33話
車内は想像以上に静かで、古い木製の椅子と冷たい金属の手すりが混在していた。蒼真は席に腰を下ろし、切符を固く握りしめる。窓の向こうには、いつしか映像が揺らぎ始めた——過去の断片がガラスに次々と映し出される。
最初は街角の通行人、次に小さな子どもの笑い声、そして──お千代。
着物の裾を整え、庭先で風に髪を遊ばせるその姿が、はっきりと窓に映った。蒼真の胸を針で刺すような疼きが走る。目を見開き、唇を噛んで小さな誓いを呟いた。
「絶対に助ける……必ず助けてみせる。」
ティオは蒼真の横にそっと座り、窓の映像に目を向けたまま、低く言った。
「焦りは刃となり、自分をも傷つける。まずは見失わぬこと、次に証拠を見定めること。
そして、覚えておいて――怒りは行動を曇らせるが、冷静さは道を拓く。君が取る一手が、誰かの命を作るんだよ。」
ティオの言葉は冷静で、しかし慰めでもあった。それは励ましではなく、訓練めいた助言——行動のための地図だった。蒼真は切符を握りしめ直し、胸の奥で冷たい決意を固めた。
胸の中で何かが軋む——好きでいることの、残酷な現実。
一瞬、世界が止まった。冷たい朝の風だけが二人の間を流れる。
「ここで降りよう、ここから君のやり直しが始まる。さっき言ったこと、忘れないでね」
蒼真はうなずいた。やがて、ドアがゆっくり開き、やり直しへの一歩を踏み出した。
はっと我に返ると、蒼真は口を固く結び、足を動かした。今は追いすがるときではない。目の前の“事実”を受け止め、これから何をすべきか考えること──それが、いま自分に必要な冷静さだと自覚した。
彼は人混みに紛れるようにして後ろへ下がった。お千代と婚約者が歩いて行くのを見送りながら、蒼真は静かに計画を練り始める。どう助けるのか、いつ動くのか、誰を味方につけるのか——頭の中で無数の可能性が渦を巻いた。
決意は固い。だが、行動は慎重でなければならない。蒼真は窓の映像に刻まれたあの表情を、胸の奥に深くしまい込んだ。彼が口に出した誓いは、まだ叫びではなく、これから積むべき行動の証になりつつあった。
蒼真は、通りの端に立ち止まった。夜気がまだ冷たく、行灯の光が揺れるだけの路地に、貴族の奥様方の囁きが淡く残っている。
「また火事があったんですって、まあ怖いわねえ」
「大騒動で皆、逃げ出したらしいのよ。夜には気をつけないと」
その言葉が、胸の奥で小さく音を立てた。火事──江戸の耳には、ただの出来事ではない。鐘が鳴り、纏が翻り、町の時間ごとひっくり返る。奥様方の恐れと、どこか楽しげな好奇心が混じった声色を思い出すと、蒼真の頭の中にひとつの絵が浮かんだ。煙。人の足が慌て、視線が散るあの混乱の中なら、屋敷の裏口からお千代を連れ出せるのではないか──。そして、その騒ぎで暗殺が防げるかもしれない。しかし、
本当に火事を起こすわけにもいかない。
そう考えながら歩を進めると、角の薬屋の前で声が張り上がっているのが聞こえた。蒼真は足を止め、軒先に寄り添うようにしてそっと耳を傾けた。
「申し訳ない、申し訳ない」
店主の声は、商いの床に染みついたように平静だが、どこか狼狽が混じる。向かい合う客の声は、怒りとも悲しみともつかない。
「おぬし、厄よけにいいと言うたではないか。高うに買わされたのじゃ。暖炉の側に置いたら、ものすごい煙が出てきたんでな、家中が大騒ぎになったのじゃ。何事かと、そらもう…」
「うちの品がそのようなものとは、知らなかったのです。申し訳ない。だが、その品は新種でしてな、まだ分らぬことも多いのだ――」
客は腕を振り、店主はただ頭を下げる。そのやり取りを、蒼真は息を殺して見つめた。そこで蒼真は気づいた。それは、現代でいう発煙筒のようなものではないかと。
奥様方の噂、この薬。この二つを合わせると、火事に見せかけることができる、お千代を助け出すことができる、そう気づいたのだ。
ならば――。




