花びらに唇寄せて
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負(フリーワンライ)提出作品の加筆修正作品。使用お題は「花弁にキス」
世に魔女は数多く在れども、その性別が男である者はいったいどれだけの数いるだろう。
歴史に名を残す魔女の中で、その存在が男として知られる魔女は片手で足りるばかり。魔女というのはどういうことか女が多く力を継承する。しかし男の継承者もまた確かに存在した。
男であろうが女であろうが魔女の力の継承に問題はない。
継承は魔女が決めるとも、魔女が持つ力が決めるとも言われている。詳細は誰も知らない。魔女たちはそうしたことについて多くを語らないからだ。
だから魔女には謎が多い。この森に住む魔女もまた、そうした謎の多い魔女の一人であった。
「魔女殿、魔女殿! 夜分に失礼致す! 魔女殿! どうぞお応えください!」
ドンドンッと薄っぺらい、閂がかかっただけの戸を叩く音があばら屋の中に響く。かれこれもう四度か五度、同じことを繰り返されている。
小屋に住む魔女を尋ねるのは男の声。しきりにここに住まう魔女へと呼びかけ、いっかな諦める気配を見せない。中年ほどと思われる男の声の合間には、火の燃え上がる音が微かに聞こてきていた。きっといくつか灯りを持ってきているのだろう。そんな些細なことすらも魔女には不快で自然と舌打ちを一つ落として、ベッドを軋ませた。
口角をぐいっと下げて、小鼻に皺を寄せる。そんな表情を作って魔女は戸の横、壁に引っかけていたローブを肩に羽織った。
閂を抜いて戸を開けると、まだ戸を叩こうとした男の手が空振りを一つ経て、空中でぴたりと止まる。
男の目が魔女の顔を捉えた。同時に魔女はしつこい訪問者たちの顔を確認した。
「うるせぇんだよ……いったいこんな刻限になんだってんだ、森の外の兵士が。しかも、他にもずらずらといやがるし。森の中を荒らし回りやがって。こちとらお前らの気配に随分と苛ついてんだ、手短にしてもらおうか」
「ハッ、申し訳ありません、魔女殿!」
顔を覗かせた魔女は世に少ない男の魔女だった。その名はディエス。魔女の号は辺垂の魔女と。三十も中頃に見える男は、いかにも不機嫌そうな顔でぼさぼさの茶に灰斑の髪を煩わしげに掻き上げる。男盛りに見えようが、魔女としてもう三十数年以上を森で過ごしている男だ。
そして当然ながらこの森の魔女であるディエスには特別な力がある。
魔女たちはそれぞれ特別な力を持つが、役割や使命によってそれとは別の力が得られるのだ。
それは彼が先程言葉にした通り『森の中にいる人間の気配を察知する』というものだった。これは代々この森の魔女が継承する能力のようで、ディエスの先代魔女も、森の気配には殊更敏感な人だった。それ以外にはとことん気配に疎かった。
ちらりと懐かしい顔を思い浮かべたのは一瞬。ディエスの意識はすぐに目の前の事柄へと戻る。
敬礼を交えて謝罪する兵士は一人だけ。だが彼の背後には他に四人の兵士がおり、彼らは皆手に松明を握っていた。ディエスが察知していた数と合致する。この能力に誤差は生じない。
この昼でも暗い森を行くには松明は必要不可欠。彼らはそれを備えていったいなにをしているというのか。
森の中に散っている人数は多い。三十五人か。森と町の入口と見られる場所からそれぞれ広がるように森の中を探っている。まるでなにかを探しているような動きだ。
森の外程近くに住むディエスは、それでも外界との接触を断っているために彼らの事情にはさっぱり通じていない。いったい何の用だと訪ねれば、兵士は明瞭な声で松明に照らされながら応えた。
「実は本日昼過ぎ、町の大店の主人が奴隷に殺されたのです。犯人は夕刻前に森へと逃げ込み、我々はその犯人を追っているのですが、この犯人が魔女殿の元を訪ねてはおりませんか? 短剣を持ったまだ八つか九つそこらの少年です」
「子供……? いや、俺のところにはお前ら以外来ていない。が、そういえば少し前に森の気配が揺れたな。小さな子の気配もあったが……」
眉を寄せ思い出すように、あれがそうかと低い声で呟く。
数時間前に感じた気配が兵士のいう奴隷の少年である可能性は高い。森に入ってきた小さな子供の気配は確かに感じていた。それを追いかけて大人の、兵士たちが入ってきたのは少し遅れてだった。
奴隷がなにを考えて大店の主人を殺したのかは知らないし興味もないが、森に逃げ込むとは馬鹿なことをするものだ、と内心で呆れ返る。
「だがその犯人捜し、潔く諦めるんだな。小さな気配はあったが、少し前にその気配は途絶えた。森の獣に食われたか、なにか事故があってか死んだだろうよ。殺された主人とやらの親族には悪いが諦めてもらうんだな」
「なんと……。情報提供感謝致します。夜分に失礼いたしました。直に他の班も撤収させますので、今暫く森を乱すことをお許しください」
ハンッと息を吐いて鼻を膨らませる。
「さっさとお前ら人間は森の外に戻れ。ゴクローサン」
素っ気なく言い捨てて、乱暴に戸を閉めた。
彼らの気配はすぐに家の前から遠ざかっていく。そして彼らが他の森に散った人間たちに撤収の指示をだし、彼らが完全に森から出るのはいったいいつになることやら。眠れなさそうだとローブを床に脱ぎ捨てて、竈に火を入れた。
ディエスはまだ、魔女の力を継承する以前から筋金入りの人間嫌いだった。
人の輪の中で上手く渡り歩くことができずず、また渡り歩く者が得意げな顔をしているのを見るのも嫌いな我が儘な糞餓鬼だったと述懐する。当時から己が糞餓鬼と呼ばれる小生意気でこましゃくれた子供であったのを認識していた。
しかも不運なことにその糞餓鬼は当時、森に住む魔女によって魔女の後継者として見出されてしまった。
彼女が言うには「後継者とわかった」そうだが、ディエスにはこの感覚はまだわからない。
それはさておき、この後継者と定められたことが、彼の人間嫌いに拍車をかけた。
先代森の魔女は善良だったが、森を犯す者には容赦がなかった。というのもこの辺垂の魔女が持つ長い歴史がそうならざるを得なくしていた。
隣国との曖昧な国境線を形作る巨大な森。余りにも木々が大きく育ち、日光を遮る天井を作り上げた。森の規模は小国一つ二つに相当し、道標となるものも、通り抜けるための道もないため迷宮のように出口にたどり着けない。と、人間は思っているようだが、その実ここは世界有数の魔力溜まりであった。
魔女が持つ魔力。それはなにも魔女の体内で生み出されているわけではない。世界に存在する魔力を体内に取り込み、己の物として染める。魔女の力の継承とは魔力の受け渡しではなく、役目の譲渡、或いは任命という意味合いが強いのだが、その事実を魔女以外が知ることはやはりないのだ。
魔女にとって魔力溜まりとは大きな問題を来すようなものではない。魔女によっては常に外から魔力を取り入れ続ける者がいるほど。そのような者には魔力溜まりは絶好の場所なのだ。
だがそれは魔女にとっての話。通常、常人は魔力への抵抗力を持たない。魔力溜まりに入り長くいると、そこに満ちる魔力の流れが方向感覚を狂わせ、或いは感覚や時や場を歪ませ、物によっては急激な成長を促す。そうした数々の要素が重なり、隣国との公路の形成を阻害した。
このためこの国と森を越えた北方に位置する隣国との交易は互いの建国からこれまで一切行われていない。
森の木々が大きいのは強い魔力の影響を受け続けた結果であった。
森の魔力は強く、大きく、常に外に向かって放出される。それがこの魔力溜まりの特徴。魔女はこれを御し、森の拡大を抑える存在だった。それでも森はじわじわと広がっている。何代も前の魔女の頃よりも今の森は広がっているらしい。
らしい、というのはディエスがそのように先代から伝え聞いたからだ。
彼女は様々なことを教えてくれた。
拡大する森を、外の人々は何度か強引に対処しようとしたのだとか。具体的には森を焼いたり、木々を伐採したりとしたのだ。自国の、己らの生活を変え、ひたすらに益を求めた。森に住む獣たちにも手をかけ、魔女はこうした人々の傲慢さに哀しみと怒りを覚えた。
森の成長は魔力溜まりが原因とは言え、これ自然なもの。森が種を落とし、根を広げ、芽を出した姿。ただ成長が特別速いだけだ。それを人間のために少しでも抑える魔女がいるというのに、人間たちは勝手にも魔女の領分を侵して暴れた。
止める魔女を喧しい、町の発展のためだと言って殺した人間もいたそうだ。
魔女が失われた十数年間に森はかなりの成長を見せ、その当時森の近くにあった人家を呑み込んだ、と。
そうした歴史的背景と因縁が絡み、先代魔女もディエスも人間を好くことはなかった。今でこそ過去の行いからか、森に手を出そうと考える者はいなくなったが、それでも森の中にある恵みを欲して侵入してくる輩は後を絶たない。
人間には辟易していた。関わりを持つ気力などとうの昔に尽きた。そんな彼が唯一文を交わす存在がいる。森の北辺に住む魔女だ。
彼女との手紙は先代の先代、そのずっと前から続いている。向こうがどのような人物であるか、ディエスは手紙で知るばかり。いったいもう何百年と魔女で居続けているのかも知らない。
森の南方に住み、こちらの国の魔女に組み込まれるディエスと、北部の隣国に組み込まれる魔女とでは顔を合わせる機会は巡ってこない。
ただ二人の存在は対になっているのだろう。北部の森のことはわからないが、彼の魔女の存在だけは遠く離れたディエスも感じている。見えない糸にも似た繋がりが魔女の力を得て生まれたのだろう。
夜分の森荒しの兵士たちの愚痴を彼女に向けた文として認める。
――兵士と来たら、店の主人を短剣で刺し殺したという子供一人を追いかけて森に入ってきたらしい。
あれだけの人数を揃えて森の外で小さな少年一人捕まえられないのだからな。
全く一晩中落ち着かず気配を感知しているこちらとしては不満ばかりだ。
子供は気づけば気配を消していたが、兵士たちはよくない。
眠ることもできず、全くいい迷惑だったよ。
辺垂の魔女――
認めた手紙を、手の平ほどの高さしかない、小さくずんぐりとした筒に丸めて入れる。蓋をして、紐を使って鳥の足へと結びつけると。
「頼んだぞ」
一声かけて外へと飛ばす。
彼の人間嫌いの心が癒やされる時があるとすれば、それは彼女に手紙を書くときと、彼女からの返事を読む時だろう。
このときばかりは世俗を厭う彼の顔もいくらか緩む。今回は愚痴が中心だったので、不満がペンを握り、文字を綴っているようだったが、それはむしろ珍しい表情と言えた。
翼を羽搏かせて暗くひやりと涼しい森の中を行く鳥を見送り、ディエスは寝直そうとベッドに潜る。夜は結局一睡もできなかった。
ただ何杯も茶を飲むだけの時間であった。普段ならば眠っている時間だったというのに。
兵士全員が森を出たのは、結局早朝になってからだ。勿論この時間はディエスの体感による表現だ。この森の中に、本当の意味での昼と夜は訪れないのだから、時間が彼の主観になるのは当然のことだった。
兵士らは森の奥深くまで入っていないというのに、ほんの少し濃い闇を覗く。ただそれだけでも彼らはかなり慎重に歩かざるを得なかったのだろう。
下手に深く潜れば森の中に閉じ込められるように迷い込むのがわかりきっているのか、もしくは森の深くに進んではならないと学んだからか。
しかしどちらにせよディエスにとって迷惑だというのは変わらない。皮膚の下を常に何かが蠢いているのにも似たその気配を感じ続けていないといけないディエスには、迷惑でしかないのも理解してほしい、と苛立ちと共に浅く息を吐き出した。
小さなベッドの上で丸まると、漸く毛羽立っていた心もじわじわと落ち着いてきたような気がし、ゆっくりと目を閉ざした。
*
コッコッ、と窓を叩く音でディエスの意識は目覚めへと始動した。瞼を押し上げると部屋は真っ暗。火を入れてなければ暗いのも当然。今がいつなのか、刻限すらもわからない。
森は常に闇が深い。いくら外側に近い場所に居を構えていても、太陽の光を見ることは適わないのだ。それだけ森の屋根は大きく広がっている。
起き上がり、寝惚けた身体を叩き起こすように肩や首を回す。その中で窓部に目を向けると、いつも世話になっている鳥が窓ガラスを何度も嘴で叩いていた。礼儀正しいノックのようにリズミカルにコッコッコッと。時折足に提げた書簡が揺れて窓を乱打する姿がおかしい。
小さな火を蝋燭に灯す。その間も鳥はまだかまだかと窓を叩く。
「ああ、悪い悪い、待たせたな。ありがとう」
返書、なのだろう。
しかし早い。
いつもなら何日もかかる手紙の遣り取り。広大な森のため、手紙が届くのにそもそも一日近くかかっているはずなのだ。鳥だって休みなく飛べるはずがないのだから。
それでもなお早い、と思った。
もしかして丸一日以上、二日か三日ほど眠ってしまったのだろうか。
この森の中は陽が見えないだけに、時間経過がとても曖昧模糊としている。いつものリズムを刻んでいれば時間に悩むこともないが、あんなことがあったのだ、それが来るってしまっていてもおかしくない。
窓を開けると、鳥は鳴きながらディエスの腕に止まる。受け取って受け取ってと催促するような声。早く重い物から解放してやろうと足に括りつけられた紐を丁寧に解くと、さようならと言うように一声軽やかに歌って窓から出ていった。
「いつもすまないなぁ」
ふっと口許を和らげる。
動物たちにはディエスも笑みを浮かべることができたし、素直に感謝することも簡単だった。
筒を開け、細く巻かれた手紙を開けると、その中からひらり花びらが落ちる。掬い取るようにして受け止めることができた。
手の上でじっくりと花弁を見つめる。
森のこちら側では見かけない花だ。と気づくのは早かった。なにせ魔女。長年森に住んでいるのだから森の植生にも詳しい。
北辺の彼女はこうした気遣いを度々覗かせた。
南にはないものを届けてくれる心遣いには愛しさも感じる。同じ魔女だからか、親近感も強い。繋がりがより一層、その感覚を強めているのかもしれない。
人差し指と中指を揃えた指先二つよりも大きな、薄紫色の花びらに愛しさを感じて唇に押し当てる。薄い皮膚の上からじわりと甘さが滲んだ気がした。
大きな花びらを唇で優しく挟んだまま、肝心の文へと目を落とす。
――知らぬ間に、南では大変だったようですね。
きっとあなたのことだから、手紙を書いたあとすぐに眠ってしまったのでしょう?
どうです、当たりでしょうか?
それから、わたしからも報告があります。
わたしをよく訪ねてくれる森の獣が血のついた短剣を持ってきました。
手紙が届く前日のことです。
きっとあなたの言う子供が使用した短剣なのかもしれません。
わたしの方では暫く森に入る人間を感知していませんから。
森の歪みもあったので、少々気になりますが、お互い無理をせぬように過ごしましょう。
短剣は子の代わりに土へと埋めておきました。
北境の魔女――
丁寧で小さな文字が踊る。
少し老いた目には細かい文字を追うのが大変だったので、時間をかけて文章を読んだ。
不思議なこと、気懸かりなことはあったが、彼は温かな彼女からの言葉を大切そうに何度も読み返して長く息を吐いた。
ディエスの肉体は老いてきている。先代もそうだった。きっと辺垂の魔女は老いていく宿命にあるのだろう。
やがてディエスがそうだったように後継者となる者を見出し、魔女のあらゆることを教える頃にはすっかり老人になってしまっているはずだ。そして魔女の力を譲り渡すと七日ほどで命が尽きる。
先代がそうだった。そして先代が言うには先々代もやはり同じようだった。
魔女の宿業は変わらない。同じことを何百何千年と繰り返す。
ささやかな手紙の遣り取りのように。
いつかこの遣り取りにも終わりがくるのだと感じながら、ディエスは唇で挟んでいた花びらを指先で強く押しつけた。甘さを味わうように長く、長く。その唇は緩やかに持ち上がり、弓の形を作っていた。