21話
玲奈は自分の部屋の隅で縮こまっていた。布団の端にしがみつき、耳を塞いで震えた。
「お願い、やめて……」という小さな声が、何度か扉の向こうから漏れた。彼女は外からの助けを願ったが、足は動かない。
怖さが、体を鉛のように沈ませていた。
そして継父が、花瓶を手に取り、思い切り力を入れて母へと投げつけた。花瓶が母の顔面に当たった。母の目が一瞬、驚愕で見開かれ、次にゆっくりと沈んでいく。
母はその場に崩れるように倒れ、呼吸が浅くなった。継父は一瞬硬直し、次に近づいて胸を覗き込む。躊躇の後、男は母の胸に強く手を当て、動かないことを確認するように頭を抱えた。
「死んだのか……?」
男の声は喉の奥で震えた。確かな恐怖が、その顔を引きつらせる。現実が怖ろしく歪んで見える。
パニックに飲まれた彼は、まず近くの引き出しを荒らし、現金やアクセサリーをかき集めた。
心のなかで、逃げることと、何かを消し去ることが混ざり合った決断が膨れ上がる。
男はライターに火をつけ、居間に放り投げるものを探した。カーテン、新聞紙、可燃物――何でもいい。火は男の指先から離れ、投げつけた。
その小さな火が一瞬で炎となって広がったとき、事態はさらに制御不能に陥る。男は逃げるように家を飛び出していった。
ドアの外で何かが起こったような気がして、急いで部屋を出た。
その瞬間、玲奈が悲鳴を上げる。
母が倒れ、炎が燃え上がっていたのだ。
「お母さん! お母さん、しっかりして! お願い、起きて!」
慌てて母に駆け寄り、震える手で頬をさする。どうしていいのか分からなくなり、焦りのあまり、足元が滑った。
そのとき家具の角にぶつかってしまった。古いタンスの扉が勢いよく開き、上に置かれていた目覚まし時計が落下した。
その時計は重く、鋭い角で玲奈の頭に直撃した。
音が、まるで世界の中枢を叩くように大きく響いた。玲奈は突然視界が暗転した。胸に響いた鈍い衝撃。
頭の奥に鈍い痛みが走り、足の力が抜ける。玲奈は手元の感覚を失い、床に沈んでいった。
煙と熱が、瞬く間に空間を満たす。駆け寄った隣人や通行人の声が遠くで混じり合い、救急のサイレンがまだ遠くに聞こえている。
だが、何もかもが遅かった。母は意識を取り戻すことなく、静かに目を閉じていた。玲奈の身体は目覚ましの衝撃で意識を失っており、そのまま動かなかった。
後から来た救急隊は、炎と煙の中で二人の身体を見つけ出した。現場は既に混乱していて、炎は広がり、人々の叫びが重なっていた。
救命処置が施されたが、そのときには、すべてが既に戻らない地点に達していた。
母も、娘も療救の手の届かないところで、静かに命を失った。
遠くで、斗真はその知らせを耳にした。胸の奥がぎゅうと締め付けられるような音がして、世界が一瞬止まった。
彼は家に戻ろうとしたが、足が動かず、ただ立ち尽くした。刻一刻と遠ざかる救急車の光が、夜の闇に消えていった。
扉は焦げ、窓は黒くすすけている。隣人たちがざわめき、誰かが泣き叫んでいる。ニュースは後に報じた。
「アパート火災、焼け跡から親子の遺体」と。
警察は初動で事故と判断した。タバコの不始末か、電気系統のトラブルか──そういう曖昧な言葉が、冷たく投げられた。
斗真は現場に立ち尽くした。見慣れた窓、抜けたカーテン、いつも玲奈が立っていた場所。現場検証のスタッフが吐く専門用語は、彼の心に届かない。
まるで現実の輪郭がぼやけて、音が遠くなるようだった。
翌朝、玲奈の携帯は沈黙を保ったままだった。斗真はその数日間、空気を吸うのが嫌になった。和美と玲奈がもういない世界の匂いだけが残った。
誰かが口をついて出す「事故」という言葉は、何かを封印するための便利なラベルに思えた。
だが、斗真の胸に残る違和感は簡単に消えなかった。あの日、剛が家を出るときの震えない態度。和美の必死さ。
家を出て行ったその後の夜に「何が起きたのか」を説明する筋が、どこかでねじれている気がした。
「事故だよ。きっと電気のショートとか、燃え広がったんだ」
大人たちの言葉は優しいが、斗真には針のように刺さる。もし──もしあの日、違和感についてもう少し調べていたら、玲奈に話を聞いていたら。
その夜、斗真はベッドで目を閉じながら、何度もその瞬間を再生した。胸の中にあるのは後悔と無力感。それと同時に湧き上がる、抑えがたい衝動があった。
「戻りたい。助けたい」
言葉は呪文のように頭の中で繰り返された。理屈ではない。現実に打ちのめされているからこそ、人は奇跡を求める。
斗真は目をつぶったまま、自分自身に誓った。どんな手段を使ってでも――二人を、あの夜を、守り直す方法を見つけてやる、と。
静かな闇の中、彼の心だけは決意で熱を帯びていった。
外では夜が深まり、街の灯りがぽつりぽつりと消えていく。
だが斗真の内側には、新しい光が灯っていた。それは行動の光だ。助ける方法が現実にあるのかどうかは分からない。
ただひとつ確かなのは、もう「無力」を受け入れたくないということだけだった。
床の隅から、青白い光がじわりと立ち上がった。
渦を描きながら広がる光が、斗真の胸の奥で乾いた渇きをかき鳴らす。手の中の携帯が震え、世界の輪郭が一瞬だけ歪む——それは祈りにも似た動きだった。
振り返ると、そこにいたのは玲奈だった。斗真は言葉を失い、足が自然に前に出た。
二人は跳ねるように近づき、ためらわずに抱き合った。玲奈の肩は小刻みに震え、斗真の胸にも止めどない熱が流れ込む。
「……斗真?」




