57話
言葉が刃のように飛んだ。静かなベンチの空気が切れる。
アルトは一瞬、戸惑いを露わにした。首を振り、言葉を探す。
「違うんだ、あのね、エレナ――」
「違うんだ、じゃないの!」
エレナの声が震え、指先に力が入る。心の奥が沸騰するような怒りが湧き上がる。かつて守られていると信じた情景は、今や嘘の映像でしかない。
アルトの言い分を待たずに、エレナはひとたび立ち上がる。
その瞬間「バチン」という音が響く。頬が熱くなる。アルトは手を伸ばそうとして止まった。
傷ついた誇りと、裏切られた痛みが、エレナを突き動かす。
「あなたなんかのために、悲しんで、取り戻したくて――私がバカだったわ」
言い捨てるように、エレナは笑って去っていく。歩幅は速く、かつてここで共に笑った道を、今は一人で踏みしめていく。
屋敷の広間へ向かう足音が、階段の木目に重く響いた。
扉を押し開けると、薄暗い書斎の片隅で、父――アーベル公爵の影が見えた。
床に横たわるロドリクの体。父は膝まづき、赤い液の入った注射器を抱えているところだった。
「お父様、これは、どういうことですか!」
「違うんだ、これは……」
父は弁解の言葉を重ねる。だが声は震え、言葉そのものに支えがない。
エレナはその注射器を一目で認めた。血のように赤い液が、白いガラスの筒の中で鈍く光る。彼女は怒りを抑えられず、父の腕を掴み取ると、豪腕のように注射器を奪い取り、床へ投げつけた。ガラスが砕ける音が、冷たい間を切り裂く。
「これは、お前のためなんだぞ」
アーベルは目を真っ赤にして言った。
「これさえあれば、ロドリクはお前のことしか見えなくなる。お前は幸せになれる。だから、俺は――十年分の寿命を支払ってでも、――」
「寿命を支払って!? 何言ってるの?」
エレナの言葉は震えている。意味が飲み込めない。父の頬に、疲労とも狂気ともつかない影が落ちる。
アーベルは、息を荒くしながらぽつりと言った。
「――感情屋だ」
その言葉は何かの合図のように、彼の顔をゆっくりと別人に変えた。まるで誰かに糸で操られている操り人形のように、動作がぎこちなく、視線は虚ろになる。アーベルは言葉を続けようとしたが、急に黙り込み、ふらりと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
そのとき、誰かの声が聞こえたような気がした。
「あーあ、約束破るのは契約違反でしょ、悪く思わないでね、ふふっ」
「お父様!」
エレナは追いすがろうとしたが、足が震えて動かない。胸に冷たい石が落ちたように、世界が揺れた。
部屋には、床に転がる破片と、微かなアルコールのような匂い。
ロドリクはゆっくりと、浅い呼吸を取り戻していく。エレナは膝を折り、彼の傍らにしゃがみこんだ。震える手で彼の髪を撫で、嗚咽を堪えながら囁く。
「ごめんね、ロドリク。今まで辛い思いをさせてしまってごめんなさい。全部、私のせい……」
そのときロドリクの瞼がふっと震え、瞳がゆっくりと開かれた。眠りから醒めたような、少し途方に暮れたような表情で、彼はエレナを見上げる。
「……夢みたいだ。……エレナが、俺を抱きしめてくれてるなんて」
言葉は震え、驚愕と安堵が混ざっていた。彼の声はかすれ、目はまだ濡れている。エレナは泣き崩れるように、彼を抱きしめ返す。二人の身体は、床に落ちたガラス片の冷たさを忘れて、ただ熱を求め合った。
時間が、そこで止まったかのようだった。外の世界の音は遠く、二人だけの小さな宇宙ができていた。
エレナは言葉にならない謝罪を繰り返し、ロドリクはただ彼女を抱きしめ返した。涙が幾重にも重なり、ぬぐってもぬぐっても枯れない悲しみと安堵が、二人の胸を満たしていく。
しかし、その静けさは脆かった。窓越しに、かすかな足音が走る。誰かが三階の窓辺に立つ影。振り向けば、そこに立つのはアーベル公爵だ。彼の顔には、先ほどとは違う険しい決意が滲んでいた。瞳はどこか遠くを見ている。
次の瞬間、世界が断絶した。アーベルは、三階の窓から身を乗り出すようにして、そのまま宙へ身を投げた。時間が、鈍い音で割れる。風が、廊下を引き裂くように吹いた。
窓の外、冷たい夕暮れ。血のように赤い空の裂け目を通して、アーベルの影が小さくなっていく。
部屋の中に残されたのは、割れたガラス、散らばった書類、そして深い喪失の音だけだった。
部屋にはただ、二人の呼吸だけがある。胸の奥に残った痛みが、これからの行く先を示していた。




