25話
扉の向こう、事務室の蛍光灯はやさしく点いていて、受付の女の人は笑っていた。書類の山、温かいコーヒーの湯気、平日のゆるい空気。斗真はそのすべてに、ちょっと救いを期待していた。
「名前と、簡単な状況を教えてくださいね」
受付の声は柔らかかった。椅子の布地が背中に触れる。玲奈の指先が震えている。斗真はそれを握りしめ、腕の中で小さく力を込める。
玲奈は唇を噛んで、ゆっくりと口を開こうとした。喉の奥で何かが固まって、言葉は一度、詰まる。胸の中の暗い箱を開ける準備をしているのが見える。――ここで話せば、誰かが動いてくれるかもしれない。誰かが「やめなさい」と言ってくれるかもしれない。彼女はそれだけを望んでいた。
しかし、玲奈が最初の言葉を出した瞬間、空気が変わった。
ドアが開いて、長い影が差し込む。そこに立っていたのは――あの男だ。笑顔を作った、背の高い男。シャツの襟にシワはない。だが、その笑顔は紙の仮面みたいに薄っぺらく、目の奥はまったく光らない。
受付の女性の手が一瞬止まる。時計の針がカタンと一秒進むように、静寂が訪れた。玲奈の顔色がぱっと白くなる。斗真の心臓が、直径の小さな鉄球みたいに胸で跳ねた。
「玲奈、こんなところにどうした?」男の声は静かで、まるで見知らぬ人に道を尋ねるときみたいだった。だがその声は、丁寧な殺意を含んでいる。
玲奈の体が小さく震えた。唇が紫に近い。彼女は立ち上がろうとした――逃げるためじゃない。説明を続けるために、足を動かしたかっただけだ。しかし男の瞳が、彼女の動きを一瞬で止めた。
男は、ゆっくりと、そして確実に玲奈に近づいた。手つきは荒々しくない。だが腕を掴むその指先には、抜けない力があった。玲奈が「いやだ」と口を開きかけて、声が引きつるように止まる
「ここで何を?」受付の女性が割って入ろうとする。だが男の微笑みが、その手を一瞬で押し止める。微笑みは合図だ。周囲の大人たちは「面倒を避ける」理由を瞬時に嗅ぎ分ける。そういう生き物だ。
斗真は立ち尽くした。血がのぼる。足の裏が床に吸い付くように動かない。叫びたい。警察を呼びたい。だが喉は鋼で塞がれているみたいに固い。言葉が出てこない。
出せば、もっと酷いことになる予感が、鋭く胸を刺す。
男はゆっくりと玲奈の腕を引っ張った。彼女は小さな声で「やめて」と呟く受付の机の角が、緊張でキンと光った。
男は斗真をチラリと見た。笑いながら目で脅す。で、次の瞬間、男は玲奈を引きずるようにして入口へ向かう。。
「ちょっ――!」玲奈の叫びがフロアに引っ掛かる。斗真はその声にようやく動いた。足が動く。が、男は大人だ。受付の女性の前を堂々と通り抜け、外へ出る。人々の視線が短く彼を追うが、誰も止めない。止められない空気。社会の距離だ。
「待ってください!」斗真は叫んだ。全身の血が沸騰する。だが男は振り向きもしない。振り返るとき、僅かに口元が歪んだ。笑顔の皮が一枚、薄く裂けたような瞬間——その目が、斗真を貫いた。玲奈の顔が、今なお振り返る。目には涙と怒りと、深い疲れ。斗真はその表情を胸に焼き付ける。――ここで何もしなければ、あの日と同じだ。あのときの無力感が、再び自分の背中を押した。
しかし、男はそのまま玲奈の腕をつかんで、すごい勢いで受付の自動ドアを押し開けた。風が入る。外の冷たい空気が二人を包んだ。男の肩越しに、一瞬だけ彼は振り返った。笑顔は完全に消え、瞳は金属のように冷たく光った。
第11章4
体が、鉛のように動かない。
靴底が床に吸いついたみたいだ。
時間だけが、妙にゆっくり流れる。
「あ……あれ?」
自分の声が遠い。耳鳴りのように響く。
目の前に映るは、入口から消えていく背中。
玲奈の小さな肩。
そして、男の長い影。
胸の奥が、ぎゅっと収縮する。
薄い氷の板の上で、何度も滑って転んだ記憶が走馬灯のように流れる。
――あの時も俺は、立ちすくんだ。
――叫ぶことしかできなかった。
――あの夜、電話をかけることしかできなかった。
「また……同じだ」
思わず吐き出した言葉に、震えが乗る。
悔しさが、怒りに化けて噴き出す。
胸の奥の何かが、今にも爆ぜそうだ。
だが、そこで終わらせるわけにはいかない。
過去と同じ結末を、もう一度繰り返すわけにはいかない。
視界が急にクリアになる。
来るべき行動が、身体の奥から火のように燃え上がる。
「違う! 違うんだ、俺は!」
声が、受付のガラスに跳ね返る。
だれかが振り向く。数秒の遅れ。だがそれでいい。俺は動く。
ここで立ち止まってはいけない。過去の自分が泣いた場所に、同じ涙を流させてはいけない。
足の裏が地面を掴む。心臓が、猛スピードで回りだす。
「行く。今行く。絶対に、守る」
呟きは低くても、命令のように自分へ降りる。
闇の中へ引かれる背中を追って、斗真は走り出した。
――今回だけは、違う結末を刻みつける。
その思いが、胸から全身へ広がっていく。扉を蹴破るようにして、斗真は走った。
呼吸が焼ける。音だけが現実を押し返す。
「玲奈っ! どこだ!」
声に震えが混じるが、足は止まらない。
アパートの廊下は生ぬるい匂いと、割れた靴箱の雑音。ドアのところで、男の笑い声が聞こえた。短く、冷たい。闇の中、何かが壊れる音。ガラスの割れる音。――そして、玲奈の声が、か細く上がる。
「やめて……! お父さん、やめてよ!」
その声に、斗真の胸が割れそうになった。全速力で駆け寄る。開いたドアの向こう、荒れたリビング。家具がひっくり返り、コップの破片が散る。男が腕を振り上げる――その影の先に、玲奈の小さな背中。目が針のように光っている。




