やり笑顔に変えた彼は、暫く無言で彼女の正面に立ち尽くしたが、やがて「オ仕事、ゴ苦労サマ」と言ってその悲し気な瞳を見た。
「いよいよ明日、退院ですね。おめでとうございます」
皮肉なものである。本来ならめでたい話が、この時ほど恨めしく思えたことはない。
「アリガトウ──」
初めて覚えたその日本語は、もしかして彼女に伝える最後の「ありがとう」になるかも知れないと心のどこかで思った。すると彼女は白衣のポケットに手を入れると、求婚をした際渡された十ルーブル金貨をおもむろに取り出した。
「これ、お返しします──」
「э」
思わず漏れた小さな驚きの息は、彼がロシア人であることを物語った。
「ごめんなさい、私、このお金がそんなに高価だなんて知らなくて……」
おそらく十ルーブル貨幣の話題を同僚か誰かに持ち出して、その価値を知ったものに相違ない。しかし金貨を返す理由が求婚の断りでなく、価値の大きさによるものであることに胸を撫でおろしたミハイルだったが、ひょっとしたら自分を傷つけまいとした彼女なりの優しさかも知れないとも思えて、動揺は隠すことはできない。いずれにせよ、一度あげた物を再び受け取ることはできない彼は、拒む理由を考えた。
「返サナクテイイデス。コノコイン、アナタニアゲマシタ、アナタノ物」
「いけません。受け取れません……」
「必要ナケレバ、ナニカ美味シイモノ、食ベテ下サイ」
それは家を出るとき母から告げられた言葉と同じであった。人は窮地に立たされると、より深く刻まれた経験に伴う言葉が、無意識のうちに出て来るものか。
「ダメです。やっぱり受け取れません──ごめんなさい……」
ナカは彼の右掌に金貨を置いて握らせると、その上から両手でギュッと握りしめた。
「ナゼ?」
とミハイルが言った時、ナカの瞳から大粒の涙が音をたてて落ちた。
「明日、あなたを見送った後、来月には宇和島に帰らなければいけなくなりました」
「ドウシテ、デスカ?」
「父が縁談を決めたのです。宇和島に帰ってお見合いをしなければなりません。少し前に決っていたのですが、どうしてもあなたに言えなくて、黙っていました」
「断レナイノデスカ?」
ナカは言いにくそうに厳格な父の話を伝えた。読者にだけは実情を伝えておくと、少し前に地元新聞で報道された二人の様子を綴った記事が彼女の父親の知るところとなり、「敵国ロシアの男と恋仲になるなど言語道断」と激怒した父親は、大慌てで縁談の相手を見つけたといった次第。しかしその実情を話すには、彼女にはどこか罪悪感があり、とうてい伝える勇気は湧かなかった。
「相手ハ、ドンナ男性デスカ?」
「知りません。ただ、関東の方だと聞きました」
「ボクハ、ソンナノハ嫌デス! ナカさんハ、ソレデイイデスカ?」
「あなたと一緒に逃げようとも考えました──でも、どうしても決心がつきませんでした。私は日本人です、そしてその日本帝国の女だから……私にはどうしても、父にもお国にも逆らうことができません」
突然その瞳から、先ほどから溜まっていた涙がポロポロとあふれ出した。彼に、脱走してまで一緒になりたいと打ち明けられてから、彼女なりに考えてはみたものの、そうしたところでミルスキー大尉のように捕まって、厳しい尋問を受けた末、独り倉庫に留置されるミハイルを見るのはあまりに忍びない。日本の包囲網を破ることなど不可能で、仮に逃れられたとしても外部との接触はできない。常に不安にさらされながら、見つかったら最後、彼女とて国賊と蔑まれるのだ。そんな屈辱には到底耐えられないことを彼女は知っている。〝愛さえあれば”とは言うが、愛は感情の一種であり、感情は時々刻々と縁に触れて変化するものなのだ。ナカにはいくら楽観的に考えても、二人で幸福に生きている将来が見いだせない。こんな残酷な出会いをいったい誰が与えたかと、彼女の言葉はそんな心の叫びを象徴していた。
「ミハイルさんのことは好きです。できることなら生涯あなたを支え一緒に生きたい。それが女性の道だとしたら、きっと私はダメな女ですね」
ミハイルは何も言えなかった。ナカという名の天使に出合ってから、盲目となってひたすら彼女と自分の事だけしか見ずにいたミハイルは、突然押し潰されそうな現実に目覚めて愕然とした。
自分は捕虜なのだ!
何の罪も犯した覚えはないが、収容所に入れられているのは事実なのだ。
さすれば罪を犯しているのは国ではないか! 悪いのは戦争を生み出す自然の摂理の方ではないか、人心ではないか!
同じ地球という星に住み、千載一遇の出会いを成し遂げたというのに、彼が乗り越えなければならない山は、あまりに高く険しく越えがたい。今の自分に、本当に彼女を幸せにすることが出来るだろうか──その答えは、ナカが見ている未来と同じに違いなかった。
闇、闇、闇──キョロキョロと周囲を見ても真っ暗な空間。その闇は、一寸先が行き止まりなのかそれとも果てなく続いているのかも教えてくれない。彼はその暗黒の世界にぽつねんと佇んでいた。
「あなたと出合うのが早すぎた……」
ナカはぽつんと呟いた。それはいつまで続くか知れないこの戦争が終わり、平和な時代が到来してから出会えたら良かったという意味にとらえたミハイルは、この不条理な世界で自分が光になってやろうと思った。
「デモボクハ、戦争ガ終ワルノヲ待チマス。ソシテ、必ズ、アナタヲ迎エニ来マス」
天使が何も答えなかったのは、彼女の最後の優しさであり厳しさだったかも知れない。ナカはミハイルに一礼すると、いたたまれないといった様子で小走りに立ち去った。
残されたミハイルは、この時に、この場所で、彼女を愛した証しを永遠に留めようと、握りしめた金貨を静かに井戸の中へ落としたのだった。
そんな小さな恋の軌跡を、松山城は静かに見守っていた。
※
翌一九〇五年(明治三十八年)九月五日、アメリカ合衆国仲介の下、両国はポーツマス条約により講和した。このとき日本におけるロシアの捕虜兵総数は、日本全土で七万二千四百十四名と云い、うち松山だけで二千百九十九名あったと云う。やがて捕虜たちは少しずつ本土に帰還していき、松山は以前の静けさを取り戻す。
──それから何年経った頃だろうか。
ミハイルは再び日本を訪れた。しかしそこで彼が目にしたのは、かの天使が乳飲み子を抱き、その乳を与える母の姿であったそうだ。
二〇一七年八月七日
(2017・07・29 ここは松山ですが私は杉山ですと申せし面白き松山城GB杉山氏より拾集)