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時間を巻き戻せる切符――代償は、君との一年分の記憶でした    作者: まなと
第三章 いじめの影、再生の光

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6話

まだ「地獄」という言葉が、私の人生に関係あるなんて思っていなかった。

少し不器用でも、友達だっているし、笑うこともできていた。

朝起きて、制服に袖を通し、鏡の前で前髪を整える。

その時間が、私はちょっと好きだった。

今日も、きっと普通の一日が始まると信じていた。


「いってきます」

そう言った声に、返事はなかった。

台所から聞こえるのは、フライパンがぶつかる音と、母の短い息だけ。

いつものことだから気にしていなかった。

母は朝から仕事のメールや電話に追われていて、余裕がないのは分かっていたから。


家を出ると、空は晴れていた。

校門を通り抜け、教室に入る。

そこで、最初の“違和感”に気づいた。


「あれ、椅子……?」

私の席の椅子だけ、机から遠く離れた隅に置かれていた。

誰かのイタズラだと思って、苦笑しながら取りに行く。

クラスの数人が、こちらをちらりと見て、すぐに視線をそらした。

ただの偶然だと思った。


プリントが配られたとき、事件は二つ目になった。


「このプリント、あの……私の分がないみたい」


先生に言う前に、横の席の子が冷たく言った。


「今日から恵の分はないんだって。だって先生、人数ぴったりで準備したって言ってたよ?」

机の引き出しを見ると、プリントが一枚ぐしゃぐしゃに丸められて突っ込まれていた。

誰がやったかなんて、すぐに分かった。

いつも明るくて、クラスの中心にいる子たちが小さく笑っていたから。胸の奥が、少しだけチクリと痛んだ。

でも私は笑った。


「こういうの、よくあるよね」


そう言えば、軽い冗談にできると思った。

深刻にしたくなかった。

私は“嫌われていない”と信じていたかった。


帰り道。

下校のチャイムが鳴り、校門を出てから、スマホの通知に気づいた。


――誰かが私の写真を勝手に撮った

――加工されて笑い者にされていた

――クラスのグループで、私のことを「ぶりっ子」と笑っていた


夕焼けの柔らかさなんて比べ物にならないくらい、画面の光は目に痛かった


家に帰った私は、玄関で靴を脱ぎながら、思わず声を出した。


「ねぇ、今日ね――」話したかった。

少しだけでいい、聞いてほしかった。

でも母は振り返らなかった。

電話しながら、エプロンを外して、冷蔵庫の扉を乱暴に閉めただけ。


「悪い、あとにして。今忙しいの」


その言葉の途中で、私はもう話すのをやめていた。

喉の奥に押し込んだ気持ちが、熱を持ってじんじん痛んだ。


夕飯の味は覚えていない。

けれど、一つだけ忘れられない瞬間がある。


気づいたら泣いていた。

理由なんて母に聞かれなかった。

私も説明しなかった。

ただ、一人で泣いた。


そのときはまだ知らなかった。

あの涙が、“始まり”だったことを。

翌日、学校へ向かう足は重かった。

でも、行かなきゃいけない。休んだら「本当に弱い子」だと認めてしまう気がして。


教室に入ったとき、耳に入ってきたのは笑い声だった。

私を見て笑っているのではない。

――いじめられているのは、別の子だった。


黒板の前で、泣きながら謝っている小柄な子。

机には落書き、椅子は倒され、筆箱をぶちまけられていた。

クラスの中心にいる数人が周りを囲んで笑い、動画を撮っている。


胸がぎゅっとなった。

昨日のことを思い出したのとは違う。

ただ、怖いくらいの衝動があった。


――助けなきゃいけない。


気づいたら私は怒鳴っていた。


「やめてよ! そんなことして楽しいの!?」


教室が一瞬で静まった。助けを期待する視線が向けられた。

期待しているのは、泣いているその子だ。

そして、それを面白がっているのは、クラス全員だった。


「……何でエマが怒ってんの?」


リーダー格の女子がゆっくり近づいてきた。

笑顔だった。

でも、目が笑っていなかった。


「正義感のつもり? ヒーロー気取り?」


耳元で囁かれた言葉と同時に、背中を思い切り押された。

私は床に転び、クラスの笑いが爆発する。


「助けられると思ってたんだ? 誰もあんたなんかの味方じゃないのに」


ノートが足で踏みつけられ、髪を引っ張られる。

昨日まで「友達」だった子たちが、無表情で私を見下ろしていた。

その表情が、一番痛かった。

放課後。

机の中は空っぽ。 

私の持ち物が全部消えていた


探し回っていると、階段の踊り場で見つけた。

鞄、教科書、上履き……どれも水浸しで、破られていた。

その光景よりも、後ろでスマホを向けて笑う影の方が残酷だった。


「エマってさ、正義中毒? 弱いくせに守ろうとするとか、ウケるんだけど」


「助けを求める人ってさ、本当に助けてほしいわけじゃないんだよ? ただ、誰かを巻き込みたいだけ」


「巻き込まれたくないから、誰も助けないの。わかる?」


全部、理屈が通っているように聞こえるのが恐ろしかった。

彼女たちの残酷さは計算されていて、逃げ場がなかった。


家に帰ったら、玄関灯はついていなかった。

暗い家の中、母の部屋から小さな声が聞こえる。


「……ごめんね。今日も残業で」

私は声をかけられなかった。

今日のことを言っても、負担になるだけだと思った。


夕食はコンビニのおにぎりだった。

母はテーブルに置いただけで、「明日の資料が」と言いながら部屋に戻っていった。


私はひとりで食べた。

味はしなかった。


部屋に戻って制服を脱いだ瞬間、鏡に映った私を見て呼吸が止まった。

腕に赤い跡、首元に引っかき傷、膝には青あざ。


涙は出ない、声も出ない。


ただ、心が――折れた。


布団にもぐり、息を殺して泣いた。


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