「見えているよ」
短編です。
丘の上で風が走っている。
少女はいつものように草の上に座り、空を見上げた。その日は雲が少なく、山の稜線がくっきりと空に刻まれていた。
それがいた。
何かだった。大きさも距離もわからない。ただそこにあって、無数の目が、全部こちらを向いていた。
震えが止まらなかった。立ち上がることもできず、ただ草を握りしめたまま固まっていた。やがて日が傾き始める。
「何をしとる?行くぞ」
祖父は一度だけ、空を見た。
少女はようやく立ち上がり、転がるように丘を下りた。一度も振り返らなかった。
次の日、また丘に来ていた。
なぜかはわからなかった。怖かった。昨日と同じように震えが来た。それでも足は止まらなかった。
少女はそれを見上げ、口を開いた。
「見えているよ」
その瞬間、それがわずかに揺れた気がした。
少女は駆け足で家に帰り、夕飯の途中で祖父に話した。祖父は静かに少女を見て、それからスープに視線を戻した。信じていなかった。
次の日も丘に来た。
「見えているよ」
また来た。
「見えているよ」
それを言うと、少しだけ安心した。
もう癖になっていた。それに話しかけることが、朝起きて顔を洗うのと同じくらい当たり前になっていた。返事はなかった。それでも少女は話し続けた。今日見た花のことを、祖父が作ったスープのことを、夕焼けが綺麗だったことを。
ある日の夕暮れ、風がやんだ瞬間に聞こえた気がした。
「見えているよ」
少女は息を飲んだ。あたりを見回した。誰もいなかった。空を見上げると、それはいつも通りそこにいて、無数の目でこちらを見ていた。
気のせいだったかもしれない。それでも少女の足はさらに深くこの丘に根を張った。毎日来て、毎日話し続けた。
雨の日だった。
窓の外を何気なく見て、少女は息を止めた。
いつもより近かった。明らかに。それが、いつもの場所より低く、ずっと近くに見えた。
少女は家を飛び出した。
「待て」と祖父の声がした。振り返らなかった。
雨が顔を叩いた。
草が濡れて滑った。
足がもつれる。
踏ん張れなかった。
そのまま——落ちた。
斜面を、転げる。
石にぶつかり、息が詰まり、視界が揺れる。
どこが上でどこが下か、わからなくなる。
静かになった。
空が、やけに近かった。
それはそっと目を閉じた。
「見えていたよ」
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