44話
尊雅の視界が、にじむ。
「それが……母としての、精一杯の……」
言葉が、そこで途切れた。
「しかし、記録は残る。どれほど隠しても、宮の帳は嘘をつけない」
母は、深く息を吸った。
「桐生家が、それに気づいたやもしれませぬ。もし……もし、あの当主が確信すれば」
付きの者が、小さく言う。
「告白を……」
「そう」
母の声が、硬くなる。
「尊雅の存在、そのものを、正さねばならぬと言うであろう」
その瞬間、尊雅の中で、何かが切れた。
——正す?
——俺を?
襖の前で、尊雅の手が震える。
胸の奥から、怒りとも恐怖ともつかぬものが、せり上がってくる。
これまでの努力。
学び、耐え、信じてきた日々。
——全部、嘘だった?
尊雅は、襖に手をかけた。
そして——
勢いよく、開け放った。
「……母上」
部屋の中の二人が、はっと振り向く。
「尊雅!」
母の顔から、血の気が引いた。
思わず一歩、前に出る。
「聞いて……いたの?」
尊雅の目は、赤く濡れていた。
唇が震え、言葉が、怒りへと変わる。
「なんでだ」
声が、低く、荒れた。
「なんで……俺を……」
拳が、ぎゅっと握られる。
「なんで、俺の人生を、最初から嘘で固めた!」
部屋の空気が、張りつめる。
母は、答えようと口を開き——
言葉を、失った。尊雅の中で、
すべてが、崩れ始めていた。
数日後、場は設けられた。
宮中の一室。過度に豪奢ではないが、重みのある座敷だった。
空気が張りつめ、香の匂いが重く漂っている。
尊雅は、正面に座っていた。
背筋を伸ばし、顔には何も出さぬよう努めている。
その隣に控えるのは、母上。
向かいに座るのが、桐生家当主だった。
背はまっすぐで、目に濁りがない。
しばしの沈黙の後、当主が口を開いた。
「本日は、このような場を設けていただき、感謝いたします」
声は低く、落ち着いている。
「我が家が調べておりました件につき、
直接お話し申し上げるのが筋と考え、参上いたしました」
尊雅は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
だが、まだ耐えられる。
「申してみよ」
短く、尊雅は言った。
当主は、一つ息をつき、続ける。
「宮の古い帳面を改めて見直したところ、
出産の折の記録に、どうしても合わぬ点がございました」
尊雅の指先が、わずかに動いた。
「日付、付き添いの名、薬の手配。
それらが、帝の行幸の記録と合致せぬ」
重臣の一人が、眉をひそめる。
「それが、何を意味する」
当主は、視線を逸らさず答えた。
「……皇子・尊雅様が、
帝の血を継いでおられぬ可能性でございます」
室内の空気が、一段重くなる。
尊雅は、歯を食いしばった。
胸の奥で、何かが軋む。
「慎重に言葉を選んでいるつもりです」
当主は続ける。
「しかし、この件は、国の根に関わること。
もし事実であれば、伏せ置くべきではございません」
尊雅は、声を絞り出した。
「黙っては、もらえぬのか」
その一言に、室内の視線が集まる。
「この件は、無かったことにせぬか。
そなたの家も、官位を上げ、損はないようにする」
それは、譲歩だった。
尊雅なりの、精一杯の。
だが、桐生家当主は、首を横に振った。
「できませぬ」
その一言は、はっきりしていた。
「なぜだ」
尊雅の声が、低くなる。
「なぜ、そこまでする?なぜそこまで私を追い詰めようとするのだ!」
当主は、静かに言った。
「わたくしは、あなた様を貶めたいのではございません。
この国が、偽りの上に立つことを、恐れているのです」
尊雅の胸に、怒りが走る。
「偽り、だと?」
「はい」
当主は、目を伏せぬ。
「血筋は、ただの飾りではございませぬ。
民が、朝廷を信じる拠り所でございます」
尊雅は、立ち上がりかけた。
重臣が小さく制する。
「つまり、俺の存在が、
国を揺るがすと申すか」
「……結果としては」
その言葉で、尊雅の中の最後の糸が切れた。
——正義。
——国のため。
どれも、分かっている。
だが、その正義は、俺を切り捨てる。
「……告白すると、申すのだな」
「はい」
当主は、深く頭を下げた。
「朝廷に訴え、裁きを仰ぐ。
それが、我が家の務めでございます」
室内に、沈黙が落ちる。尊雅は、ゆっくりと腰を下ろした。
視線を伏せ、拳を握りしめる。
これまでの努力。
学び、耐え、積み上げた日々。
——すべて、無に帰す。
「……分かった」
尊雅は、低く言った。
「本日は、ここまでにいたそう」
桐生家当主は、再び一礼した。




