55話
ティオが帽子のつばを少し上げ、にこりともせずに言った。
「切符を拝見します」
「え、き、切符……? 私、持って――」
言い終わる前に気づく。
手の中に、いつの間にか “金色の切符” があった。
さっきまで何も握ってなかったはずなのに。
エレナの手は自然と切符を差し出していた。
彼の手には古めかしい検札の道具があり、しかしそれは紙を斬るでもなく、空間を軽く撫でるようにして切符に触れた。
触れられた切符はほんの一瞬だけ光り、エレナの手の中で温度をもっているように感じられた。
「有効ですね。どうぞ、お掛けください」
ティオはそっと前を指し、微かな合図で二人を案内する。
車内は外から見たよりも広く、座席は古典的な木製の肘掛けと柔らかなクッションの組み合わせで、線路の振動をまるで吸収するかのように静かだった。
「これ……本当に乗り物なの……? 家じゃないのに、こんな……すごい…」
指で座席を軽く押すと、ふんわりと沈む。
触れたことのない素材に鳥肌が立つ。
窓際の席に腰を落ち着けると、木の匂いが鼻腔をくすぐり、すこしだけ落ち着く。足元には暖かいじゅうたんの感触がある。ティオが隣に座り、指先が不意にエレナの手の甲に触れる。彼の手は冷たくも無く、震えてもいなかった。ただ、そこにあってくれるだけで胸の奥が少し柔らかくなる。
外の光景はすぐに揺らぎ始めた。窓ガラスに映るのは風景ではない──それは白いフィルムのように過去の断片が貼り付き、ゆっくりとスライドしていく。埃っぽい市場の朝、子ども時代の夏祭り、兵士が笑った瞬間、エレナの手が動いた日の室内の光景。
場面が変わった。
そこでは、紅い薔薇が咲く庭園の一角。
木陰からこちらを覗くひとりの男――父、アーベル公爵の姿があった。
視線の先には、自分と……アルト。
ふたりが笑い合う姿。
父の眉間が深く寄り、低い声が漏れた。
「こんなの……ロドリクに見られてしまっては……婚約破棄になりかねん……!」
怒りを抑えきれず、アーベルは拳を木の幹に叩きつける。
「我が家の安泰は見込めない……!」
その声が風を裂いた瞬間、映像は変わる。
今度は、重厚な書斎。
アーベル公爵が、秘書のような男を呼び寄せている。
「……あの兵士、アルトとか言ったか。身辺を調べろ。家柄、経歴、すべてだ」
秘書が恭しく頷き、部屋を出ていく。
エレナは思わず立ち上がった。
「お父様……? どうして……そんなことを……?」
涙がにじむ。
だが次の瞬間、窓の光景がまた動いた。
二日後。
書斎の扉が開き、秘書が分厚い封筒を持って戻る。
アーベルがそれを受け取り、中身の写真を取り出した。
一瞬の沈黙ののち、唇がゆがむ。
「……ふん。そういうことか」
手元の紙には――使用人の格好で屋敷の裏口に立つアルトの姿。
明らかに「兵士」としての装いではない。
そして、場面が変わる。
庭園に立つ二人の男。
アーベル公爵とアルト。
冷たい空気が流れる。
「――事を荒立てたくないんでね。手短に言おう。娘とは今後、一切関わらないでほしい」
アルトの目が鋭くなる。
「なぜそんなことを……あなた、いったい……?」
アーベルは視線をそらさず答えた。
「エレナの父、アーベル・グレインだ」
沈黙。
アルトの喉が小さく鳴る。
「……そうでしたか。でも、俺は諦めません。彼女を――愛しています」
エレナの心臓が跳ねた。
「アルト……」
だが、その声は届かない。
アーベルが静かに一枚の写真を差し出す。
「――これは、なんだ?」
その写真には、先ほどの姿。
使用人の服を着て、屋敷で皿を拭くアルト。
「お前、兵士じゃないだろう?」
アルトの表情が凍りつく。
「家柄目当てで娘に近づいたんだな。そうだろう?」
アルトは視線をそらし、乾いた笑いを漏らした。
「……まぁ、そう思われても仕方ないですね」
「仕方ない……?!」
アーベルの声が震える。
アルトは目を伏せたまま、低く呟いた。
「最悪、俺とエレナの関係を暴露すると脅せば……大金が入る。金が入れば、それでいい」
エレナは窓の前で凍りついた。
「……え……うそ……? そんな……」
窓の中で、アーベルが冷ややかに言い放つ。
「好きにしろ。お前がどうなっても、私は知らん」
その言葉とともに、アーベルの姿が闇に溶けて消えていった。
光が収まり、列車の揺れが静かに戻ってくる。
エレナはただ、胸に手を当てた。




