第03話
本屋での再会を佳世が全く考えつかなかったといえば嘘になる。連絡するかしないかで悩んでいたためにあえてそのことは考えないようにしていた。会うかもしれないと思うのと実際に会うのとでは全然違った。おまけに佳世は連絡をしなかった後ろめたさがあるから尚更だ。
「こんばんは」
耳元で挨拶されて佳世はびくっとした。二人の距離はかなり近くになっているのに気付かされる。
「あ、こんばんは」
慌てて耳を押さえて挨拶を返した。それににこやかに笑って佳世の前に藤沢が立ち止まる。相変わらずスーツ姿で素敵な男性だ。その藤沢の笑顔に思わずつられて佳世の顔に愛想笑いが浮かぶ。
その佳世の頭の中では連絡しなかったことをどう謝ろうかと回転し始めるが、藤沢はそんな佳世に気付かないのか口を開く。
「仕事は忙しい? 残業とかしょっちゅうある?」
「いえ、ほとんどないです。派遣なので毎日大体この時間です。よほど忙しくなければ残業はありません」
「そうなんだ。……ところですごい急だけど、明日は何か予定は?」
「明日ですか? 火曜日は特に用事はないですけど……」
「それならこの前言ったように一緒に食事にしよう」
「え?」
藤沢の誘いに佳世はびっくりした。本当に誘ってくれているらしいと分かって顔が熱くなる。
そんな佳世の様子にますます笑顔が大きくなった藤沢は話を続ける。
「連絡待ってたけど遠慮してた?」
「ご、ごめんなさい。今日帰宅したら連絡する予定だったんです。……あの、妹さんの小説の感想はいかがでした?」
「明日会ったら詳しく話すよ。それより何かあったら困るから君の連絡先を教えてもらえるかな?」
「あ、はい」
佳世は言われるまま携帯電話を手渡すと藤沢は手慣れた様子で携帯電話を操作してすぐに返した。落としたときに分かるように可愛い鈴付ストラップをしている佳世の携帯電話とは逆に藤沢の黒い携帯電話は何もついていなかった。男女の違いを感じて佳世はつくづく自分とは違うんだと思った。
ピンクの携帯電話をしまう佳世を見て藤沢が話をまとめる。
「本屋の近くにある駅を待ち合わせ場所にしたら分かり易い?」
「は、はい」
藤沢は自分の腕時計で時間を確認して佳世の顔を見つめる。
「あそこなら改札は一つしかないから勘違いはしないですむか。時間は……今の時間に改札前で待ち合わせしよう。都合は平気?」
「はい、大丈夫です」
「食べ物の好き嫌いとかある?」
「いえ、特にはないです」
「それなら良かった。今日はもう一度ここで会えて良かった。急で申し訳ないけど明日はよろしく」
「こちらこそ。連絡しなくてごめんなさい」
「いや、気にしないで。それより名前は相田佳世さんでいいの?」
携帯電話で名前を確認したようだ。佳世はゆっくりと頷く。そうして自分が全く名乗っていなかったことに気付いて焦った。
「あ、はい。そういえばきちんと名乗ってませんでしたね。……相田佳世です。派遣をやっています。今まで名乗らずにいてごめんなさい」
「ご丁寧にありがとう。知ってると思うけど、藤沢章です。用事があるので今日はこれで。家までまだ距離あるんでしょ? 送れなくて悪いけど、気をつけて帰ってね」
「はい。藤沢さんもお気をつけて。明日楽しみにしてますね」
軽く手を振って藤沢は店をあとにした。その姿は非常にスマートだった。
「はあ、びっくりした」
佳世は思わず早くなった自分の鼓動を抑えるように胸に手を当てる。軽く深呼吸した。
「こんなに簡単にすむんだったら、さっさと電話しておけば良かった」
会話にしてほんの数分のやりとり。たったこれだけで済んだのを友人まで巻き込んで大袈裟な話にしたと佳世は反省した。だが心臓の鼓動はまだ早いままだ。藤沢を見ているだけで十分だったはずなのにいつの間にかもっと話したくなった自分に佳世は戸惑った。
「過ぎたことだし、今は新刊を買うことだけ考えよう」
この前は違う新刊を慌てて店を出てしまって翌日に持ち越した失態がある。あんな間抜けなことは二度と繰り返したくないと佳世は意識を藤沢からは切り離す。楽しみにしていた本を手に取ると緊張していた気持ちが少しずつ落ち着く。佳世は結局その本を購入して帰路についた。電車の中でも新刊本に夢中になって本の世界に没頭した。
寝るだけの準備をして佳世はベッド脇のライトをつけてベッドの上で横になってのんびり読書の続きに夢中になっていた。ようやく半分まで読み終えたところだ。そこへ充電中の携帯電話のバイブが震えて着信を知らせた。本にしおりを挟んで携帯電話を確認すると着信相手は昨日会ったばかりの佳世の友人だ。メールではなく電話だったので慌てて通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
「もしもし、佳世?」
「うん。……どうしたの? 電話なんて珍しいね。いつもはメールで用件言うのに……」
「聞きたいことがあって……噂の本屋の彼には連絡ついたの?」
「わざわざそれを聞きたくて?」
「そうよ。……それでどうなったの?」
「今日本屋さんで会ったよ」
「電話したの?」
「ううん。たまたまいた」
「それって向こうは佳世を捜してたんじゃないの?」
「そうなのかな?」
「まあいいか。……それで?」
「……明日の晩ご飯に誘われて約束した」
「よくやった! 明日は昨日買った服を着て行くのよ」
「ええっ!? あれって本気だったの」
「当然よ。化粧も洋服に合わせてしなさいよ」
「めんどくさいなあ」
思わず本音が漏れるとすぐに友人に叱られる。
「佳世!」
「……分かりました。ちゃんと買った服を着てメイクもいつもよりはちゃんとします」
「約束よ! それでどうなったかをちゃんと教えてね」
「はいはい」
それだけ確認すると友人とおやすみの挨拶を口にして電話を切った。佳世は携帯電話を放り出してベッドに仰向けに寝る。
佳世は新刊を読んで高揚した気分が少し憂鬱になったのを感じて大きな溜息を吐いた。
「藤沢さんか。会うのは嬉しいけど、スカートでってのが恥ずかしいな」
本屋で佳世は常にパンツスタイルだった。それ以外の格好など藤沢は見たことはない。それが急にスカート姿というのも抵抗がある。
「今更すぎる気もするけど……。約束もしたしたまには女らしくするのも気分転換になるって考えよう」
憂鬱な気分があるのは確かだが、藤沢との食事を心の一部分では楽しみにしている佳世は、翌日に備えて途中まで読んだ本を閉じて早めに就寝した。
翌日は友人との約束通り買ったばかりのスカートを着用した。助かったことに今日は比較的穏やかな天気で気温も上昇するということで寒さに縮こまることはなさそうだった。
通勤した職場の女性陣に「今日は可愛いね」などと言われて照れつつも仕事を無難にこなした。
定時で上がって化粧直しや服装チェックなど何度も確認した。普段着慣れない服装というのはどうしても佳世は似合ってる気がしない。
約束の時間には余裕が30分ほどあったはずなのに駅のトイレで確認していたら約束の5分前になっていた。佳世は慌てて改札を出て待ち合わせの改札前に駆け足で進む。腕時計で時間を確認すれば約束時間ぴったりだった。
キョロキョロと周囲に視線を向けると帰宅途中の人の姿が多くあったが、約束相手の姿はまだなかった。
駆け足で早くなった息を深呼吸で整えていると、佳世の肩が誰かに叩かれる。
「藤沢さん?」
「……お姉さん、待ち合わせ?」
茶髪で黒服という定番の格好をした若い男性が佳世の前に立っていた。待ち人ではないことに佳世はがっかりした。全くの他人である男性の後ろに目をやるがやはりまだ藤沢の姿はない。
「……」
「お姉さん、時間ある? ちょっとお話しよう」
こういう手合いは無視が一番だと友人に言われていた覚えがあった佳世は、教わったように無視したが相手はそれで引き下がらない。
「無視はないでしょ。お姉さん、可愛いね。やっぱりデート?」
「……」
「その服も似合ってるけどもっと可愛い服とかバッグとか欲しいと思うでしょ? 俺、お小遣い稼ぎにちょうどいい仕事知ってるよ。そこまで行かない?」
「……」
いつまでも側にいたままの男性に内心焦りを募らせていた。駅構内での勧誘は禁止されているはずなのにどうしてこういうことをする人がいるのか。佳世は電車会社に内心で罵倒する。視線はきょろきょろと周囲を確かめるが該当人物はいない。
「……お姉さん。いつまでも無視してないでよ」
しびれを切らしたのか、男性の声に愛想よりも脅しの色が濃くなってきた。何度かセールスには声をかけられて不快な思いをした経験はあったが今回はそれ以上の嫌悪を感じて顔が歪む。
「ちょっとの間でいいんだし、そこまで付き合ってよ」
「やめてください。大声出しますよ」
「そんな怒った顔しないで。いいじゃん」
断りもなしに佳世の鞄に男性の手が伸ばされた。逃げようにもうまくいかなかった。
これは不味いと佳世が思ったときだった。
「その邪魔な腕はどけてもらおう」
怒りを押し込めた低い声が佳世の耳に届いた。その言葉と同時に佳世の鞄を掴んでいた男性の腕が外れた。佳世はその瞬間に男性と距離を置いた。
そんな佳世を男性の目に見せないように現れたのは、待ち合わせ相手の藤沢章だった。少し息が荒いのは急いで来たからだろう。
いつもよりも一段と低い声を出した藤沢の表情は佳世の位置では見えない。佳世の姿を隠すように立ち塞がる藤沢の姿を見た男性は、それまでの強気な態度を一変させた。
「……お、俺はただ道を聞いてただけだよ」
「道を? ……なるほどね」
明らかに男性の言い分など信用していないだろう藤沢は、男性に更に近付いて耳元で何かを囁いた。その言葉を耳にした途端に男性は何も言わずに顔を強張らせて足早に逃げ去った。
ようやく男性の姿が見えなくなって安堵の余りに近くにあった藤沢のスーツの袖を掴んだ。その佳世の様子に驚いた藤沢を見て佳世は自分の行動に気付いた。
「あ、ごめんなさい」
藤沢の袖口の手を離すのと同時に佳世の身体がふわりと抱き締められる。さきほど鞄を男性に掴まれただけでも抵抗感があった佳世なのに、藤沢にこうして抱き締められるのはなぜか酷く安心した。
「遅くなってごめん。嫌な思いさせてしまったね」
悔やむ藤沢を見て佳世は申し訳ない気持ちが浮かぶ。自分がもっと前に毅然と追い払えばこんな顔をさせずに済んだはずだ。いつまでも気にしないで欲しかった。
「いいえ。そんなに待ってません。追い払ってくれて良かったです。あの、もう大丈夫です。……それでどこで食事にするんですか?」
それ以上話題にしたくない佳世は慌てて今日の目的について話した。佳世を抱き締めたままだった藤沢はしばらく佳世の様子を見て安心したのか身体を離した。そうして藤沢は頭を切り替えたのか、いつも通りの穏やかな顔を見せた。その表情を見てようやく佳世は安堵した。
「……お腹は空いてる?」
「はい。ぺこぺこです」
「洋食屋なんだ。気に入ってくれると思うよ。小さなお店だけど男女問わず人気なんだ」
「そんなお店があるんですね。どこにあるんですか?」
「少し歩いた場所に車を止めてあるんだ。そこで車で店に行こう」
「車ですか?」
てっきり駅前のお店に連れて行かれると思っていた佳世はびっくりした。藤沢がこっちと案内する横に並んで歩き出した。
「会社まで車で通ってるんですか?」
「いや、普段は電車通勤。今日行くお店はこの駅だと少し距離があるんだ。たまに仕事の都合で車で通勤することもあるし気にしないで」
「は、はい」
「少し離れた場所にある駐車場に行こう。せっかくだから友人がやってる店に案内したいんだ」
「お友達のお店ですか? ……楽しみです」
さきほどの嫌な出来事を払拭するかのように、二人は車までお店の話題を話した。
どうでもいい話ですが、友人のお店とは誰のことでしょう? 他の作品読んだ人は分かると思います。