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閑話

藤沢視点です。

 ――どうしても彼女が欲しい。


 必ず手に入れてやる。

 女性に対してここまで強烈な欲求が芽生えたのは、彼女だけだ。

 それまでの過去の女性との付き合いなど彼女への欲望の前にかすんでしまった。


 少し前まで本社勤務だったのが、人事異動で人の足りなくなった別の事業所に出向に決まった。本社とさほど距離は離れていないために住んでいるマンションを引っ越さずにすんだのは良かった。

 出向の期限は半年だが、状況次第でそれもまた変わると異動の際に言われた。

 他にも本社から出向した人間がいたが、彼らとは元々の所属が違うため関わりも少ない。仕事自体はさほど変わらない内容だが、人間関係や仕事のやり方の違いに慣れるまで多少は手間取った。

 事業所だからなのかどこかのんびりとした空気があって、忙しない本社のペースとの違いに苛立つ気持ちもあった。役職に就いている人間が役に立たないというのも判明して、仕事の負担が増えて禁煙したのを後悔しそうになったのも幾度となくあった。


「なんで人事異動したのに無能が残ってるんだか……」


 その苛立ちを周囲に気取られないようにすることに気疲れはあるが、弱みを見せるような真似はしたくない。

 救いはここでの部下になった人たちが使える人間が思ったよりは多かったことだろう。


「部下も駄目だったらどうしようかと思った」


 残業続きで忙しい生活だったのが、しばらくして週に一、二度は仕事終わりが早くなった。

 本社のときよりも早く帰宅できるようになったお陰で時間に余裕が出た。そうして少し早めに帰宅した際の仕事帰りに、仕事の参考になればと考えて会社の最寄り駅の側にある本屋に仕事帰りに足を運んだ。


 そこで彼女に出会った。それからは時間に余裕があれば本屋に寄り道するようになった。


「……あの子またいるな」


 最初は目的のビジネス書を探すために来ていた。それが何度か本屋に来る内に彼女の存在に気付いた。服装は常にパンツスタイルでひっつめ髪をしていて、化粧はあまりしていない地味な女性だった。

 普段なら気にかけるような女性ではない。

 会社にも同じようなタイプの女性たちがいるのに、なぜか彼女が気になった。存在感など無いに等しいのに目が奪われるのが不思議だ。

 出向先の女性たちの何人かは、あからさまに誘いをかけてきた。その誰もが女らしさを前面に出す自分に自信のある女性たちだがそんな誘いに乗る気はない。本社でもさんざんその手の女性たちが寄って来ていたから対応には慣れているが正直な気持ちとしてはうざいことこの上ない。結婚でも狙っているのかあからさまな誘いには幻滅しか覚えない。面倒な問題しか起こらない会社の人間に手を出すつもりには全くならない。

 過去の付き合いのあった恋人たちも他社で関連のない会社の女性としか付き合わなかった。女性らしさはあるが厚かましくはない女性のはずが、付き合いを数ヶ月以上続けると恋人の誰もが、会社の女性たちのように金銭や結婚目的という状態になってきて、ここ最近では女性の陰はない。

 結婚したいと思える女性には一度も出会っていないのもその原因だった。

 出向先の事業所では、人事異動したにも関わらず無能な上司が何人かいた。その仕事を肩代わりして残業が増えすぎないように調整するのは、本屋で見かける彼女を見たいがためだ。

 そんな自分をおかしいと思うがやめられない。


「おかしいもんだ」


 なぜあんな地味な女性が気になるのか。

 そんな中で本屋に足を運んでいるとどうしても彼女の顔をもっとよく見てみたくなった。

 見つめるだけの日々に焦れてきた。そこである日、いたずら心を起こした。

 相変わらず彼女は地味な服装で身体の線を隠して化粧もノーメイクに近い。

 自分に気付くこともなく本だけを一心に見ている姿がなぜか悔しい。

 あくまで自然に思えるように、トンと軽く身体を彼女に接触させる。

 その軽い衝撃で彼女は本から目線をこちらに移した。


「大丈夫ですか?」


 わざと彼女の耳元で声を出して反応を確かめる。

 近くで見ると彼女は地味な服装に身を包んでいるが、とても可愛い雰囲気の女性だった。

 目元など化粧をしていないようなのにぱっちりとした二重の大きな目で顔の小さなと首の細さから身体全体がほっそりとしているのが想像できる。

 ぶつかったのが自分だと認識した途端に頬を真っ赤に染めていく様がひどく艶めいていた。


 ドクンと心臓が高鳴る。

 無意識に右手が持ち上がって彼女に触れようとする。


「すみません」


 近くに顔を寄せていなければ聞き取れないくらいの小さな声がしたと同時に彼女の姿が遠のいた。

 慌てて声を出すが聞こえなかったのか、彼女は振り返りもせずに店から出て行ってしまった。

 思わず持ち上げた右手に苦笑が浮かんだ。


「まさかあんな反応にこんなにも心が乱されるなんてな」


 自分の口元がゆっくりと弧を描くように持ち上がるのを意識する。

 彼女の顔を見るだけで気が済むと思っていたのがとんだ誤算になったが、それも楽しみに変わった。

 今までの短期間の様子で彼女はこれからもこの本屋に足を運ぶだろう。

 次に会ったらどうしようかと考える自分に苦笑が漏れた。


「……甘かった」


 思ったように彼女は本屋にいた。だが予想外なのは、周囲に警戒心を持っているらしいことだ。

 前は周囲に気を配らずに本だけに集中している様子だったのが、最近は首を左右に振って人がいないかを確認しているようだ。

 自分を見つけるとあからさまに場所を移動するようになった。

 どうにかチャンスはないかと様子を伺っていた。何度か店に顔を出していく内に、彼女が前みたいに本に集中するようになった。

 ようやく待ちに待った機会が巡ってくる。きっかけは実家暮らしをしている妹から電話がきた。大学に入学するときに実家を出一人で暮らすようになって10年近くになる。

 妹はなんだかんだと実家に戻るような口実を作ってくるが、今更実家暮らしなどする気はないし妹のことは苦手だった。

 その妹が夜遅くに連絡してきた。


「ミステリー小説が読みたい」

「……電話してきたと思えば急に何だ?」

「だからミステリー小説が読みたいの」

「自分で買えばいいだろう?」


 呆れた声を隠そうともしないで言えば、妹も呆れた溜息を吐いた。


「本当に忘れてるんだね」

「何をだ?」

「……私の誕生日!」

「……ああ、そんな時期か」


 言われてカレンダーを確認すれば妹の誕生日が近かった。毎年決まってこの時期になると催促の電話が鳴っていたのを思い出した。両親に甘やかされている妹は欲しい物はほとんど持っているため兄としては両親と一緒に甘やかす気になれない。

 上限1万円と数年前に決めたときには延々と文句を言われた記憶があるが無視した。妹が寄こす欲しい物リストが上限以上だったのでこちらが勝手にプレゼントを決めて渡すことを何度かしたためか妹も諦めたようだ。こちらが渡したプレゼントはデパート商品券のみだ。おつりの出ない物にしているのはご愛嬌だろう。


「それでプレゼントが本で良いのか?」

「本がいいの! それもミステリー小説限定だからね」

「……分かった。でもお前が本だなんて珍しいな。漫画を読んでる記憶はあるが今ではファッションにしか頭を使ってなさそうなのに」

「ひどいこと言わないでよ! これでもいろいろ読んでるわよ。とにかく今から条件言うからそれに当て嵌まりそうな小説を選んでよ」


 電話を切ってから本を探すのが面倒だなと思ったときに彼女のことを思い出した。


「……これが口実になるな」


 妹のプレゼントに本を購入するというのは、彼女に話しかけるのにちょうど良い口実になる。

 その電話の翌日に、本屋に入っていつもは行かない小説コーナーに進んだ。自分も久しぶりに小説を読もうかという気持ちになった。

 しばらくして彼女が店に入ってきて自分の姿を確認したのを確かめた。彼女はやはりこちらには来ずに違う場所へ足を進めた。彼女は前の壁に貼られた紙をじっと見つめている。その横には検索機が置かれている。

 これなら自然に彼女に本選びを手伝ってもらえる。なるべく音を立てないように彼女の側に近寄った。

 この前みたいに驚かせて簡単に逃げられないように注意して彼女に声をかける。


「すみません」


 彼女は思った通りに検索機をこちらが使うと勘違いしてくれた。

 慌てて謝った彼女はいつかのようにまた逃げだそうとする。そうはいかせるかと彼女の腕を軽く掴んだ。


 もう逃がしてなどやるものか。


 やんわりと妹の本選びを一緒にして欲しいと彼女にお願いする。今までの自分ならこんな風にお願いすることなど滅多ににしない。

 だが彼女には自然とそうできるしそれが嫌ではなかった。

 彼女は一所懸命に本を選んでくれる。


「これはどうでしょう? あまり推理っぽくはないですけど、私は読みやすいと思います」

「読んだことあるんだ?」

「はい。この人の作品は全部読んでます。シリーズになってますけどどの作品から読んでも問題ない作りですからお勧めです」


 にこりと微笑む彼女はとても生き生きとしていた。

 彼女の本の趣味もしばらく話す内につかめてくる。そうやって一つ一つ彼女のことを知ってますます彼女に興味を持った。

 口実を作ってくれたタイミングの良い妹に心の中で感謝した。

 今年はおまけにケーキでも買ってやるかと思うくらいには楽しい時間だった。


「……そういえばミステリー小説が好きなきっかけとかあったのかな?」


 話せば話すほど彼女のことを知りたくてたまらなくなる。

 自分の問いに眉を寄せて考え込む彼女は自分がかなり近い距離にいるのを気にしなくなった。

 本を選んでいる最初の内は少し近寄るたびに肩に力が入っているのが見て取れた。あまり男性と接する機会が少ないのかもしれないと思いつつ、彼女と距離を置いたらまずいと本能的に悟った。

 ようやく自分が側にいてもいちいちびくつかなくなったのを嬉しく思った。


「……叔父さんが海外推理ドラマが好きだったんです。それでそのいくつかのビデオを借りて見ていく内に文字で直接読んでみようと思ったのがきっかけですね」

「海外ドラマ? 例えば?」

「古いですけどホームズとかポアロとかです」

「好きなんだ?」

「はい! 大好きです」


 満面の笑みで頷く彼女を抱き締めたい衝動が湧き上がったがどうにか無視した。

 冷静に見えるようにゆっくりとした口調で彼女に本選びに付き合ってくれたお礼を述べて食事に誘う。

 すると彼女が慌て出した。鞄から携帯電話を取り出してメールを打っている。

 どうやら急いで帰宅しないといけないようだ。

 だがここで逃がすわけにはいかない。

 急いで店から出ようとする彼女の腕を掴んで、食事の承諾をしてくれるように促すが了承してくれない。


「君ともっと話してみたいんだ」


 素直に思ったことを伝えると彼女はその場に留まってくれる。急いで名刺を取り出して私用の連絡先を記入する。仕事用以外の連絡先など女性に教えるのはいつもならしないが、彼女にはそうしたくなった。

 自分の手よりも小さくて細い手の平に私用の連絡先を記入した名刺を渡す。

 できるだけ怯えさせないように穏やかな声を心掛ける。


「連絡待ってるよ」


 本選びに時間を割いてくれた彼女のことだ。おそらくすぐに連絡をくれるだろうと結果を甘くみた。

 それから悶々と待ち続けることになるとは、このときは思いもしなかった。

 仕事も立て続けに問題が発生してしまい、本屋に行くこともままならない。そのことに苛立ちが募るがどうしようもない。

 連絡をくれない彼女に会うには本屋でしかできない。

 周囲に群がる会社の女性たちの誘いをやんわりと社交辞令でやり過ごすことに不満は増すばかりだ。

 そこでようやく彼女のような大人しい女性は自分の言葉を社交辞令に取った可能性があるのに気付いた。それに肝心の彼女の名前さえも知らないことに愕然とした。


「必ず彼女の名前と連絡先を教えてもらわないとな」


 次に会ったときには社交辞令ではないというのをきっちりと分かってもらう必要もある。彼女はどんな種類の料理が好みだろう。どう伝えたら食事に付き合ってくれるだろう。

 そんなことをいちいち気にしてしまう。

 たった一人の年下の女性に翻弄される自分に苦笑しか出ない。今までこんな経験をした覚えがない。

 学生時代でさえもう少しマシな対応ができていたような気がする。

 とにかく今は本屋に行けるように、増すばかりの仕事をどうにか処理しようと頭を切り替えて集中した。

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