35話
屋敷を抜け、石畳を駆け抜けると、二人は裏門を越え、ひたすら往く。夜風が彼らの耳を切る。後ろからは混乱した叫びと足音が追いかけるが、それは次第に遠くなっていく。町の明かりが後方へ過ぎ去り、やがて二人の前に山の暗がりが迫ると、蒼真は足を緩めた。
お千代は一度、立ち止まり、浅い息をつくと、やっと顔を上げた。震える声で尋ねる。
「な、なにごとですか? 蒼真──一体……」
江戸言葉の微かな抑揚を残しながらも、その瞳にはただならぬ混乱が映る。蒼真は大きく息を吸い、言葉を選んで静かに、しかし真実だけを告げた。
「君の未来を、知っている。歴史の記録に、君の名がある。何者かによって暗殺され、桐生の一族は全滅すると――」
お千代の顔が一瞬、石のように固まった。驚愕が、血のように色を変えてゆく。
それでもやがて、彼女は自分を落ち着かせようとするように、近くの丸太に腰を下ろした。
お千代は丸太に腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
夜露に濡れた草の匂いと、遠くでまだかすかに響く町の騒めきが、現実感を伴って迫ってくる。
「……暗殺、まさか……」
その言葉を、口の中で転がすように繰り返す。
自分に向けられた言葉だと理解するまで、少し時間がかかった。
「桐生家が……全滅……?」
小さく笑おうとして、うまく口角が上がらない。
笑って否定したいような話だ。
「そのようなこと……あるはずが……」
声が震え、途中で途切れる。
父の顔が脳裏に浮かぶ。厳しくも誠実な父。
朝、いつも通りに交わした言葉。
母の手。兄の背中。
今も屋敷にいるはずの人々の姿が、次々と胸に押し寄せる。
「……嘘であろう?」
お千代は蒼真を見上げた。
縋るような視線だった。
「そのような未来、聞いてはおらぬ。
桐生家は何も……何も恨みを買うようなことは……」
言葉を重ねるほど、息が乱れていく。
胸の奥が、じわじわと冷えていく感覚があった。
「もし……もし、それが真なら……」
お千代の声が、急に低くなる。
お千代は、はっと息を呑み、両手で口元を押さえた。
首を小さく振る。
否定するように、何度も。
「そのようなこと、受け入れられない……受け入れたくない」
声が掠れ、涙が滲む。
混乱と恐怖が入り混じり、感情の置き場を失っている。
「では……私は……
私は、なぜ今まで……何も知らずに……」
問いは次第に、自分自身へ向かっていく。
守られてきた立場。何も疑わず、屋敷の中で過ごしてきた日々。
それらが一気に脆く、危ういものに変わっていく。
「……怖い……」
ぽつりと漏れた言葉は、夜に溶けるほど小さかった。
蒼真は一歩近づき、静かに言った。
「だから、今夜だけでも救いたかった。
全部を変えることはできなくても……君だけは」
お千代はその言葉に、はっと顔を上げる。
混乱の中で、ひとつの現実が、鋭く胸に刺さった。
「……では、これは……
一時の逃れに過ぎぬと申すのですか?」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、お千代は深く息を吸い、乱れた心を無理やり押さえ込むように背筋を伸ばした。
「……分かった」
声はまだ震えているが、そこには桐生家の娘としての強さが戻り始めていた。
「今宵は避けられた。
ならば、明日……父上に申します。
どのような形であれ、備えなければなりません」
その決意の言葉を聞きながら、
蒼真は胸の奥で、言いようのない痛みを覚えていた。
お千代はぽつりと笑って、肩をゆるめた。
「今日だけは、そなたに甘えてもよかろうか?」と、声はほんのり震えるが、瞳は真っ直ぐだ。
蒼真の心臓が、思わず大きく跳ねた。
お千代はひょいと身を寄せ、肩にもたれかかる。夜風が二人の頬を撫で、行灯の光とも違う、星の冷たい輝きが頭上を渡る。お千代の髪が蒼真の襟先に触れたとき、世界が一瞬、柔らかく溶けた。蒼真はそっとお千代に話しかけた。
「俺、なぜか、君と話してると落ち着く。現代では、人と関わることができなくて……でも、今は違う」
お千代は目を細めて不思議そうに首を傾げる。
「そうなのか? 意外だな。されど、よきことである。人は、互いに支えあって生きるもの。蒼真は、自分が思うよりずっと強い」
蒼真の胸の奥が、そっと温かくなる。お千代は、少しだけ間を置いてから、声を落とした――それは、これから先の言葉が、誰かを動かす力を持つと自覚したかのようだった。




