第四話
がばっ。
目が覚めた。鼓動が高鳴ってる。なんだこれ、なんなんだこれ!? 俺は胸に手を当てた。
『私さ、シュンのことが好きなんだ』
くらっとした。あんな可愛い夏燐が俺のことを好きとかはっきり言って現実ねぇよ。幸福すぎて死んじまうっての。俺は夏燐が好きだ。めちゃくちゃ好きだ。超好きだ。ようやく気付いた俺の本心。今すぐこれを言いに行きたい衝動に駆られる。次遊ぶ日っていつだったっけな……とかカレンダー見て確認する。いや今すぐに夏燐の家に行くってのはどうだ? でもそれも引かれるような気もする。くっそ、どうすりゃいいのかわかんねぇな……。
ピンポーン。
その時だった。玄関からインターホンの音が聞こえてきたのは。いや待てまだ午前五時とかそんな時間なんだが。
「はーい、どちら様ですか……」
玄関のドアを途中まで開けて俺は驚愕する。
そこに立っていたのは、夏燐だった。短パンと青いカットソー。
「……来ちゃった」
ほんの少しだけ頬を赤らめ申し訳なさそうに伏目がちにそう言う。くそ可愛い。
「お、おう……いきなりどうしたよ」
俺も緊張してうまく言葉が出てこない。
「うん……えっと……その」
そう言って、もじもじしながら何も言わない。なにこれどういうこと?
「えっとね……シュン」
俺のほうをじっと見る。夏燐は口を開く。
「家出、してきちゃった」
「マジで!?」
驚愕である。いや驚愕とかいうレベルじゃねーだろ。なんでだよ。
「なんでそんなことになっちまったんだ?」
「昨日……シュンが逃げるために、パトカーと電線壊したでしょ。それで静がもう会うなって怒っちゃって。私も、怒っちゃって」
「それで……家出してきたのか?」
「……うん」
「……」
気まずい沈黙が流れる。夏燐がその沈黙を破る。
「ごめん、迷惑だよね……こんな風にいきなり押しかけられても、困るよね」
そしてそのままくるりと反転して帰ろうとする。思わず俺は夏燐の手を取っていた。
「待てよ。べつに迷惑じゃ、ねぇから」
「……うん。嬉しい」
ぐはっ。嬉しいとか言うんじゃねぇよ顔真っ赤になるだろ。
「あーもう。それでもうじき静とかが追ってくるんだろ? どうせ」
「うん。たぶん追ってくる」
しかもそういう話なら、真っ先に来るのはおそらく俺の家。
「じゃ、逃げるしかねーな」
夏燐はきょとんとしている。
「どうした? 逃げるんじゃねーの?」
俺が訪ねても、しばし反応がない。ぼうっと俺の顔を見たままぽつりと言う。
「…………そうなんだけど、なんていうか、嬉しくて」
「……っ!? ……いいから早く後ろ乗れって」
俺は自転車を取り出した。
「法律違反なんだよ、二人乗りって」
私はシュンの腰を持ちながらそう言った。なにこれすごい恥ずかしい。
「わーってるよ。でもどうせ誰も見てないからいいんだって」
「……そうだね」
私はシュンの腰をより強くつかんだ。風が前から当たっている。
「ねぇ、シュン」
「ん?」
そのまま昨日の返事を聞こうとして聞けなかった。怖いんだ、私。振られちゃうのが、怖いんだ。だから私は無言になる。
「なあ、夏燐」
前のシュンがつぶやいた。
「なに?」
「昨日の返事なんだけどさ」
びくっとする。そして、怖くなる。振られちゃうかもって、心配になる。
「……うん」
私は息をのんだ。シュンはぼそっと呟く。
「俺も……好きだよ、夏燐のこと」
ぴたっと、周りの風景たちが全部止まったような気がした。すぐそのあとから喜びがだんだんこみ上げてきて、おなかの周りを飽満させる。
「……! すっごく、嬉しい……」
気づけば私は泣いていた。なんでかわからないけど涙が止まらなかった。
「おいおい夏燐大丈夫かよ?」
シュンが首だけ振り向いて私に問いかける。私は片手で目を拭いながら言う。
「うん、大丈夫。……嬉し泣きだから」
私だって、嬉しくって泣くことができるんだ。そのことがまた嬉しくて、私はますます泣いてしまう。アンドロイドだって、嬉し泣きは出来るんだ。
「私歩きたい。シュンの隣で歩きたい」
私は偶然、本当に偶然、家のガードの隙間をかいくぐることができた。これはきっと神さまがくれた、幸福の時間。でもこの時間はきっと長続きしない。私の体内にある発信機のせいでこちらの居場所はまるわかりだから。そうなるまでの時間でもいいんだ。ただ、シュンと一緒にいたい。
「歩くって、どこを?」
「朝の森の中を散歩って、いいじゃん。ちょっと行った先に見えるでしょ。あそこでいいから行こうよ」
「……いいぜ」
「家出しちまうなんて、ずいぶんやんちゃだな」
少しぎこちなく俺はそう言った。うるせぇ緊張してんだよ。
「うん? そうなのかな。私ってやんちゃ……なのかな」
「俺に聞くなよ」
俺は笑った。
「だって、シュンともう会うなって言われたんだよ? そんなの……イヤじゃん」
俺はぽりぽりと頬をかいた。どうしてそんなこと臆面もなく言えるんですかね……。
「まあ、前にケータイも壊しちまったしな」
前科はある。
「気にしてないよ。ぜんぜん気にしてない」
「そうは言ってもなぁ、壊しちまったもんは、壊しちまったんだし」
「どうせケータイなんて使わなかったし、それにシュンのその体質には助けられてばっかりだから。おあいこってことでいいでしょ」
『その体質には助けられてばっかり』
不意な言葉が俺の心をすくい上げる。俺の返事はまたぎこちなくなる。
「……そういうことでいいか」
夏燐はにっこりと笑った。
「うん、いい。……ところで、さ」
突如真剣さを帯びる夏燐の声。
「なんだ?」
言いづらそうに少し身をよじる。ほんのちょっと顔を赤らめる。
「わ、私たち……恋人に、なったんだよね」
「そ、そう……だな」
「じゃ、じゃあ、さ」
またもじもじする。ふうっと息を吸う。恥ずかしそうに、そっぽを向く。
「手、とかつないでも、いい……かな」
俺も顔を背ける。
「……おう」
カチコチになりながらも、なんとか指を絡める。……手汗大丈夫かな。触れた夏燐の指はほっそりしてて、握っているその感触は柔らかかった。
「……なんか緊張、するね」
「……そう、だな」
「……」
「……」
何話せばいいのかわかんねぇ。つーかまともに顔見れねぇ。
「ねぇ、シュン」
うっすらと木漏れ日が夏燐を照らしていた。夏燐が沈黙を破る。
「どうした?」
「ちょっと、私の頼み事聞いてくれるかな」
「いいぜ」
俺が安請け合いすると、夏燐はふふっと笑う。
「とっても大事なお願いだよ? ホントにホントにホントに、大事な頼み事」
「いきなりどうしたんだ? いったい」
「いいから。聞いて。君の彼女の言うことを聞いてください」
「ああ、わかった」
夏燐はそこで一回息を吸う。
「もしも、私が、さ。君に……ずっと隠し事をしているとしたら、どう、思うかな」
「なにか隠し事してるのか?」
俺は聞いた。夏燐はむっとする。
「そ、そうじゃないって! あくまでも仮定、仮定のはなし。……それでシュンは、どう思う? 私が何か隠してたら」
「そりゃそんなの……」
俺は少しだけ考える。
「……隠し事されてるってのは、やっぱ少し悲しいな。でも隠さなきゃいけない理由があるから、隠し事なんだろ。だから俺は別段何も思わねぇよ。仕方ねぇって思う」
夏燐はぱちくり、と瞬きをした。
「そ、そうなんだ……」
「おう。それで頼みってのはなんなんだ?」
「まだダメ。二つ目の質問があります」
「なんだそれ」
俺と夏燐は笑いあう。
「ねぇシュン、私のこと好き?」
「ああ、好きだよ」
今度は緊張せずに言うことができる。
「どれくらい好き?」
「すげぇ好き。超好き」
「なにそれ、全然実感こもってないじゃん」
「恥ずかしいんだよ、いちいち言わせんなっての」
「そう、なんだ……じゃあ、シュンは私のことが大好きってことで、いいの?」
「……そうだって言ってんだろ」
夏燐はつないでいた手をほどいて、俺に向き合った。ほんの少しだけ笑って、言う。
「これからどんなことがあっても、私のことを好きでいてくれる?」
「当たり前だろ、そんなの」
俺はさらりと言う。さらりと言えてしまうくらい、俺は夏燐のことが好きらしい。
「簡単に引き受けるんだね」
「だって仕方ないだろ、もう夏燐のことかなり好きになっちまってるんだし。それが隠し事の一つや二つで変わるとは到底思えねぇ。隠し事をしてたって、俺の目の前にいる夏燐は夏燐なんだろ? じゃあそれで充分だろ」
俺の言葉に、夏燐はじわっと涙を目にためる。
「おいおい!? 泣くほどかよ?」
そのまま夏燐は俺のほうに倒れこむ。女の子の柔らかな重みが俺の胸に乗っかる。
「……うるさい。嬉しいんだもん。泣いたって、いいじゃん」
「……」
俺はなんとなく、夏燐の頭を撫でる。夏燐は嬉しそうに笑って、俺を見る。ぬくもりが、すぐそばにある。
「ねぇ、シュン。キスして」
「頼み事は一つじゃなかったのか?」
俺が笑って聞く。
「もう、いいでしょ。ずっと私のことを好きでいることを誓う、契約のキス」
「……わかった」
簡単に言っちまったけど、ファーストキスなんだよな……。とたんに俺は緊張し始める。
俺と夏燐は向かい合う。俺のすぐ目の前には、この世のモノとは思えないほど整った夏燐の顔がある。大きな黒目、白磁みたいに透き通る素肌。形のいい、桜色の唇。
「これからどんなことがあっても、私を愛すると誓いますか」
結婚式みたいに、ほんの少しだけ冗談めかして。
「……はい。誓います」
「ではここに、誓いのキスを」
夏燐は頬を赤らめながら目を閉じる。俺は夏燐の華奢な肩に両手をかけた。一度深呼吸をしてから、ゆっくりと顔を近づけていく。一瞬一瞬がコマ切れのように緩慢に感じられる。ほんの少しだけ顔を傾けて、俺も同じように目を閉じた。鼓動が馬鹿みたいに脈打っている。もしかしたら夏燐に聞こえているかもしれない。聞こえていたらカッコ悪いなとかどうでもいいことを考える。高まる興奮の中、唇と唇がちょうど触れ合おうとした、まさにその時――
「……夏燐?」
異変に気付いたのはすぐだった。俺が手をかけていた肩の感触が弱まり、やがて、なくなっていった。ゆっくりと、しかし鮮明に映像は俺の前を立ち行く。夏燐の姿が俺の手のひらから離れていく――夏燐の身体から力がなくなる。まるで、電池が切れてしまったかのように。
地面と身体がぶつかるやるせない音が響いた。眼前には、ただ力なく横たわる夏燐の姿だけがあった。嘘だろ、嘘だろ……?