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山小屋は山仕事をするためのちょっとした道具置き場だったようで、古びた鉈やら斧やらが壁際の棚に無造作に置かれていた。紀夫たちは埃っぽい土間にそのまま腰を下ろす。
山科さんはさすがに疲れたのか膝を抱いて顔を埋める。紀夫はチラチラ横目で山科さんの様子をうかがうが、何かできるわけでもない。
山科さんは「くしゅん」とかわいくくしゃみをして、言った。
「……寒いね」
山科さんの体は小刻みに震えていた。歩き回っていたときは体温が上がっていて感じなかったが、雨のせいでかなり気温が下がっている。服が濡れているのと相まって、かなり寒い。狭い山小屋の圧迫感もあり、まるで冷蔵庫に閉じ込められているかのようだ。
「俺の上着使う?」
押っ取り刀で申し出た紀夫の上着もびしょ濡れだった。こんなものを着ても余計に寒くなるだけである。山科さんは力なく首を振った。
本当なら二人とも服を脱いで、焚き火にでも当たって服と体を乾かすべきなのだ。しかし紀夫はマッチもライターも持っていない。紀夫は手ぶらで島に渡り、携帯電話さえコテージに忘れてきたくらいなのだ。アウトドア用の便利アイテムは用意したが持参していないという間抜け振りだった。
ならば魔法で火を……というのも考えたが、こんな狭い小屋で焚き火をすればどういうことになるかぐらい、紀夫でも容易に想像がつく。煙で小屋の中にいられなくなるのは間違いないし、悪ければ小屋が焼け落ちるという結果になるだろう。
「きっと雨はすぐに止むから!」
紀夫はそう言ってみるが、山科さんの反応はなかった。山科さんは苦しげに無言でごろりと横になる。紀夫は慌てた。
「ちょ……! 山科さん、大丈夫!?」
「大丈夫……。ちょっと疲れてるだけ……」
山科さんはそう言うが、唇が紫色になっていて、とても大丈夫には見えなかった。紀夫は立ち上がる。
「……助けを呼んでくる! 山科さんはここで待ってて!」
こうなると紀夫が動く他に打つ手はない。このまま動かなければ紀夫の体調も悪化して、にっちもさっちもいかなくなる可能性もあるのだ。しかし山科さんは半身を起こし、紀夫を引き留める。
「待って! こういうことになったら、動かない方がいいわ!」
紀夫は助けを呼びに行く振りをして、ピーちゃんに頼んで魔法を使うつもりだった。だがそれを山科さんに説明するわけにもいかない。もどかしいのを我慢して、紀夫は立ち止まる。
「いや、でも……!」
「お願いだから行かないで……。長谷君が行ってしまったら、私……!」
山科さんは半分涙声になっていた。どうしてそんなにも紀夫のことを引き留めるのだろう。紀夫が残っても、何の役にも立たないというのに。
紀夫は困ったように頬を掻きながら考える。よほど山科さんは寂しいのだろうか。まあ、体調を崩して不安になっている気持ちもわかる。しかしそれにしては必死すぎるような……。
よく考えれば、朝から山科さんの様子はおかしかった。普段の山科さんがいくら優しいからといって、紀夫だけに手作りパンをくれるだろうか。さらに、料理も掃除も手伝ったのは紀夫だけである。紀夫の評価が山科さんの中で、紀夫の評価が高騰していてもおかしくはないだろう。
うん? もしかしてフラグ立ってる……?
紀夫はにやつきそうになるのを抑えつつ、再び腰を下ろす。
「そ、そういうことならここに残ろうかな……」
本当にやばそうなら、この場でピーちゃんを呼び出し魔法を使うまでだ。ピーちゃんの存在をあまり他の人に知られてはいけないというのは、あくまで努力目標である。真面目に危ない状況なら、ピーちゃんも魔法の使用を許可するだろう。
山科さんはホッと胸を撫で下ろす。
「よかった……。前に速見君が言ってたの。山の中で迷子になったりしたら、むやみに動き回らずに一ヶ所に留まった方がいい、って」
……あれ? おかしいな? フラグはどこに行ったのかな……?
紀夫の気も知らず、山科さんは続ける。
「今さら気付いたんだ……。速見くんが、いつも私が危なくないように考えてくれてたってこと。私、速見君に酷いことしちゃった。私なんかの体だけが目当てで、こんなにきちんとやってくれるわけないじゃない。どうしてこんなにたくさんもらってたのに、わからなかったんだろう。速見君がいないと、胸に穴が開いてるみたい。寂しいし、怖い。こんなに好きなのに、どうして私は速見君を拒んじゃったのかな……」
逆にいえば今一緒にいる紀夫は全く役に立っていないということなのだが、事実なので仕方ない。あの理科オタクはオタクなりに知識を活かして、山科さんをエスコートしていたらしかった。
「私って、ほんとバカ……」
山科さんは自嘲するように笑う。そんなさやカッスのようなことを言わなくてもいいだろうに。そう紀夫は思ったが、落ち込んでいる山科さんにどんな言葉を掛けたらいいのか、見当もつかない。
速見なら、山科さんに掛ける言葉を持っているのだろうか。紀夫ではなく、速見なら。紀夫がこの場にいるのが、酷く場違いに思えた。
ヒーローは、こういうときに現れるものだ。勢いよく山小屋の扉は開けられ、光が差し込む。
「明里!」
速見は山科さんの名を呼んで山小屋に飛び込む。「速見君!」と山科さんは立ち上がり、二人はがっしりと抱き合った。山科さんは速見の胸に顔を埋めて涙を流す。
「ごめんね、速見君。私、速見君に酷いことしちゃった……」
「いいんだ。俺も、明里に酷いことしたから……」
いつの間にか外の雨は止んでいたようだった。開かれたドアから小屋の中を照らすのは、燦々とした太陽の光。
二人はお互いの胸中を吐露する。
「今日、一人で勝手なことして、やっとわかったの。速見君がずっと私のことを守ってくれてたってこと。それから、速見君がどんなに私を好きかってこと。そして、私が速見君を大好きだってこと」
「俺は、ずっと不安だったんだ。明里が本当に俺のことを好きでいてくれてるのかなって。もしかして、
義理で付き合ってくれてるだけなんじゃないかなって。でも、そんなことを考えてた俺が馬鹿だったんだ。明里はこんなにも、俺のことを待っててくれたんだから」
速見は山科さんの潤んだ瞳を見つめる。山科さんは笑顔で顔を上げ、もう一度強く速見に抱きついた。
「私、もうどこにもいかないから。速見君の隣は、私の指定席だから」
「俺も、もう明里の手を離さない……」
抱き合う二人の姿はまるでドラマの主人公とヒロインのようで、不覚にも紀夫はそのシーンを美しいと思ってしまった。
「え~っと長谷、あんたは大丈夫?」
ドアの影から顔を出した槇島が、遠慮がちに尋ねる。槇島も山科さんと速見が自分たちの世界に入っていたため、空気を読んでいたらしい。いつもそうすればいいのに。槇島と速見は雨が弱まるのを待って、紀夫と山科さんが避難しているであろうこの小屋を目指して東の山道を登ってきたのだった。
山科さんと速見の様子をぼんやりと見ていた紀夫は我に返り、返事をする。
「見りゃわかるだろ。大丈夫だよ」
「私には大丈夫には見えないけど……」
困惑した表情で槇島は言い、紀夫は異常に気付く。紀夫が座り込んでいる土間に、こんもりと金貨の山ができていた。紀夫の体に隠れながら、必死にピーちゃんが手を伸ばして金貨を回収している。どこから持ってきたのかピーちゃんは少しずつ金貨を古臭い皮袋に詰めていた。無意識に紀夫は壁ではなく、地面を殴り続けていたらしい。紀夫の中の嫉妬マスクは、仕事を忘れていなかったようだ。
「長谷も、ありがとうな。明里をこの小屋まで案内したの、長谷だろ?」
思い出したように速見は紀夫に礼を言い、慌てて紀夫は前に出て金貨の山を体で隠す。
「お、俺は当然のことをしたまでだ」
「私も長谷君には感謝してるわ。ありがとう」
速見に続いて山科さんもお礼の言葉を述べる。山科さんの笑顔は眩しくて、紀夫はとても直視できなかった。どうして俺はこの笑顔を独占できないんだろうなあ……。