20話
金曜の放課後。日向斗真は、いつもの帰り道とは違う緊張で胸が張り裂けそうだった。斗真の生活は単純で、恋というものは教科書の端に落ちている遠い話だった。だけど彼は今、緊張で胸が一杯だったが勇気を振り絞って、言った。
「玲奈、俺……好きです。付き合ってください」
校舎裏の自販機の影で、吐き出した言葉は思っていたよりも大きかった。風が止み、時間が一瞬だけ厚くなる。白咲玲奈は、少し照れたように目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……うん。私でよければ」
その返事は、斗真の鼓動をぶち抜いた。なんだこれは、夢か。本当に、自分が今、笑っている玲奈の手を握っている。世界は少しだけ明るくなった。友達に自慢できる。自分の未来が、少しだけ自由になったような気がした。
だが、幸福は薄いガラスのようだった。玲奈の笑顔は美しく、しかしどこかぎこちなかった。写真の裏側に隠れたしわのように、すぐには見えない線があった。
初めてのデートは映画館と商店街。斗真は些細なことで舞い上がり、玲奈の話すひとつひとつを宝物のように聞いた。玲奈は笑い、時折、カバンの角をぎゅっと握る癖を見せた。それでも斗真は、それを緊張のしるしだとしか思わなかった。
──家のことは話したがらない。聞いても、すぐに話題を変える。
──時々、腕にうっすらと青い痕が見えるが、「ぶつけた」とだけ言う。
最初は些細な違和感だった。だが日が経つごとに、その違和感は少しずつ膨らみ続ける。玲奈は自分の痛みを見せない。笑顔は作れる。だけど夜になると、瞳の奥に暗い灯りがともる。何かを抱えたまま、それでも笑っている。
ある日、玲奈がぽつりと独り言のように言った。
「斗真にだけは、言っちゃだめ、絶対」
その一言で、斗真の中の違和感は確実に疑念へと変わった。聞きたい。少しでも気持ちを楽にしてあげたい。だが、彼女の言う「だめ」が重すぎた。無理に詰めることは愛じゃない。斗真は自分を納得させるために、ただそばにいることを選んだ。だが心の奥の不安は、静かに増えていく
11月10日、その日は晴れでもなく土砂降りでもない、灰色に沈んだ午後だった。玲奈といつものように帰ったが、表情はいつもより強張っていた。
斗真は家に帰った後、ふと玲奈のことを思い出した。あの一言や帰り道のことだ。考えれば考えるほどに嫌な予感がしてならない。斗真は約束はないけれど、ただ顔を見に行きたいという理由で、彼女の家の前まで足を運んだ。
白咲家は古いアパートの一室。共同の廊下を抜けると、窓から酒の匂いと、テレビの薄い音が流れてきた。拳が小刻みに震えながら、斗真はインターホンを押した。ドア越しに聞こえる声は、いつもの母親の声だろうか──だが様子がおかしい。
ドアがゆっくり開き、玲奈の母、白咲和美が顔を出す。風邪のように赤い目、整えられていない髪、指先には皺が深い。隣にいる男の存在に、斗真は一瞬、言葉を失った。男は粗野で、目付きが鋭く、にらんでいるようだった。
「誰なんだ、お前、邪魔すんなよ、お前の知り合いじゃないよな」
男の声は低く、刃物のように冷たい。斗真は必死に取りなす。
「ごめんなさい、急に来てしまって……でも、その、玲奈さんのクラスメイトで……」
「あいつのクラスメイトだ?関係ないだろ?さっさと帰れ」
男が勢いよく、引き戸をバンと閉めた。
彼は戸口の影に隠れるようにして、咄嗟にその場を離れた。怖かった。どうしていいか分からなかった。帰り道、斗真の頭はうずきっぱなしだった。玲奈に直接問いただす勇気はなかった。彼女が苦しむのを増やすだけではないかという思い。だが次第に、「見て見ぬふり」をした自分への怒りが募っていく。数日後、玲奈の家では事態が決定的に悪化していた。母と、再婚したその男――継父と呼ばれるべき男の間で言い争いが始まった。最初は小さな口論だった。だが男は酔いも手伝って侮蔑的に笑い、言葉を荒げる。母は涙ぐみながらも必死に謝る。やがて「離婚したい」と母が震える声で言った。
男の顔が歪んだ。普段の軽薄な表情が、冷たい怒りへと変わった。「離婚だって? 笑わせんな。お前が出て行けよ」と吐き捨て、怒りはすぐに暴力へ移行した。殴る、投げる、罵声――居間に散らばるものが次々と犠牲になっていく。皿は砕け、花瓶は床に叩きつけられ、中の水が黒い光を落として跳ねた。




