26話
「離せ!」斗真が飛び込む。
男の動きは素早い。だが、斗真は躊躇しない。飛び蹴り、掴み、押し返す。二人の間で短い乱闘が生まれる。拳が飛ぶ。机が倒れる。血の匂いではなく、恐怖の匂いが充満する。
だけど、相手は成人で、力は重い。男はナイフこそ持っていないが、方向を変えた。台所の引き出しから包丁を掴み取るその一瞬、時間がスローになった。斗真の体が後退する。足が滑って尻もちをつく。視界に鮮やかな刃先が揺れる。
「やめて、やめて!」玲奈が叫ぶ。声が割れる。彼女の手が男の腕を引くが、男は力任せに振り放す。刃が空を切る。
そのとき。
窓の外で、警察のサイレンが二度、三度。踊るように光が入る。外階段を駆け上がる足音。ガラスの向こう、制服の影。男の顔が一瞬、歪んだ。慌てて包丁を振り上げるが、数人の声が一斉に飛んできた。
「警察だ! 手を上げろ!」
突入。数秒が永遠のように伸びる。制圧される男。押さえつけられる腕。玲奈は膝から崩れ落ち、震えながら嗚咽する。斗真はふらつき、床に手をついて息を整えた。胸の奥で温かいものが、じわりと戻ってくる。
救急隊員が到着し、玲奈を優しく抱きかかえる。止血と簡単な処置。斗真の顔にも擦り傷があり、腕は腫れている。担架の上、二人はつながれて救急車へ。警察官が、落ち着いた口調で説明を始める。
「通報者は、子どもっぽい声の男の子でした
通報してくれた人は、どなたですか?」
捜査官の問いに、玲奈と斗真は首をかしげる。
斗真は頭の中で、あの青い制服の胸章のことを思い出す。ティオ――車掌。列車で、静かに手を振っていたあの笑顔。もしや。胸の奥がじんと熱くなった。
救急車の中で、玲奈は震えながらも小声で言った
「ありがとう、斗真……」
斗真は答えず、ただそっと頬に触れた。涙が混じる。痛みは消えないが、確かに守れたという感触が、身体を占めていた。
後日、事情聴取。警察は男を連行し、取り調べの結果――男は暴行・脅迫で現行犯逮捕。母親はその後の捜査で保護責任放棄や共犯の疑いで事情聴取を受け、のちに捜査の過程で一時的に拘束される。現実の裁きはゆっくり進むが、少なくともその晩、二人は生き延びた。
「通報してくれたのは、たぶんティオさんじゃないかな」
玲奈が小さく笑った。まだ顔は青白い。だがその声には安堵が混じる。
玲奈が叔母の家へ引き取られることになった日。
夕方の空は、泣き出しそうな灰色で、バス停に停まったワゴン車の窓には冷たい霧がついていた。
斗真は、玲奈の荷物が積まれていくのを黙って見つめていた。
何か言わなきゃいけない気がするのに、喉が張りついて声にならない。
玲奈は最後に振り返り、少しだけ笑った。
泣きはらした目が赤く、それでも強がるように。
「……今まで、ありがとね。私、本当に救われたよ」
「俺も――ありがとう。玲奈が生きてて、本当に……よかった」
言うと、玲奈はびくっと肩を揺らし、涙がすっとこぼれた。
その瞬間、斗真はポケットの中の小さな封筒を握りしめる。
「これ…渡すの、今しかないよな」
震える手で、玲奈に封筒を差し出した。
白い封筒。
表には、丁寧な字でこう書かれている。
『いつか、もう一度会うための手紙』
「なにこれ……?」
「俺はまた君と会いたい。たとえ記憶がなくなっていても、だから書いてある日に来て
ほしい」
玲奈は唇をきゅっと結んで、封筒を胸に抱きしめた。
「……うん。絶対、忘れない」
その手が震えているのが見えた。
斗真も、涙がこぼれそうになるのをこらえる。
ワゴン車のドアが閉まり、エンジン音が鳴り響く。
玲奈はガラス越しに手を振り、声なき声で「またね」と言った。
車が走り去り、角を曲がって見えなくなった瞬間、
斗真はその場に立ち尽くし、ポケットの中の“自分の手紙”を強く握った。




