7話
いじめられた痛みではなく、
助けようとしたのに助けられなかった無力さが、
なによりも苦しかった。
その日から、世界は暗くなっていった。
正義を選んだ日から、地獄は始まった。
翌日、エマの机はなかった。
クラス全員が、あえて気づかないふりをした。
ひと目見て、いじめの対象が完全に「自分」に置き換わったことが分かった。
「朝から何突っ立ってんの? あんたの席、あっちじゃない?」
指をさしたのは教室の隅――ゴミ箱の隣だった。
机代わりに置かれたのはダンボール。
笑いながらスマホを向けてくる子、無言でシャープペンの芯を折る音。
私は――その瞬間、また笑ってしまった。
自分を守るためじゃなく、負けないためでもなく、
「泣いたら負け」という子どもじみた意地だった。
だが、昼休み。
鞄の中身は廊下にぶちまけられ、上履きは便器に沈んでいた。SNSにはえまの顔写真に落書きされ “正義感ババア” というタグがついて拡散されていた。
止めれば止めるほど、膨れあがっていく嘲笑。
「正義ぶるからこうなるんじゃん」
「助けるとか無理でしょ、普通」
「いじめ止めるとか気持ち悪いよ」
わたしが守ろうとした子は、目を合わせなくなった。
「なんでなの…? なんで私だけがこんな目に…」
――誰も私の痛みを止めてはくれなかった。
どうして、誰も救ってくれないのか――そんな怒りと絶望が胸を締めつけた。
夜。玄関は真っ暗。
母は帰ってきても、仕事の電話ばかりで部屋に閉じこもる。
「今日ね…」
声をかけた。返事はなかった。
話せば、救われる気がした。
けれど ――「忙しい」という壁の前で、
声は飲み込まれ、涙も飲み込んだ。
やがて、家が「安全な場所」ではなくなった。
---
数日後。
体育の時間、跳び箱の向こう側で足を引っかけられ、落ちた。
息ができないほど痛かった。
保健室で冷やしながら震えていると、保健の先生が言った。
「大げさねぇ。あんまり騒ぎたてるとクラスに嫌われるわよ?」
……もう誰も信じられなかった。
ロッカーには画鋲。
靴箱には生ゴミ。
机には油性ペンで 消えない言葉。
「死ねば?」
「邪魔者」
「正義って何?w」
そのたびに、人は「慣れる」んじゃない。
感情が摩耗して、何も感じられなくなっていく。決定的だったのは、帰り道。
夕焼けの下、橋の上。
数人の女子が立っていた。
逃げられなかった。
「さぁヒーロー、助けてよ?」
そう言って、泣き虫のあの子を橋から突き飛ばした。私は咄嗟に駆け寄って、その子を抱きとめた。
庇った瞬間、頭の上から何かが降ってきた。
水風船。中身は汚水だった。
笑い声。
スマホのシャッター音。
その子は逃げた。振り返らなかった。
私はただ、汚れた水を滴らせたまま立ち尽くすしかなかった。
――正義なんて、無かった。その夜、鏡を見た。
泣き腫らした顔、赤くなった頬、汚れた髪。
「誰?」
声に出した。
エマは死んだのかもしれない。
正義を選んだあの日に。
母がドア越しに言った。
「寝なさい。テスト近いんでしょ?」
それだけだった。
助けを求める声は、もうどこにも届かない。
ある朝、学校へ向かう道で、まったく知らない人が私を見てクスクス笑った。
SNSの私の写真を見て笑っているのだろう。
私の痛みは、知らない誰かの娯楽になって消費されていた。
その瞬間、心が完全に折れた音がした。
死ねば、終わる。
死ねば、笑われることもない。
死ねば、誰の負担にもならない。
母の邪魔にもならない。
その言葉は、静かに、優しく囁くように心へ溶けた。
そして、放課後。
夕焼けの色は血のように赤かった。
同じ橋の上――あの日と同じ場所。
手すりに足をかけると、風が髪を揺らした。
「ごめんね」
誰に謝っているのかは、自分でも分からなかった。
助けられなかった子にか。
迷惑をかけた母にか。
正義を信じた自分にか。
目をつむり、足を浮かせた。
―エマが足を踏み外し、落ちていく――その瞬間、視界の中心に七色に輝く魔方陣が浮かび上がった。
衝撃と恐怖で目を閉じたままのエマの体が、まるで重力を無視したかのように魔方陣の中心に吸い込まれる。
肌をかすめる光の冷たさ、耳を突き抜ける低い唸り声、そして一瞬にして変わる空の色――夕焼けの痛みはどこへやら、エマの全身は未知の世界に引きずり込まれた。
足元が消えた瞬間、エマの視界は七色の渦に包まれた。
宙に浮かぶような感覚、耳鳴り、そして体の重さがすべてなくなった。気づけば、目の前には見知らぬ空間――それは、薄暗いけれど温かみのある小さな店の中だった。
店内には古びた時計や、数えきれない小物が並び、時間の感覚さえ狂いそうになる。
そして、カウンターの向こうに、黒髪で落ち着いた瞳の少年が立っていた。
「……君、大丈夫?」
エマは声を出せず、ただその瞳に吸い込まれる。
初めて、誰かが自分を見てくれた気がした。リュカ――この店でエマの目に映った最初の存在だった。エマはまだ、心臓の鼓動が早く、手足の震えが止まらなかった。
リュカは静かに微笑み、店内の奥へと歩きながら話し始めた。
「ここは時空電鉄の待合室――君がさっき通り抜けたのも、偶然じゃない。必要な人間だけが、魔方陣を使ってここへ来られるんだ。」
エマは言葉を失った。さっきまで、飛び降りようとしていた自分が、こんな場所に立っているなんて信じられなかった。
「……あなたは…?」
声は震える。エマの心は混乱していた。
「…えま、か」
少年は穏やかに言った。名前を知っているかのように、でも押し付けるわけでもない。
「なに…?どうして…」
言葉が続かない。頭の中で、今日までの辛さがぐるぐる回る。
「ここにいるのは、止めるためでも、救うためでもない。選択肢を示すためだけだ」
少年は静かに続けた。「君はもう、終わらせるつもりかもしれない。でも、やり直すこともできる」
エマは振り返って、空を見た。生きたくない。何もかも終わりにしたい。でも――なぜか心の奥で、ざわざわした気持ちが生まれる。
「やり直す…って、何を?」
声が小さくなる。
「君の人生。ただし代償はある。君の過去1年分の記憶が過去に戻った一週間後になくなる。そして戻れるのは一度だけ。すべてが思い通りになるわけじゃない。でも、過去に戻り、やり直せる、」
少年は静かに言う。魔方陣はゆらゆら光っている。
エマは言葉に詰まった。生き直したい、なんて思えない。まだ、生きたくない。
「本当に…やるつもりはないな?」
少年の声は優しかった。無理にすすめることも、押し付けることもない。
エマは首を横に振った。「……私は、もう終わりにするの」
それでも、エマの胸の奥で、ほんのわずかに何かが疼いた。復讐の想い――それはまだ、目覚めていなかった。




