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すぐにボートの準備は終わり、紀夫たちは二隻のボートに分乗して無人島に渡ることになる。無人島といっても海岸から泳いで渡れる程度の距離しか離れていないし、島には銅像やら神社やらが建っていて、普通に観光地である。紀夫は万が一のため待機所で居眠りしている管理人に声を掛けてから、山科さんと速見をボートの場所まで案内する。
「島の一番高いところに神社が建ってて、お花畑があるんだって。今の時期が一番綺麗らしいわよ」
ボートを前に槇島が山科さんと速見に説明する。槇島の記憶だと雨が降り始めるのは三十分後だ。山科さんが料理やら掃除やらに時間を掛けたせいで、タイムスケジュールがギリギリになっていたのである。島で山科さんと速見を安全に置き去りにできる場所をこっそり探す予定だったが、時間がなさそうである。
ボートは二人乗りなので順当に行けば紀夫は槇島と乗る予定であった。しかし山科さんは槇島が乗ったボートの方に行ってしまう。
「女子だけでボート漕ぐのはきついだろうから、私は長谷のボートに乗るわね」
慌てて槇島はボートから下りようとするが、山科さんは槇島を引き留める。
「速見君も長谷君もそんなに体力ないでしょう? 私たちで漕いでも同じだよ」
山科さんの言葉を聞いて、紀夫と速見はすごすごともう一隻のボートに向かう。頼りにされていない男子二人組だった。
実際海に出てみると、紀夫たち男子組より槇島と山科さんの女子組の方が、ボートのスピードは速かった。筋力自体は男子の方が強いはずだが、一向に漕ぎ方のコツを掴めない男子たちを尻目に槇島と山科さんはどんどん先を行く。
速見と交代で苦労してボートを漕ぎながら、紀夫は言う。
「……海じゃ何が起きるかわからないからな、何かあったら山科さんを助けろよ」
速見は死んだ魚の目で弱々しく首を振る。
「そりゃ無理だ。俺、泳げないから」
ちょっと待て、初耳だぞ!
無人島の砂浜にボートを引き上げ、まず紀夫たちは島の中央にある神社を目指してみる。無人島といっても結構広く、一周すれば半日は掛かると聞いている。神社は島の中央の丘にあって、四人は風景を楽しみながら緩やかな石段を登る。
紀夫たちが住んでいる町は同じ四国でも内陸部で、海などはない。どこまでも山が広がるばかりだ。そのため海に臨む石段はかなり新鮮で、風景を楽しむことができた。
そんなに高いところにある丘ではないので、やがて一向は頂上に到達する。古びた神社の周囲に黄色や白の花が咲き乱れていて、非常に美しい風景だった。潮風で痛んだ鳥居もどこか風情があり、幻想的な風景を作り出している。
「すご~い! 香川にもこんなところがあったんだね!」
山科さんは感心したようにキョロキョロと辺りを見回し、槇島が解説を加える。
「ここの管理人さんが趣味で作ったんだって。知る人ぞ知る名所らしいわよ」
今は背の低い花ばかりだが、夏になればヒマワリ畑に変わっていて、非常に鮮やかな光景を楽しめるという。境内はそれなりに広かったため、しばらく四人は自由に散策する。
山科さんは神社の裏まで足を伸ばし、危険だと思った紀夫はついていく。神社の裏は急な勾配になっていて、足を踏み外しでもすれば裏手に広がる森に迷い込んでしまうのだ。
「へぇ~、こうなってるんだ」
山科さんは崖のようになっている勾配に近づき、物珍しそうに眼下に広がる森を見下ろす。島のほとんどはこの森で、砂浜近くの丘のみが神社として利用されていた。
紀夫は山科さんがあまりに勾配に近づき過ぎていたので、駆け寄って注意する。
「山科さん、あんまり近づくと危ないよ?」
山科さんはちゃんと返事をしてくれるものの、どこかおざなりだ。
「大丈夫、ちゃんと足下は確認してるから。あ、何か動いた」
山科さんが指さした方を見ると、灰色のタヌキのような生物がひょっこりと顔を出してこちらをうかがっていた。
「タヌキってこんなところにもいるんだな……。初めて見た」
紀夫が言うと、山科さんはふるふると首を振る。
「ううん、違うと思う。きっとアライグマだよ。この前テレビで見たのにそっくりだもん」
『あらいぐまラスカル』でブームになって以来、ペットとして輸入されたアライグマは捨てられたり逃げ出したりして日本各地で野生化しているという。
紀夫たちが住む四国の田舎でも例外ではなく、紀夫は近所の農家が「アライグマに田んぼを荒らされた」と嘆いているのを聞いたことがある。なんでもアニメの影響か、子どもが餌をやったりして匿うので、なかなか駆除が進まないのだとか。やっぱ昔のアニメって糞だわ。
山科さんは手持ちのバッグからクッキーを取り出し、しゃがみ込んで「おいで」とアライグマに呼びかける。山科さんがクッキーを割って地面にばらまくと、アライグマは警戒しながらも近寄ってきて、クッキーを食べ始めた。
「速見くんがいると野生動物には近づいちゃいけないって言って、触らせてもらえないんだよね」
そう言いながら山科さんは、ポリポリとクッキーを食べるアライグマに手を伸ばす。
「よしよし、いい子ね」
これがいけなかった。アライグマは態度を豹変させて牙を剥き、山科さんに襲いかかる。
「きゃっ!」
山科さんは手を噛まれて体勢を崩す。
アライグマの成獣は結構凶暴だ。畜生並みの脳みそとパワーを併せ持つため、とても人間の手に負えるものではない。アニメでも人を襲ったり畑を荒らしたりしたから森に捨てられたわけだし。なんで美談になってるんだろうね、ラスカル。
「危ない!」
紀夫は山科さんに手を伸ばすが、もう遅い。紀夫の貧弱な体では重力に逆らえず、紀夫は山科さんと一緒に勾配を転げ落ちた。
坂道はなかなかに長かった。二人は重力に引かれるまま転落を続け、やがて蔦やら葛やらが絡まり合った茂みに飛び込んでようやく静止した。打撲と切り傷で全身が痛い。紀夫は全身に巻き付いた蔦を払いながら起き上がり、山科さんに尋ねる。
「痛てて……。山科さん、大丈夫?」
「私は大丈夫。長谷君こそ、傷だらけじゃない! 大丈夫なの!?」
山科さんは心底驚いているといった風に言った。紀夫は打ち所が悪かったのか至る所にあざを作り、全身くまなく細かい切り傷、擦り傷だらけだった。
対する山科さんはというと、ボロボロの紀夫とは対照的に、傷らしい傷はない。これが紀夫が山科さんをかばった結果というなら紀夫の面子も保たれるが、残念ながら違う。転がり初めてすぐに山科さんは紀夫の手を離し、紀夫と山科さんはバラバラに転げ落ちた。山科さんは紀夫のことなど全く頼りにしていなかったらしい。悲しい現実だ。
ではどこで差がついたかというと、同じように勾配を転がっていても、山科さんはうまく柔らかい雑草が生えたところを転がって、紀夫は小石や樹木に体当たりしていったのだった。つまるところ、二人の運動神経の差である。山科さんは意外とアウトドアもいけるらしい。
「俺は大丈夫さ。このぐらい、慣れてる」
紀夫は涙目で作り笑いを浮かべる。大丈夫、憧れの山科さんが、速見のあんちくしょうと手を繋いで歩いていたのを見たときと比べれば、全然痛くないよこんなの。
「そう? とっても痛そうに見えるけど……」
山科さんがちょこんと首をひねる。紀夫の全身の傷からは血が滲み、心の傷はずきずきと疼く。しかしこの痛みに耐えてこそ男なのだ。
「それよりどうする? 神社の方まで登るのは大変そうだぜ」
紀夫は山科さんにそう言いながら上を見上げる。下が柔らかい草地なので大怪我をせずに済んだが、この坂道を登るのは無理だ。ひょっとしたら体重が軽い山科さん一人なら何とかなるかもしれないが、ひ弱な紀夫には確実に不可能である。
紀夫は「お~い!」と上に向かって叫んでみるが、反応はない。槇島と速見の救援は期待できそうになかった。森の中で紀夫は山科さんと二人きりだ。山科さんと速見を二人きりにする予定だったのに、なんということだ。
「う~ん、回り道ってあるのかな?」
山科さんが唇に手を当てて困った顔をする。紀夫は下調べで見たこの島の地図を必死に思い出す。
「確か東の方に出れば山道があったような……」
紀夫が考え込んでいるうちに、ぱらりという音が森の中に響く。とうとう雨が降り出したのだ。「天気予報は晴れだったのに……」と山科さんは空を見上げる。
雨が木の葉を叩く音を聞きながら、山科さんは提案した。
「とりあえず雨を凌げる場所を探さない?」
「……それしかないか」
雨は夜までには止むはずだが、まだまだ強くなる。このまま雨に打たれ続ければ、風邪を引いてしまうだろう。紀夫は山科さんの言葉に従い、移動を始める。今一度紀夫は坂の上を見上げるが、全く人の気配はなかった。