19話
隆司の膝がふらつき、血が衣服を濡らしていく。娘は泣き叫び、隆司はかろうじて彼女の顔を見る。
「……湊斗……幸せに……してやれよ」 言葉はほとんど風に溶け、かすれた。しかしその声には、揺るぎない父の願いが込められていた。隆司の手が娘の頬に触れ、温かさを確かめるように指先が震えた。
娘は嗚咽を漏らしながら、「お父さん、やめて、お願い、やめて!」と叫んだ。だが隆司はゆっくりと微笑を返す。口元にわずかな力をこめて、最後の力を振り絞るように、もう一言だけ紡いだ。
「……その笑顔を、忘れない……幸せになれ」
その声はかすれ、世界はだんだん暗くなっていった。娘の顔からは涙が止まらない。腕の中で隆司の体がふっと軽くなり、冷たい風が通り抜ける。周囲の喧騒が遠くなる中で、娘は父の手をしっかり握り締めた。父の指先にまだ温かさが残る。それが消えるまで、娘は離さなかった。
隆司の瞳がゆっくりと閉じる。最後に聞こえたのは、遠くで誰かが叫ぶ声と、娘の嗚咽混じりの名前だった。闇が静かに降り、父はその胸に抱いた「娘の笑顔」を胸の奥に秘めながら、静かに息を引き取った。
時空電鉄 ― 待合室
――夕暮れの街のざわめきが遠のいた瞬間、隆司の視界はふっと白に溶けた。
痛みも、重さも、娘の泣き声もすべて霧のように消えていく。
次に目を開けたとき、隆司は知らない場所に座っていた。
孤独ではない。しかし、喧騒はない。
耳に届くのは、静かに流れる時計の針の音だけ。
柔らかなオレンジの光が天井から降り、どこか懐かしい空気が漂う。革張りの長椅子。深い茶色の床。壁には「出発」「到着」の文字が淡く光っている。
その前で、青い帽子の男――ティオが立っていた。
車掌服の襟を整え、隆司の方へ静かに歩み寄る。
「おかえりなさい、隆司さん。お乗り換え、お疲れさまでした」
隆司は、混乱しながらも自然に問いがこぼれる。 「ここは……あの世、なのか?」
ティオは穏やかに首を横に振った。 「いいえ。生と死の間の駅――選択の場所です。
ただ、もうあなたの列車は次の目的地を示しています」
隆司は視線を落とし、深いため息をひとつ。
思い出すのは、娘の涙、震える肩、最後に見た笑顔。
「後悔は……なかったと言えば嘘になる。
もっと生きていたかった。もっと話したかった。
……でも、あの子を守れた。それなら、それでいい」
ティオは優しく目を細め、座った隆司の隣に腰を下ろす。
「選べなかった者は、後悔を抱きます。
守れなかった者は、自責を抱えます。
でもあなたは――守った。
たった一度で、すべてを守りきった。
父親として、それ以上望むものはありますか?」
隆司の目に静かな涙が溜まる。
苦しみではなく、満ち足りた涙。
「……あの笑顔が見られたからな」
そのとき。
やわらかい靴音が響き、白い光の中からリュカが現れた。
無言で隆司の前に立つ。
「契約以上のことをする気はなかった。
だけど……あんたの生き方は、俺にとっても誤算だった」
リュカが差し出したのは、一枚の写真。
白いチャペルの前で、娘が涙ぐみながら笑うウェディング姿。
隣にはウェディングドレスにキスを落とそうとする湊斗。
指には――あの日、隆司が贈ったペンダント。
隆司は息を呑んだ。
「……見ていいのか? 俺はもう、そこにいないのに」
リュカは目をそらすように、少し不器用に返す。 「見てもいい。
父親が守った未来が、どんな姿になったのか。
報われない努力なんて、本当は存在しないって――証明しておけ」
隆司は震える指で写真を掴み、胸に抱きしめた。
涙が零れても、もはや悲しみは含まれていない。ティオが立ち上がり、黒鉄の巨大な扉が前に現れる。
その向こうには柔らかい光の道――天国行きのホーム。
「隆司さん。
愛は形ではなく、行いです。
そして行いは、永遠に残ります」
リュカも横に並び、無言で軽く頭を下げる。
隆司は写真を胸に抱いたまま、ふたりに礼を言った。 そして扉へ向かう前、ふと振り返って最後に一言だけ。
「……あいつに、ありがとうって伝えといてくれ。
生まれてきてくれて、ありがとう。
俺の娘でいてくれて、ありがとうって」
扉が光に包まれ、静かに閉じる。
時空電鉄の待合室には、ゆっくりと風だけが流れた。
そのあと、ティオが小さく呟く。
「行先・天国。
――最終駅まで、どうか安らかに」




