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時間を巻き戻せる切符――代償は、君との一年分の記憶でした    作者: まなと
第十三章 刃が迫る夜

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36話

「蒼真殿。人は一人では何もできない。世に顔を見せることではなく、そなた自身と約束を交わすこと。たとえ怖くても、一日一日を出向くことで、己の居場所が一つずつ出来てゆく。そなたが一歩踏み出せば、世はそなたにまた一つの手を差し伸べるのです」


その言葉は、ほっとするような励ましだった。蒼真は目を伏せ、胸の奥で何かが固まるのを感じた。──学校に行く勇気。それは、他人のためでなく、自分のために立てる小さな誓いなのだと、初めて思えた。


二人はしばらく、言葉にならぬ話を交わす。星がいくつも瞬き、夜の空気は薄く冷たい。緊張がすっとほどけた。

そのとき、遠くから馬の蹄の音が届いた。夜の静けさに、蹄の振動だけが低く響く。


二人は同時に立ち上がり、背後を警戒した。草の匂いを切って近づいてくる足音が、じりじりとこちらへ寄る。だが間に合わなかった。馬の姿が暗がりを切り裂き、甲高い声が夜に投げられる。


馬上の男が姿を現した。鎧ではなく普段着の上から羽織るようなものを着て、表情は氷のように冷たい。お千代は一瞬、安堵を覚え、笑みを浮かべる。


「助けに来てくれたのですか?」


男の口元が僅かに歪んだ。笑みは嘲りへと変わる。


「助けに来た? そんなわけがあるか。お主を、なきものにするために来たのだ」


お千代の顔が固まる。目が大きく見開かれ、信じられぬという色が走る。 


「あなたは武士……国を守る者ではないのですか?」


馬上の男の目に、憤りが燃えた。彼の言葉は低く、だがはっきりしている。


「公家は身分は高いが、実権はほとんどない。格式だの家柄だの、朝廷の傍若無人さを見よ。実際に国を動かしているのは私たちなのに、なぜあちらが上に据えられる。憤りというものは、いつしか刃になる。今宵、その刃はお主どもへのものだ」


馬の側に、次々と人影が現れた。十か二十か、正確な数はわからない。松明の先、手にしたのは長い木の棒が火を受けたように赤く染まっている。群れの沸き立つ声が、夜を埋め尽くす。


蒼真は本能でお千代の手を取り、走り出した。足音は土に喰われ、息が耳を張る。彼は自分の胸に誓いを刻むように、低く叫んだ。


「俺は、君を絶対に死なせない! そう誓ったんだ! あのときも――!」


言葉は途切れ、彼の足は速まる。だが、すべてがうまく行くわけではなかった。お千代が、石段の縁で足をひねった。柔らかく悲鳴が漏れ、身体が揺らぐ。


「なにぶん、運動不足で……」と、お千代は照れを含んだ声を出すが、その顔色は真っ青だ。


蒼真は反射的に彼女を抱き起こそうとしたが、近くに大きな岩を見つけ、そこへ二人で身を隠すように転がり込んだ。影は深く、二つの影が岩の陰に溶ける。


だが安全は長くは続かなかった。上から、葉擦れに混じって、刃が振り下ろされる音がした。暗闇の縁に、武士が刀を振りかざして立っている。彼の顔は無表情で、刃先に冷たい意志が宿っている。


蒼真は咄嗟にお千代を抱き上げ、胸に抱きしめた。剣光が岩の影を裂き、風が刃の通り道を告げる。蒼真の足は再び動き、暗がりへと二人を押し出す。背後で焔の匂いが濃くなり、遠くで誰かが叫ぶ声が高く嗄れる。


「行くぞ!」と蒼真は声を張った。


お千代の小さな体は彼の腕の中で震えているが、その瞳は、わずかに強さを取り戻しつつあった。


二人は再び夜の中へ走りだした。刃と蹄の影が追いかける。山道は暗く、ただ二人の息だけが確かにそこにあった。


雪の匂いが鼻を刺し、耳はもう風の音だけになっていた。足は氷のように重く、指先は感覚を失っても、蒼真の脚は止まらなかった。お千代を背に抱え、斜面を這うように下り、谷を抜ける。夜は濃く、星は風に消されてしまっている。


吹雪は次第に激しくなり、雪粒が顔面を叩きつけるたびに、二人の視界は白い幕で塞がれた。息が浅くなる。やがて足取りは鈍り、膝が砕けるように折れた。雪が靴を重くし、体温が奪われる。お千代の体がふるえ、頭がぐらりと下がるのを感じたとき、蒼真ももう限界だった。


視界の縁が暗く沈み、耳鳴りのような風の音に混じって、遠くで誰かが呼ぶ声がするような気がした。彼は必死で目を見開こうとしたが、雪の白さがじりじりと意識を飲み込んでいった。

蒼真とお千代が雪の上で倒れ、吹雪が二人に襲い掛かかった。

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