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紀夫と槇島は煙の中に映った越智と山口さんを注視する。二人がいるのは学校のプールのようだった。どうやら二人でこっそり思い出の地に忍び込んでみたらしい。まだ肌寒い時期なのに意味不明である。越智と山口さんはプールサイドに並んで座り、二人で静かに水面を眺めていた。日中なら濁っている上に藻が繁殖しているため、その辺のドブ川の方が遙かにマシな中学校のプールだが、夜中なら一応は綺麗に見える。
「綺麗だね、越智君」
「そうだね……」
山口さんが話しかけ、越智が爽やかな笑顔で応じた。プールサイドの上でしっかりと重ね合わされている二人の手には、お揃いの指輪が光る。
「ほら見て、お月様が映ってる」
山口さんは水面に映った月を指さした。越智は山口さんの頬に手を伸ばして山口さんの顔を自分の方に向け、まっすぐに覗き込む。
「君の瞳はまるで満月みたいだね」
「越智君の笑顔は、太陽みたい」
二人は笑い合ってどちらともなく顔を近づけて、キスをする。二人は笑顔で囁き合う。
「ずっと一緒にいようね、越智君」
「ああ、約束するよ……。もう二度と君を離さない」
二人は抱き合って、もう一度キスをした。
「うわあ……。この二人は違うわ……」
熱い熱い越智と山口さんのキスを眺めて顔を真っ赤にしながら、槇島はそう漏らした。確かにこの二人は、今見る限りではわざわざ時間をループさせる必要がないくらいに強く結ばれている。ちなみに高校に入ってから、山口さんは越智を振ってスコット筋太郎君なるよくわからない人物とお付き合いを始め、越智は早○田大学を留年し、焼肉屋の店長となった挙げ句海外逃亡して結婚詐欺事件を起こすのだが、それはまた別の話である。
「本当にあんたの言う通り、山科さんや輝沢さんかもしれないわね……。やり直したいと思ってる人じゃないと、リセットが掛かるループなんてやってられないもの。ちょっと長谷、聞いてる?」
聞いていなかった。
紀夫は一心不乱に目の前の電柱を殴り続けていた。右ストレート、右ストレート、ショートアッパー、フック、さらにはスマッシュ。今日も紀夫の拳は絶好調だ。
「……何やってるの?」
アライグマとイノシシの決闘にでもばったり立ち会ってしまったときのような低い声で、槇島は紀夫に尋ねる。紀夫はフッ、フッと一定のリズムで電柱を叩きながら、槇島の疑問に答える。
「……壁がなかったから電柱を殴ってるんだよ。邪魔しないでくれ」
クソッ、越智のやつ何が「君の瞳はまるで満月みたいだね」だよ! クサすぎるんだよチクショー! 山口さんも山口さんだよ! なんで普通に応えてるんだよ! だいたい越智と俺で何が違うっていうんだ! ぼっち飯もできないヘタレ野郎のくせに、かっこつけやがって! 畜生、畜生、チックショー!
「本当にこういうことやる人っているんだ……」
槇島はドン引きしていたが、紀夫には関係のない話である。これで殴らずにいられるか! 壁殴り代行には任せておけないぜ!
そのうち電柱を殴る紀夫の拳からチャリン、チャリンと金貨が落ち始める。とてつもない怪奇現象だが、まずは気の済むまで電柱を殴らなければなるまい。紀夫は無視して己の拳に集中するが、外野は驚きを隠せない。
「これは伝説のチック金貨! 三十歳を超えた童貞にしか生み出せないと伝えられているのに、とんでもないことです! しかもこれほどの量とは! あなたも魔法を使えますよ!」
ピーちゃんが興奮した様子で声を上げ、槇島はあ然とする。
「三十歳を超えた童貞にしか生み出せないって……。長谷、あんたどんだけ僻んでるのよ……」
「うるせー! 持たざる者の怒りを思い知れリア充!」
紀夫はいきり立ちつつも、ふと疑問に思う。今までだって紀夫はリア充に怒り狂ってきたし、壁も殴ってきた。何故急にわけのわからない金貨が出てくるようになったのだろう。これもループとやらの影響だろうか。
まぁいい。今は壁に代わって電柱を殴ることに集中しなければ。
槇島はあきれ声をあげる。
「というかチックって何よ、チックって」
「チクショー! の略です。九州のアゴが長い人ではありません」
ピーちゃんが解説するが、槇島は気持ち悪そうに紀夫を見ただけだった。
紀夫の生み出した金貨は地面に小山を作り、そのうち数枚が煙を噴いて燃え始める。今は小火に過ぎないが、やがて大きな炎となるに違いない。
「なるほど……強い嫉妬の感情が炎の魔法となって発現していますね。金貨がもったいないので止めましょう」
そうピーちゃんが言った瞬間、炎はピタリと止まった。無意識でわずかに魔法を使っていただけなので、簡単に止められたそうだ。
やがて紀夫は息切れしてその場にへたり込む。紀夫の目の前にはちょっとした金貨の山ができていた。
ピーちゃんは金貨を一掴み手に取り、言う。
「まずはこれを使って、あなたたちに防護魔法を掛けましょう。そうすればまたループが起こっても、記憶を持ち越すことができます」
「人数は多い方がいいでしょ? まだ残ってるようだから、手伝ってもらえそうな人に同じ魔法掛ければ?」
槇島は提案するが、紀夫は否定する。
「やめとけ。キチガイ扱いされるのがオチだ」
ループしていると誰かに訴えるというやり方は、すでに紀夫が試していたが、効果はなかった。このデブニワトリを連れて魔法がどうのと説明して回るのも気が滅入る。
「そうですね。一応、私たち精霊の存在は人間には秘密ということになっていますから、あまり多くの人に知られると困ります。事が事なのでやむを得ず声を掛けましたが、本来はあなた方に接触するのも禁止なのです」
ピーちゃんも同意し、人海戦術は却下だ。あまり派手に動きすぎると、犯人を警戒させてしまうというデメリットもある。ただでさえ犯人を見つけるのが難しそうなのに、相手に逃走したり隠蔽工作をしたりする余地を与えてしまうのは悪手だ。ピーちゃんには悪魔を感知する手段がない。悪魔を確定するには犯人がボロを出すのを待つしかないのだ。
「この金貨は私が保管しておきましょう。この十倍くらい金貨を貯めれば、魔法で時間に介入して力業で解決できるようにもなるはずです。ただし……」
ピーちゃんはそこで患者に余命を告げる医者のように、酷く真面目な顔をして言う。
「そんなことをすれば、持ち主の長谷紀夫さんもただでは済まないかもしれません」
紀夫は童貞力が高いだけで、魔法を使う才能があるわけではない。なので強い魔法を使うと大きな反動を受ける可能性が高かった。
「クッ……! 新アニメのためには命を賭けるしかないのか……!」
紀夫も火刑に臨む殉教者のように神妙な表情を浮かべる。すかさず槇島は水を差す。
「時間はいくらでもあるんだから、そこまで必死にならなくても……」
槇島の言うことも一理ある。記憶を保持したままループに参加できるなら、実質時間は無限だ。あまり焦る必要はない。
しかしピーちゃんは困ったように頭を掻く。
「いや、世界の歪みはかなりのところまで進行しています。このままあと三、四回ループを繰り返せば、宇宙の法則が乱れて世界は滅亡するでしょう」
ピーちゃんの言葉に、紀夫は満面の笑みを浮かべて拳を握ってみせる。
「よっしゃ、やっぱり新アニメのためには、一刻も早く解決しなきゃいけないってことだな! 俺に任せとけ!」
槇島は小声で氷の息を浴びせてくる。
「他のことにも、それくらい一生懸命取り組めばいいのに……」
おまえにだけは言われたくねぇよ!
その日はそこまで話して解散となった。夜中にひそひそ相談しても、手掛かりを得ることはできないからである。
紀夫は家に帰って眠ることにして、明日に備える。
とにかく日中に手掛かりを得なければならない。リミットは長くて一ヶ月程度だが、目星はついている。後は行動するだけだ。そんなことを考えながら、紀夫は眠りに落ちた。
賭博はいけない