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時間を巻き戻せる切符――代償は、君との一年分の記憶でした    作者: まなと
第十五章 皇帝になれなかった男

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43話

尊雅が育った日々は、息をつく間もないほど張り詰めていた。

朝は早く起こされ、夜は灯が落ちるまで学ばされた。字、史、礼、剣。少しでも姿勢が崩れれば、母の視線が背に刺さる。


「皇帝にならねばなりませぬ」


母はそう言い続けた。

それは夢ではなく、定めだった。

幼い尊雅は疑わなかった。


母がそう言うなら、それが正しいのだと思った。

だが年を重ねるにつれ、少しずつ分かってくる。

自分は第三位。

どれほど努めても、前には二人いる。


周囲の大人の言葉は丁寧だが、どこか距離があった。

十八になったある夜。

夜は更け、宮の回廊には人の気配がなかった。

灯籠の火が静かに揺れ、床に長い影を落としている。

尊雅は、ただ歩いていた。


目的があったわけではない。眠れなかった。

胸の奥が、ずっとざわついていた。

母の私室の前に差しかかったとき、

中から声が聞こえた。


低く、抑えた声。

母と、長く仕えている付きの者の声だった。

尊雅は足を止めた。

聞くつもりはなかった。だが、体が動かなかった。


「……やはり、桐生家が動いております」


付きの者の声は硬い。


「宮の古い記録を、改めて調べたようにございます。

出産の折の帳面……日付が合わぬ、と」


しばしの沈黙。

灯のはぜる音が、やけに大きく聞こえる。


「……あの家は、目ざとい」


母の声だった。

いつもの凛とした声ではない。

どこか疲れ、擦り切れた声。


「正義感が強すぎる。

黙って見過ごす、ということを知らぬ」


尊雅の胸が、嫌な音を立てた。

桐生家。

最近、母がその名を口にするたび、表情が曇るのを知っていた。

付きの者が、ためらうように言う。


「もし……もし、確信を持たれれば……

告白を、求められるやもしれませぬ」


母は、きっぱりと言った。


「それだけは、なりません」


声に、震えはなかった。

決意の音があった。


「尊雅は……」


一瞬、言葉が途切れる。


「尊雅は、帝の血を継いではおりませぬ」


その言葉は、静かだった。

だからこそ、尊雅の耳に、はっきりと届いた。

世界が、音を失った。

付きの者が、息をのむ気配がする。


「……奥方様」


母は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと語り始めた。


「わたくしも、かつては娘でした」


その声は、遠い過去を撫でるようだった。


「幼いころより、教え込まれて育ちました。

皇帝の妻となるために、どう振る舞い、どう笑い、

何を捨てるべきかを」


尊雅は、壁に手をついた。

指先が冷たい。


「好き嫌いなど、考える余地もなかった。

心より先に、立場がありました」


付きの者は、何も言わない。


「……ですが」


母の声が、わずかに揺れた。


「そのころ、好きな者ができたのです」


尊雅の喉が、ひくりと鳴った。


「畑で働く者でした。

名も、家も、何も持たぬ者」


母は、苦く笑ったようだった。


「釣り合わぬ、と分かっておりました。

誰にも言えぬことだとも」


尊雅の胸が、締めつけられる。


「それでも……話し、笑い、

その者のいる場所が、息のしやすい場所になっていた」


付きの者が、震える声で言う。


「奥方様……」


母は、続けた。


「やがて、子ができました」


尊雅の呼吸が、浅くなる。

胸の奥が、崩れた。


「親に知られれば、すべてが終わる。

その者も、子も、消される」


母の声は、静かだった。

だが、その静けさの奥に、深い恐怖があった。


「だから……選ぶしかなかった」


付きの者が、唇を噛む。


「帝の子として育てることを。

それしか、尊雅を生かす道がなかった、全て、私が悪かったのよ」


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