9話
強く、弱く、そして確かな、小さな願いだった。
リュカはえまの隣に立ち、低い声で囁く。
「最後に確認する。本当に……やり直したいか?」
列車が到着し、エマは答えられず、ただ切符を握りしめる。
胸の奥で、あの苦しかった日々と守れなかった罪悪感がざわつく。
ティオは軽く頷き、車内の案内を続ける。
「列車はすぐに発車します。座席の準備をお願いいたします。
ご希望の行き先に応じて、時間の流れが変わります」ドアがゆっくり開いた。
エマが一歩踏み出すと、金属と古い木の香りが混ざる独特な空気に包まれた。
「ようこそ、時空電鉄へ」
車掌のティオが笑みを浮かべて迎える。
制服は深い藍色で、肩の飾りが光を反射して煌めいた。
「お客様の目的地は――」
ティオは手元の切符を確認し、エマを誘導する。
「ご案内は私がします。安全に、そして快適に。
準備はよろしいですか?」
問いかけられているのに、なにが“準備”なのかはよくわからなかった。ただ返事をするより先に、エマの手は自然と切符を差し出していた。
車掌は静かに頷くと、懐から真鍮のパンチを取り出した。
カチン――
わずかに金属が弾ける音。
その瞬間、切符にあいた小さな穴から光がふわりと散り、エマの指先をすり抜けて空気に溶けていった。
胸の奥が少しだけ軽くなる。何かがひとつ手放されたような、静かでやわらかな感覚。
車掌はパンチをしまい、切符をエマに戻す。
小さな穴が開いただけなのに、見たことのないほど厳かな印が押されたように見えた。
「これで乗車できます」
言葉はやさしかったが、どこか決定的だった。
エマは目を伏せ、もう一度だけ切符を見つめた。
そして気づかないまま――その穴が、彼女の記憶の小さな欠片と引き換えだったことを。
そしてエマはティオの指示に従って座席へ向かう。
座席に腰を下ろすと、列車内の時間がゆっくりと歪む感覚が伝わってきた。
胸の奥で、あの苦しかった日々と守れなかった罪悪感がざわつく。
「列車はすぐに発車します。座席の準備をお願いいたします。
ご希望の行き先に応じて、時間の流れが変わります」
エマの手に、切符が温かく感じられた。
光が少しずつ強まり、列車は静かに動き出す。
窓の外の景色が後ろへ流れ、過去と未来の断片が揺らめく――
窓の外には、過去の教室や、笑い声、冷たい視線――断片的に映像が揺らめく。
ティオの声が響く。
「さあ、時空の旅の始まりです」
エマは深く息を吸い込み、心の奥底でまだ言葉にならない希望と恐怖が入り混じる。
列車は静かに、しかし確実に、時間の迷路を走り出した。
車輪の振動が静かに伝わる中、電車のシートに沈み込む。
窓ガラスに映る自分の顔は、まだ泣き腫らしたまま。
「……はぁ……っ」
背後から柔らかく声が落ちた。
「ずいぶん急いでたね。何かから逃げてる?」
車掌のティオが、穏やかに問いかける。
優しいけど、逃げ道を作らない声。
エマは俯いたまま、やっと言葉を絞り出す。
「……逃げてる。逃げたの、私……」
「そう。じゃあ追ってきてるのは誰?」
「……前にいじめられてた子」
息が詰まる。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
そして言葉が続く。
「……でも、なんで……あのとき、私はかばったのに……」
ティオは動かず、ただ耳を傾ける。
「……前に、私はその子を助けたの。
自分がどれだけ痛くても、嫌な思いをしても、その子を守った。
でも今度は……私がこんなに痛くて苦しいのに、その子は助けてくれなかった」
声が震え、涙が止まらない。
怒り、悲しみ、苛立ち──それらが全部混ざり合って心を押し潰す。
ティオはそっと問いかける。
「その気持ちは……怒り?裏切られた悲しみ?」
「……両方。なんで……あのときの私を見ていたはずなのにって……」
胸の奥で叫びたい気持ちが渦巻く。
でも声に出さなければ、自分が壊れそうで。
ティオはじっと見守るだけ。
慰めも、責めもせず、ただ存在している。
「……私は、どうしたらよかったの……偽善者、だっていうの?」
その一言に、すべての感情が詰まっていた。
怒り、悲しみ、失望――
そして少しだけ、自分自身への苛立ちも。
ティオは息を吸って、静かに言った。
「君は、あのときの自分と同じように、今も誰かに期待してしまったんだね。
でも、誰かを助けることと、助けてもらうことは別物なんだ」
エマは震える肩を抱えて、うなずくことしかできなかった
「……ううん。理屈じゃないの……ただ……」
嗚咽が漏れ、胸の奥のもやもやが少しずつ溶けていく。
電車はトンネルに入る。
暗闇の中で、自分の涙だけが、静かに揺れる。
ティオは優しく、でも何も押し付けずに囁いた。
「その答えは、君自身の中にある。
他人に求めすぎて、自分を見失わないように」
エマは肩を震わせながら、小さく息をつく。
胸の痛みはまだ消えない。
でも少しずつ、自分の感情に向き合う力が戻ってくるのを感じた。
電車の振動が静かに体を揺らす。
窓の外には暗いトンネルが続き、街の灯りは遠く消えている。
「……なんで、あのとき助けてくれなかったのって……」
エマの声はまだ震えていた。胸の奥に渦巻く怒りが漏れ出す。
ティオは静かに頷く。
「その気持ち、君が抱えるのは自然だよ。期待して、裏切られた気持ち……誰でも経験する」
エマは小さく息をつく。
「でも……なんで私ばかり……なんで、私が痛い思いをしてまで助けた人は、私を助けてくれないの……」
「それで……どうしたいと思う?」
ティオの問いかけに、エマは顔を上げられずに俯く。
「……わからない……でも……腹が立つ……」
小さな声で、でも強い感情が滲む。
ティオは優しく、でも少し踏み込むように言った。「その怒りを、ただ胸の中に留めておくのか……それとも、何か行動に変えるのか。
……復讐、という方法もあるけれど、本当に君はそれを望む?」
エマの目が一瞬、わずかに揺れる。
「……復讐……?」
「うん。誰かに仕返しをしたい、という気持ちは自然なことだよ」
ティオは静かに、しかし確かに言葉を届ける。
エマの手がぎゅっと握られる。
胸の奥で、怒りと悲しみが混ざり合って、ざわざわと動き出す。
「……でも、そんなことしても……なんにも変わらない気がする」
声は小さくても、少しずつ吐き出される感情に力が宿っている。
助けたのに助けてもらえなかった――その裏切られた気持ちが、まだ熱を帯びている。
でも、その怒りをどう扱うかは、自分自身で決めるしかない。
ティオは優しく微笑む。
「君自身がどうしたいのか……それが大事なんだ
復讐するのか、手放すのか。どちらを選んでも、君の意思だ」
エマは黙って、胸の奥で感情が波立つのを感じた。
電車の振動が、彼女の心のざわめきと共鳴するように、静かに響いた。沈黙が少し続いたあと、エマは唇を噛みしめながら震える声で言った。
「……復讐しても、意味なんてない……ずっとそう思ってた」
言葉とは裏腹に、声の奥にはまだ怒りが燃えている。
ティオは否定も肯定もせず、ただ聞いている。
「でも……なんで私ばっかり苦しまないといけないの?」
拳が震える。
「なんで……あんなに、あんなに勇気を出して守ろうとしたのに……!
どうして、あの子は……私がいじめられたときは見て見ぬふりをしたの……!」
声が割れる。
胸の奥の抑え込んでいた感情が、蓋を破って溢れ出す。
「許せない……!」
涙が、頬を熱く濡らす。
ティオがゆっくりと息を吸う音が聞こえる。
しかし何も言わず、ただ続く言葉を待っていた。
「助けたのに裏切ったあの子も……
私を笑っていた周りのみんなも……
見て見ぬふりをしてた人たちも……!」




