8話
「どうして…こんなことが…」
言葉が喉で詰まる。泣きたいのか、怒りたいのか、何もできない自分に苛立つのか、わからなかった。
リュカは静かに立っていた。説明は必要だと感じたのだろう。
「君の選択はひとつだけじゃない。やり直すこともできる。でも、代償もある。君の過去1年分の記憶がなくなる…すぐには理解できないだろうけど」
エマは顔を上げずに答えた。「やり直したい…なんて思えない。もう、終わりにするんだ」
「そうか…無理に止めるつもりはない。でも、知っておいてほしい。やり直すことを選べば、過去の自分や、周りの人々に触れることができる。そして、自分が受けた痛みを、少しだけ変えられる」
エマは小さく息を吐く。変えられる?何もかもが無意味に思えたのに、ほんの一瞬だけ、心がざわついた。
待合室の端に座るエマの前で、リュカは静かに問いかけた。
「復讐はしなくてもいいのか?」
エマは言葉を失い、ただ膝を抱えたまま下を見つめる。胸の奥で、ざわつく感情が波のように広がった。怒り、悲しみ、絶望…。でも、その全てが混ざり合って、何を選べばいいのか分からなかった。
「無理に答える必要はない。ただ…君自身が決めることだ」
「…わからない」小さな声が漏れる。胸の奥で、何かがきしむような感覚があった。
「じゃあ、もしも、やり直せるとしたら…どうしたい?」
その問いに、エマは息を飲んだ。心の中で、誰かを傷つけたい気持ちは一切ない。ただ、過去の自分に戻って、あの苦しみを避けられるなら――その思いがふと、頭をよぎった。
「…もう一度、生きてみたい」
エマの声は震えていたが、確かにそこにあった。生きたい、やり直したいという小さな光が、胸の奥で瞬いた。
リュカは微笑み、静かに呪文を唱えた。
「ならば、準備は整った。恐れなくていい。君の意志だけで、時空電鉄は動く」
エマは目を閉じ、深く息を吸った。まだ完全には理解できないけれど、心の奥底で確かに、もう一度やり直す勇気が芽生えていた。
リュカは深く息を吸い、低く呪文を唱え始めた。「時の流れよ、我が声に従い、迷いのない軌跡を示せ。
過去と未来を結ぶ道を、刻の裂け目に映し出せ。
光の輪が導くは、時空電鉄への扉。
今、現れよ、扉よ、我に開かれたる軌道の門よ。」
言葉が空気に溶けるように響き、店の中の光が揺れ始める。
「えま、怖がらなくていい。これは強制じゃない。君自身の意志で踏み出すんだ」
エマは目を見開く。光が眩しすぎて、まぶたを閉じたくなるけれど、どこか心がざわつく。
「復讐は、しなくてもいいのか?」
リュカの問いかけが、再びエマに届く。
エマは答えられなかった。復讐なんて考える余裕なんてない。生きることさえも難しかったのだから。
気づけば青白い光が渦を巻き、白く、美しい門が現れていた。
「さあ、君の新しい時間だ」
光の中で、エマの心は少しずつ落ち着き、恐怖と悲しみの奥に、希望の種が芽吹き始めた。
エマは恐怖で息を詰めるが、決意の力で一歩踏み出す。
光が爆ぜた。
眩しさに視界を奪われたのか、それとも別の力が働いているのか、エマは瞼を閉じているのに光の粒が脳裏を走り続ける。
自分の身体が、薄い膜を通り抜けていくような感覚。
浮かんでいるのに沈んでいるようでもあり、重いのに軽い。
――落ちている? それとも、上に引き上げられている?
音はなかった。
いや、あったはずなのに聞こえなかったと言った方が近い。
世界のすべてが、えまの「痛み」や「絶望」を一度吸い取り、洗い流すように静寂へ沈んでいく。
不意に、風の音が戻ってきた。
ごう…と、車体の鉄が空気を裂く音。
地面を震わせるレールの響き。
遠くから、ベルのような電子音――
「まもなく発車します。ご注意ください」
エマはハッと目を開いた。
目の前、巨大な駅。
駅と呼ぶには近未来すぎて、テーマパークと呼ぶには冷たすぎる。
無機質な金属と、どこか懐かしいレトロな木材が入り混じり、青白い光が空間全体を縁取っていた。
天井は空のように高く、線路は何本も重なり、見たことのない電車がそれぞれ別の方向へ走っていく。
普通の電車では無い。
車体に刻まれた行き先は、数字だけ――
《3年前》
《13日前》
《10年後》
《幼少期》
《未誕生の未来》
「ここが――時空電鉄…?」
声が震えていた。
震えたのは恐怖のせいか、期待のせいか、自分でもわからなかった。リュカは隣で静かに頷いた。
「戻りたい時間、やり直したい過去――誰にだってある。
でも選ぶ場所を間違えれば、取り返しのつかない結果になる。
だから乗車券は一人につき一度だけ」
リュカの視線は真っ直ぐで、優しいのに容赦がなかった。
光の反射で、遠くの線路に「過去」が揺らめく。
そこへ続くホームの先にある景色を見た瞬間、エマの胸がズキッと痛んだ。――あの教室が見えた気がした。
――自分の席。
――笑うクラスメイト。
――守ろうとした子の、冷たい視線。
エマは震える手で胸元を押さえた。
「怖いのか?」とリュカが尋ねる。
エマは首を横に振った。
でも表情は「はい」と言っていた。
「戻りたいのに、戻りたくない。
終わりたいのに、生きたい。
忘れたいのに、許したくない。
……それが人間だよ」
リュカの言葉は淡々としているのに、心の傷にそっと触れてくる。
「復讐を望むのなら、時空電鉄は応える。
望まないのなら、それも応える。
えまの“願い”が行き先になる」
エマは唇を噛む。
血の味がわずかに広がる。「……願いなんて、わからないよ。
生きたいなんて思ったのは…ほんの少し。
今だってまだ――消えたい気持ちのほうが強い」
「うん。それでいい」
リュカはすぐに肯定した。
「願いはすぐに決めなくていい。
大事なのは“逃げてないこと”。
傷ついた自分を、見捨てずにここまで来たことだ」
エマの目に涙が溜まった。
知らないうちに拳を握っていた。
爪が掌に食い込み、痛みが今の自分が生きている証になった。
そこで、電車のアナウンスが響いた。
《2分後に、3ヶ月前行きの電車が到着します》
意識が一気に引き戻される。
選択の時間が迫る。
リュカの声が低く響く。
「エマ、
その涙は過去の痛みか、それとも未来への願いか。
どちらに導かれるのかは――君が決める」
ハンカチも、気休めの慰めもない。
ただ信じて、任せて、見守っている目だった。
列車の光がホームへ近づく。
風が吹き荒れ、衣服が揺れる。
耳の奥で金属の軋む音が響き、胸が強く脈打つ。
涙が頬を滑り落ちた。
その涙が――何のための涙なのか。
この瞬間、エマはまだ知らない。
でも確かに思った。
――もう一度だけ、生きてみたい。




