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槇島心美が異変に気付いたのは、雨が降り出す直前だった。いい加減速見くんと山科さんを二人きりにする算段を建てなければならないのに、長谷の馬鹿ときたらどこをほっつき歩いているのか姿が見えない。そこら中を探し回って、ようやく長谷と山科さんが神社の境内にいないことに気付いた。
心美は歩き疲れたのか賽銭箱の前に座って休んでいる速見くんに声を掛ける。
「ねぇ、長谷と山科さんがいないんだけど!?」
「えっ……? 明里と長谷が!?」
速見くんは腰を浮かし、境内を見回す。いつの間にか境内からは長谷と山科さんの声が消えて、静寂の帳が降りていた。
「二人ともどこに行ったんだ……!? 手分けして捜そう!」
速見くんとともに心美は境内へ飛び出していった。
それなりに広いといっても、小さな無人島の神社だ。行ける場所は限られる。しばらく捜すと痕跡は見つかった。心美は速見くんを神社の裏に呼ぶ。
「速見くん! こっち来て!」
「なるほど……。ここから落ちたのか……」
神社裏には山科さんが持っていたバッグが落ちていた。眼下の森へと続く坂では、よく見ればそこを人が転がったかのように不自然に草木が折れ曲がった跡がある。大方、山科さんが足でも踏み外して坂を転げ落ち、長谷も巻き込まれたのだろう。
いつの間にか雨も降り出していた。最悪だ。速見くんと山科さんを仲直りさせようという目論見が完全に崩壊している。
心美は「長谷~! 山科さ~ん!」と下に向かって呼びかけてみるが、返事はない。
「この高さなら死んではないと思うけど……。私たちも降りてみる?」
心美が訊くと、速見くんは首を振って否定した。
「やめた方がいいよ。二重遭難になる」
「そうね……。きっと長谷がなんとかするわ」
長谷にはピーちゃんがついている。最悪の場合でも、山科さんだけは助けるだろう。日頃、言動や行動に難のある長谷だが、さすがに女を見捨てて逃げるほどクズではない。
心美の発言を聞いて、速見くんは顎に手を当てて考える。真剣な表情を浮かべる速見くんは古代ギリシャの哲人のようで、ニンニク鼻の紀夫より数倍はかっこよかった。
やがて速見くんは顔を上げて言う。
「とにかく、僕らは雨で濡れないようにしよう。風邪引いちゃまずい」
「そうね……。まずは二人からの連絡を待ちましょうか。二人とも携帯電話は持ってるわよね?」
「いや……。持ってたら僕らに電話してくるんじゃないかな?」
速見くんの言う通りだ。二人が携帯電話を持っているなら、連絡がないのはおかしい。
心美は山科さんのバッグを確認する。中にはかわいらしくビーズでデコレートされたスマートフォンが入っていた。
長谷の方はコテージに忘れてきたか、持ってきたのに存在を忘れているかだろう。そういえばキッチンで長谷の古臭いピアノブラックのガラケーを見たような気がする。全く、馬鹿な男だ。
心美は速見くんに従い、神社の軒下に避難する。雨はどんどん強くなり、数メートル先が見えないくらいになった。
「むやみに動き回ってないといいんだけど……」
心美の隣で、速見くんが心配そうにする。こうなったら馬鹿でもクズでも長谷に期待するしかない。心美は不安で落ち着かない胸を押さえながら、雨が弱まるのを待った。
○
紀夫は山科さんと、森の中を彷徨っていた。雨はすぐにバケツをひっくり返したような豪雨になるが、山科さんは意に介した様子もなく、濡れながら草むらを掻き分けて森の中を歩き回る。森の中で木の葉が雨を和らげ、直撃を受けずに済んでいるのだ。紀夫はぜいぜいと荒い息をつきながら、必死で山科さんの後を追うはめになった。
「……なんか慣れてる感じだね」
紀夫は先行する山科さんに声を掛ける。このまま置いて行かれそうで不安だった。
「うん? よく速見くんが連れてってくれてたから」
山科さんによると、速見は山科さんが突発的に「山に行きたい」「海に行きたい」「牧場に行きたい」と言い出すたびに、本当に連れて行ってくれていたのだという。そのため山科さんもこうやって大自然の中を歩いたりするのは慣れているのだとか。山ガールというやつだろう。
「去年は剣山にも登ったよ」
朗らかな声で山科さんは言った。紀夫は「そ、そうなんだ……」と答えるので精一杯である。子どもの頃からインドア派で遊びといえばアニメかゲームだった紀夫は、田舎育ちとはいえ山にも海にも縁がない。
「でもこんな雨の中歩くのは初めて! こういうときは速見くん、絶対に行かせてくれなかったから」
「……」
もしかして紀夫たちは今、非常に危険なことをしているのではないだろうか。理由もなく速見が雨の日の山歩きを禁止するはずがない。なんとなく危ないんだろうなあ、という程度は紀夫にもわかる。
紀夫の気も知らず、山科さんは上機嫌に紀夫の前を歩いている。機嫌がよすぎて、雨で上着が濡れてうっすらとピンク色のブラジャーが透けているのにも気付いていない。お子様体型で胸もさほど大きくない山科さんがブラを露出している姿は、ギャップがあって非常にエロかった。危機的状況であるが、エロには逆らえない。紀夫はしばらく下着のエロスを楽しんだ。
○
「ねぇ……東に出れば山道に出るんだよね?」
前を行く山科さんが尋ねる。紀夫は答えた。
「そのはずだよ」
もうこのやりとりも何度目かわからない。かなり歩いたはずなのに、一向に山道は見えてこなかった。小さな島なので少し歩けば道を見つけられるはずなのだが。
道を通り過ぎてしまったというのも考えにくい。それならとっくの昔に海岸まで出ているはずだ。何かがおかしい。紀夫はハッと思い至った。
(まさか……悪魔に妨害を受けているのか?)
そうだ。敵が何もしてこないとは限らないのだ。むしろ妨害をしてくる方が自然である。
ここまで考えて、紀夫は頼もしい味方の存在をすっかり忘れていたことに気付く。紀夫は無言で前方を歩く山科さんに気取られないように、小声で呼びかける。
(ピーちゃん、いるか?)
(はい、ここに)
ピーちゃんも察してくれて、草むらから山科さんにはわからないようにひょっこりと顔を出す。
(ずっとこの森から出られないんだけど、何か魔法を使われてるのか?)
紀夫の質問に、ピーちゃんはパチクリとまばたきをする。
(はぁ……魔法ですか?)
要領を得ない様子で、ピーちゃんは訊き返す。紀夫はドヤ顔で自説を披露した。
(きっと悪魔の仕業に違いない! ピーちゃん、なんとかできないか?)
ピーちゃんは困惑の表情で否定する。
(いえ……。魔力は全く感じません。ただ迷ってるだけですよ)
(こんな狭い島で迷うわけないだろ)
紀夫はそう言うが、ピーちゃんは困った顔をするばかりだ。
(現実問題、迷っています。わかりやすい目印がないため、同じ所をグルグル回っているのです。リングワンダリングと呼ばれる現象ですね)
どうもこの森は渦巻き状に木が茂っているらしく、何も考えずに木を避けて歩いていれば自然と同じ所をグルグル回ってしまうらしかった。
紀夫は呆けたような声を出す。
(え……? 本当に?)
(嘘をついてどうするのですか。繰り返しますが、この周囲に全く魔力は感じません)
冷静に考えてみれば、悪魔と契約している可能性がある速見は、こんな嫌がらせをする理由が全くない。自分と山科さんで迷うならともかく、紀夫と山科さんを森の中で迷わせて、速見に何の得があるのか。
どうも紀夫はまるで話にならない珍説を開陳していたようだ。紀夫は急に恥ずかしくなってうつむく。雨で冷えているはずなのに体が熱くなった。しかし紀夫もここで落ち込んでいる場合ではない。
気を取り直して紀夫はピーちゃんに訊いた。
(じゃあどうすればこの森を抜けられる? 俺の魔法が必要か?)
やたら魔法を使いたがる紀夫に、ピーちゃんの反応は冷淡なものである。
(いえ……この程度で魔法は必要ないでしょう。もう少しすれば右手に山小屋が見えるので、そちらに進んでください。今までも何度か通ったのですが、雨で見えにくくなっているせいで見落としています)
(わかった……。また見落としそうになってたら言ってくれ)
(御意でございます)
ピーちゃんは姿を消し、紀夫は血眼になって右手を見ながら進む。しばらく行くとピーちゃんの言った通り、右に小さな山小屋が見えてきた。すかさず紀夫は山科さんに進言する。
「あっちに小屋みたいなのがあるよ! とりあえずあそこに避難しない?」
「あ……本当だ。じゃああそこでちょっと休憩しようか」
山科さんは山小屋の方に駆けていく。慌てて紀夫も足を速めた。