3話
青白い光の渦に包まれ、身体が宙に浮く感覚――重力が消え、耳鳴りが響き、視界が光と影の渦に変わる。心臓は激しく打ち、呼吸は乱れる。恐怖で全身が震え、目の前の光景を理解できず、ただ混乱するだけだった。
やがて渦が収まり、足元に冷たい金属の床の感触が戻る。視界が安定すると、悠真は長く伸びるホームに立っていた。そこには銀色に輝く列車――時空電鉄が静かに停まっている。天井には歯車と時計が無数に組み込まれ、光と影が交錯する空間。
「……え……?」
声にならない声を漏らす悠真。まるで夢の中に迷い込んだかのようだ。視線を下ろすと、手のひらに一枚の切符が握られていた。自分がいつ持ったのかもわからない。一歩踏み出す。冷たい金属の床に足を置くたび、胸の奥の恐怖と希望が入り混じる。
「……やり直す……母さんに会うために」
リュカが最後に微笑み、悠真は列車に向かって歩き出した。切符はしっかり手の中で光り、未来と過去をつなぐ唯一の道具となっていた。
少年の声は穏やかだが確かな存在感があった。悠真は思わず息を呑む。切符の文字は金色の光で浮かび、「悠真・目的地:過去」とだけ書かれている。
「……あ、あの……」
言葉を探す悠真に、リュカは微笑みながら頷く。
「大丈夫だ。だけど、さっきも言ったがここから先は君の選択次第だ」
悠真は列車の一段高くなった乗降口に足をかけ、ぶるぶると震える指で切符を握りしめた。金色に浮かぶ文字が、手のひらの熱でかすかに滲むような錯覚がした。列車の扉が軋み、内部の空気がそっと流れ込む。深く吸っても、胸の奥の締めつけは消えない。
「こちらへどうぞ」
やわらかな声に導かれて振り向いた。そこには、制服を着た少年――車掌のティオが悠真の前に立っていた。制服の袖口には小さな時の紋章が刺繍されている。微笑みを浮かべ、しかし目は真剣そのものだ。恐怖と困惑で固まる悠真に、ティオが優しく声をかける。
「それが君の切符だよ」
「怖がらなくていい。ここから先は君の選択次第だ」
悠真が動揺して立ち尽くす間も、ティオは静かに検札の準備をする。
「さあ、乗る準備はできているかな?」
ティオは取り出した小さな鋏のような道具を、ほのかに光らせる。これは検札用の道具だ。普通の切符切りではなく、どこか儀式的で、刃先が空間を少しだけ裂くような感じがする。
「切符を見せてくれる?」
悠真が震える手を差し出すと、ティオは丁寧に受け取り、切符の端を軽く挟んだ。小さな金属音――刃が切符を撫でると、紙ではなく光の薄膜が裂けるように音がして、切符が一瞬だけ青白く輝いた。
「有効、だね」
ティオの顔に安堵の影が走る。彼は切符を悠真に返した。その切符は、ただの通行証以上の意味を持っているかのようだった。
「乗っていいよ」
言葉は簡潔だったが、悠真の胸に小さな灯がともる。
悠真はまだ心臓が跳ね、体中が震えているが、目の前の扉――列車の中――は、彼を待っていた。
足を進めると、車内は意外な静けさに満ちていた。座席には人影があるようでいて、はっきりとは見えない。乗客たちは皆、どこか時間の狭間にいるような顔をしている。だがその中に母の姿はない。窓の外、あるいは窓の内側に重なる何枚かの像がゆらゆらと揺れていた。
悠真は空いている席に腰を下ろし、切符を握りしめたまま、視線を窓へと向ける。窓の表面は鏡でもない、ガラスでもない。向こう側に映るのは確かな実像ではなく、過去の光景の断片だった。幼い頃に母と一緒に食べた味噌汁の湯気。大学合格を祝ってくれた夜の照明。電話に出られなかったあの夜の、母の留守電の再生波形が、目に見えるように揺れた。「覚えている?」
ティオが優しく尋ねた。言葉は柔らかく、押しつけがましくない。悠真は首を振った。喉がつまり、言葉が出ない。ここでの"覚えている"とは何を指すのか、彼自身も曖昧だった。彼は記憶そのものを取り戻すのではない。だが窓に映る光景は、彼の心に新たな波を投げ込む。
「覚えていなくてもいいんだよ」
ティオの手がそっと悠真の肩に触れた。「ここでの体験が、君の中の何かを変える。忘れることと、学ぶことは違う」
悠真は肩越しにティオの顔を見た。年齢よりもずっと落ち着いた瞳。そこには余計な同情はないが、確かな共感があった。彼は目を閉じ、涙がひとすじ頬を伝うのを感じた。決断のとき、すでに心のどこかで始まっていた小さな変化が、静かに広がっていく。
列車は音もなく動き出したように感じた。揺れは穏やかで、だが確実に前へ進む。窓の映像は次第に時間の帯を遡るように流れ、幼い日の夏祭り、大学の前での言い争い、母の入院を知らされる日の混乱――片端から切り取られた情景が、悠真の胸に並べられていく。その全てが、彼の人生という一本の線をやさしく―しかしきっぱりと―示していた。「時は戻る。でも、戻って変えられるのは、その中で君が選ぶ行動だけだ」
ティオの声が、小さな灯りのように差し込む。彼の言葉は押し付けではない。だが、どこか鍵のように作用し、悠真の思考の断片をつなぎ合わせた。最初の映像は突き放すように短かった。台所で微笑む母の横顔。皿を拭く手際のよさ。悠真は思わず手を伸ばすが、指先は冷たい窓の表面に触れても、何も掴めない。記憶の映像は、ふっと指先のそばをすり抜けるだけだ。胸が疼いた。触れたくても触れられない――それが、全ての残酷さだった。
「辛いね」
ティオがぽつりと言った。声は隣にいるにもかかわらず、窓の中の映像に届いているかのように、柔らかく響いた。彼は悠真の隣に腰を下ろし、こちらを見ずに窓の中の景色を見つめた。
「ここに映るのは、君が抱えているものの一部だよ。全部じゃない。でも、覚悟を求めるために必要なものだけが、正確に映るんだ」
ティオの言葉は説明というよりは事実の提示だった。悠真はうなずくこともできず、ただ窓の揺れる像を食い入るように見た。
窓の映像は次第に長く、密度を増していった。母と交わした何気ない会話が、言葉の息遣いまで再現される。あの時、自分が「あとで」と言った瞬間の沈黙――母が電話の向こうで小さく息をついた音まで、窓は映していた。悠真の胸は引き裂かれるように痛んだ。記憶の重みは、ただの過去の事実ではなく、今も生きた感情として襲ってくる。悠真はゆっくりと切符を握り直した。触れられないものは多い。それでも、できることが一つだけある――向き合うこと。やり直すために何をするかを、選ぶこと。




