18話
隆司は玄関のドアを押した。そこに広がっていたのは、数時間前の居間。テーブル脇に座る妻の手は少し震え、窓の外の陽が柔らかく射し込む。娘は彼の前に彼氏を連れてきて、しかし緊張と期待で顔が紅潮していた。隆司の心はすぐに硬くなり、反射的に反対の言葉が口をついて出そうになった。
だがティオの言葉が胸に残っている。──最後まで、よく聞くこと。
隆司は腰を下ろした。妻がそっと隣に座り、手を彼の膝に重ねる。妻の目は真剣だが、怒りはない。彼女は低く、丁寧に言った。
「 待って、まずはちゃんと話を聞きましょう」
娘は震える声で彼の目を見た。
「お父さん、お願いします。ちゃんと聞いてほしい。彼は真面目で、私を大切にしてくれる。」
彼氏は深く頭を下げ、隆司に向き合った。彼の声は緊張していたが、誠実さがにじんでいる。
「初めまして、お義父さん。湊斗と言います。娘さんのことを、ずっと大事にしてきました。職もあります。家族を、支えて大切にしたいと思っています」
隆司の中に、言い訳や怒り、守りたい本能が渦巻く。彼は黙っていたが、妻の手が彼の指を軽く握り、促した。隆司は荒い息を吐き、言葉を探してから、ゆっくりと口を開く。
「どういう仕事をしている?将来の設計は?君が本当に娘を守れると、どう証明するんだ?」
彼氏は一つひとつ、丁寧に答えた。言葉は稚拙だが真摯で、逃げも飾りもない。娘は時折目を潤ませながら、相手の顔を見つめる。妻もまた、静かに頷きながら相手の話を確かめる。
隆司は聞いた。声を荒げることはしなかった。怒りがある代わりに、聞くことで少しずつ彼の中の氷が溶けていくのが分かった。話が終わったとき、隆司は立ち上がり、娘と彼氏の顔を交互に見た。何かを言いかけては飲み込み、また何かを言った。
「……急に許すわけではない。だが、今日話を聞けた。ちゃんと見た。妻が言うように、聞くことも父の役目だな」
娘は笑った。彼氏は安堵の息を吐いた。妻は隆司の手をしっかり握り、弱く微笑んだ。家の空気がほんの少し柔らかくなった瞬間だった。湊斗が玄関の前で深く一度頭を下げると、ぎこちなくも確かな礼をして家を後にした。
娘は玄関先で小さく手を振り、隆司は背中が見えなくなるまで湊斗の姿を見送った。扉が閉まると、娘との時間が戻ってくる――静かで、重いほどに柔らかい時間だ。
リビングのソファに腰を下ろすと、隆司は少し照れくさそうに笑った。
「……よくぞ連れてきたな、湊斗っていうんだな」
娘は笑いながら頷く。膝の上に置いた手が小刻みに震えているのが見える。
「お父さん、彼は真面目で本当に誠実な人なんだよ。私を大事にしてくれるの」
娘の目は確かに輝いていた。隆司はその瞳をじっと見つめ、昔の記憶がふと胸を過った。小さかった頃、娘が花壇の土で泥だらけになって帰ってきた夜のこと。台所でふたりで食べた手作りのカレー。夏休みの夜、縁側で泳ぐ虫の光を数えたこと。些細で、でも何よりも確かな日々。
「そうだ。今日は……何か、記念になるものを買ってやろうか」
娘は一瞬驚いた顔をしたあと、目を丸くして頷いた。
「えっ、本当に? お父さん……そんな、いいの?」
「いいんだ。少しばかりでも、これからの君の笑顔のためになればいい」
そう言って隆司は懐から財布を取り出す。二人は近くの宝石店へ向かった。街路樹の葉が秋の光を踊らせる、静かな午後だった。
宝石店のショーウィンドウには、大小さまざまなペンダントや指輪が並んでいる。隆司は店員に穏やかに笑いかけつつ、娘が自然と手に取りそうな小ぶりのペンダントを選んだ。金の鎖に小さな石が光る控えめなもの――だが、娘の肌に下がったとき、その光は驚くほど似合っていた。
店を出ると、娘はショーウィンドウの前で顔を上げ、ふっと息を漏らす。隆司はその瞬間に胸が締めつけられるのを感じた。娘の笑顔は、どんな言葉よりも雄弁だった。やわらかい歯並び、瞳の奥の安心、ほんの少し赤らむ頬。隆司は自然に笑い、目元が熱くなるのを抑えられなかった。
「似合ってるよ。よく似合ってる」
隆司はそう言うと、娘ははにかんで首を振った。
「ありがとう、お父さん。本当にありがとう」
二人は肩を並べて家へと歩き出した。帰り道は穏やかで、夕暮れがゆっくり街を染めていく。娘は何度か指輪を触るように胸元に手をやり、小さな声でこれからのことを話した。隆司はただ頷き、時折自分の若い頃の話を混ぜながら、笑い合った。父と娘、何でもない日常が、その瞬間だけは永遠にも思えた。
そのとき、通りの向こうから人のざわめきが突如大きくなった。遠くで誰かが叫び、靴音が不自然な速さで近づいてくる。隆司は反射的に身を固くした。通行人の表情が一斉に変わる。銀行の前で何かが起きたのだ。人混みの向こう、黒いコートの男が鋭利な刃物を振りかざし、群衆を押し分けながらこちらへ突進してくる。
「逃げろ!」誰かが叫ぶ。人々が四方に散り、叫び声が連鎖する。男の目は狂気じみていて、手には血が見えた。娘は動揺して隆司の手をぎゅっと掴む。刀のような影が昼間の景色を裂いた。
隆司の反応は親馬鹿の本能そのものだった。娘の身体を自分の胸の内側に引き込み、無意識のうちに前に出た。男の動きは早く、次の瞬間には真っ直ぐに隆司を狙った。刃が空を切るかのように振り下ろされ、隆司の背中に深く刺さる鈍い衝撃――痛みは刃の熱と冷たさを同時に運んだ。隆司は思わず声を上げるが、その声はすぐにかき消される。
娘の顔が、遠くで見える。目が真っ赤に染まり、唇が震え、叫びが漏れる。背後で人々の足が近づき、誰かが犯人に飛びつく。混乱の中で男は取り押さえられ、刃は地面に落ちる。だが遅かった。




