第11話 - 顔の横に酒瓶を添えて
ショシン・ニカエレ草原が、橙色に染まりはじめていた。
低くなった陽が、青かった草を鈍い金色へと変えていく。風が吹くたび、昼間よりも冷たい空気が素肌を撫でた。
パラディソは、その中を歩いていた。
いや、正確には――よろよろと、引き摺るように歩いていた。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸は浅く、喉がひりつく。
拳は腫れ、腕はまだじくじくと痛む。ヒールで致命的な傷は消せるが、疲労までは消せない。魔力も、ほとんど残っていなかった。
それでも、生きている。
ゼリスヨを殴り、ばいんと弾き飛ばし、溶解液からひらりと逃げ、死なずに夕方を迎えた。それだけで、今日は上出来だった。
「……流石に今日は、もう帰るか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
拳を握ると、昼間よりも確かに反応が早い。
動きも軽い。そのお陰で、またレベルも上がった。AGIに振った効果は、身体が一番良く理解していた。LUKは分からない。
草原の境が見え、やがて街の外壁が夕焼けの中に浮かび上がる。
正門へ続く道を歩きながら、パラディソは自分の姿を見下ろした。視界に映るのは、素肌を隠し切れていない下着一枚。溶解液でまだらに傷んだ白布。乾いた血と草の染み。冷えた風が、容赦なく肌に触れてくる。
「下着一枚で出ていって、下着一枚で帰るのは初めてだぜ……」
半ば感心したように呟く。
この世界では、死に戻りも、半裸も、貧乏も、全部「冒険者あるある」だ。だから、誰も止めないし、誰も気にすることはない。今日のパラディソはその慣例じみた価値観に、半ば救われる形になった。
門を潜ると、街は既に夕餉の匂いに包まれていた。
焼いた肉。煮込み。酒の甘い香り。腹が、情けないほどに鳴る。だが、金はない。装備もない。今日稼いだのは経験値だけだ。
宿屋が見えた。
見慣れた、安っぽい看板。軋む扉。
帰る場所があるだけ、パラディソはマシだった。
扉を開けると、酒瓶が顔の横を飛んでいった。
背後で割れる音が響く。ヒャッ、とパラディソの喉が鳴った。
「パラディソ!! ようやく戻ってきやがったな、このクソ野郎!!」
その怒鳴り声を発したのは、宿屋の店主――テーンシュだった。
酒瓶を投げ付けた張本人である。太い腕を組み、赤ら顔のまま、カウンター越しに睨みつけてくる。額には血管が浮き、スキンヘッドが輝いた。
「何処ほっつき歩いてやがった! 朝からドアぶち壊しやがって!」
「――あ? 何の話だよ」
パラディソは一瞬、何の話か分からず、間の抜けた声を出した。
次いで思い出す。早朝。発狂しかけた叫び声。踏み込んできたパーティメンバー。怒鳴り合いの取っ組み合い。扉が、粉砕する音。
「まっ、待て待て! オレじゃねぇぞ!」
「知るか! お前の部屋の扉がぶっ壊れてたんだよ!」
テーンシュがカウンターを勢い良く叩く。
ドン、と低い音が宿屋に響いた。夕食を頬張っていた周囲の客が一斉に視線を向け、面白がるように口元を歪めた。
パラディソは癖の強い灰色の髪を掻く。
カウンターの前まで歩き、テーンシュの肩をぽんと叩いた。
「まぁまぁ、落ち着けよ。ちゃんと払うからよ」
「そりゃいい。今すぐ払えんのか?」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。当然、出世払いに決まってんだろ?」
言葉が落ちた直後、テーンシュの腕が、再び大きく振り上がった。
次の瞬間、酒瓶が唸りを上げて飛んできた。紙一重。視界の端を、茶色の瓶が掠めて通り過ぎる。背後の壁に叩きつけられ、酒瓶が派手な音を立てて砕け散った。破片が床に散り、酒の匂いが一気に広がる。
パラディソは、その場で固まった。
遅れて、冷や汗が頬を伝う。ツー、と一筋。
首筋まで落ちるのが、やけにはっきり分かった。
「……金貨二十枚。利子付き。ツケだが、必ず払う」
「チッ、払うまで部屋は貸さねぇ」
テーンシュは舌打ちし、荒々しく腕を組んだ。
そっぽを向いたスキンヘッドに、パラディソはふっと表情を変え、至極真面目な顔をして近寄る。その隆々とした腕を取り、そっと握り込んだ。
「テーンシュ……俺と、結婚してくれ」
宿屋が静まり返る。
テーンシュは、勢い良く顔を顰め、そしてわざとらしく嗚咽した。
「気持ちわりぃこと抜かしてんじゃねーよ! 離せ!」
「別に良いじゃねぇか〜、オレはテーンシュのこと大好きだぜ!」
パラディソはテーンシュを抱き締めた。
すると、宿屋の客から「ぎゃははは!」といった品のない笑い声が跳ねる。すかさずテーンシュの無骨な手が、パラディソの顔面に伸び、ゼリスヨを引き剥がすように軋む。床に叩きつけられ、宿屋は笑いの波に呑まれた。
「……おい、パラディソ。飯は」
「ツケで、良いなら……食べてぇけど」
しばらく、宿屋には笑い声だけが残っていた。
床に転がる酒瓶の破片。床板に染み込む酒。ひっくり返った椅子。
騒ぎは完全に、宴の延長になっている。
テーンシュは、乱れた息を整えながら、額を押さえた。
一度、深く息を吸い――長い溜め息をつく。
「……まったく」
怒鳴りもしない。酒瓶も投げない。ただ、疲れ切った声だった。
テーンシュは顎を使ってカウンターを示す。座れ、という合図。それ以上の言葉はない。パラディソは一瞬、目を瞬いた。喉の奥が、酷く詰まる。
何でもない顔を装って歩く。足取りは、ほんの少しだけぎこちない。
カウンターには、一人分だけ空いた席があった。パラディソはそこに腰を下ろす。木の感触が現実に引き戻した。
テーンシュは背を向けたまま、棚から皿を取り出した。
音を立てて置かれたのは、簡素なパンと薄いスープ。
それから、小さな酒瓶。
「おら、食べろ」
「……恩に着る」
短い会話だった。だがそれ以上、言葉はいらなかった。
パラディソはパンを手に取り、ひと口齧る。固い。だが、温かい。噛むたび今日一日の疲れが、少しずつ溶けていく気がした。
宿屋の喧騒は、いつの間にか夜のざわめきに変わっていた。
笑い声。食器の音。酒の匂い。パラディソは、黙ってそれを受け入れる。
今日は死ななかった。
殴って、生きて、帰ってきて、飯にありつけた。
それだけで、十分だった。
パラディソは酒をひと口だけ煽り、ゆっくりと息を吐いた。
顔の横に酒瓶を添えたまま、夜は静かに更けていった。




