43話
尊雅が育った日々は、息をつく間もないほど張り詰めていた。
朝は早く起こされ、夜は灯が落ちるまで学ばされた。字、史、礼、剣。少しでも姿勢が崩れれば、母の視線が背に刺さる。
「皇帝にならねばなりませぬ」
母はそう言い続けた。
それは夢ではなく、定めだった。
幼い尊雅は疑わなかった。
母がそう言うなら、それが正しいのだと思った。
だが年を重ねるにつれ、少しずつ分かってくる。
自分は第三位。
どれほど努めても、前には二人いる。
周囲の大人の言葉は丁寧だが、どこか距離があった。
十八になったある夜。
夜は更け、宮の回廊には人の気配がなかった。
灯籠の火が静かに揺れ、床に長い影を落としている。
尊雅は、ただ歩いていた。
目的があったわけではない。眠れなかった。
胸の奥が、ずっとざわついていた。
母の私室の前に差しかかったとき、
中から声が聞こえた。
低く、抑えた声。
母と、長く仕えている付きの者の声だった。
尊雅は足を止めた。
聞くつもりはなかった。だが、体が動かなかった。
「……やはり、桐生家が動いております」
付きの者の声は硬い。
「宮の古い記録を、改めて調べたようにございます。
出産の折の帳面……日付が合わぬ、と」
しばしの沈黙。
灯のはぜる音が、やけに大きく聞こえる。
「……あの家は、目ざとい」
母の声だった。
いつもの凛とした声ではない。
どこか疲れ、擦り切れた声。
「正義感が強すぎる。
黙って見過ごす、ということを知らぬ」
尊雅の胸が、嫌な音を立てた。
桐生家。
最近、母がその名を口にするたび、表情が曇るのを知っていた。
付きの者が、ためらうように言う。
「もし……もし、確信を持たれれば……
告白を、求められるやもしれませぬ」
母は、きっぱりと言った。
「それだけは、なりません」
声に、震えはなかった。
決意の音があった。
「尊雅は……」
一瞬、言葉が途切れる。
「尊雅は、帝の血を継いではおりませぬ」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、尊雅の耳に、はっきりと届いた。
世界が、音を失った。
付きの者が、息をのむ気配がする。
「……奥方様」
母は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと語り始めた。
「わたくしも、かつては娘でした」
その声は、遠い過去を撫でるようだった。
「幼いころより、教え込まれて育ちました。
皇帝の妻となるために、どう振る舞い、どう笑い、
何を捨てるべきかを」
尊雅は、壁に手をついた。
指先が冷たい。
「好き嫌いなど、考える余地もなかった。
心より先に、立場がありました」
付きの者は、何も言わない。
「……ですが」
母の声が、わずかに揺れた。
「そのころ、好きな者ができたのです」
尊雅の喉が、ひくりと鳴った。
「畑で働く者でした。
名も、家も、何も持たぬ者」
母は、苦く笑ったようだった。
「釣り合わぬ、と分かっておりました。
誰にも言えぬことだとも」
尊雅の胸が、締めつけられる。
「それでも……話し、笑い、
その者のいる場所が、息のしやすい場所になっていた」
付きの者が、震える声で言う。
「奥方様……」
母は、続けた。
「やがて、子ができました」
尊雅の呼吸が、浅くなる。
胸の奥が、崩れた。
「親に知られれば、すべてが終わる。
その者も、子も、消される」
母の声は、静かだった。
だが、その静けさの奥に、深い恐怖があった。
「だから……選ぶしかなかった」
付きの者が、唇を噛む。
「帝の子として育てることを。
それしか、尊雅を生かす道がなかった、全て、私が悪かったのよ」




