天翔ける蜥蜴
ギルドに満ちる狂乱を、俺は背中で受け止める。
制止しようとする冒険者たちの間をすり抜け、俺はただまっすぐに、街の外門へと向かった。もう、誰の言葉も耳には入らない。
「――待ってください!」
背後から、必死な声が聞こえた。
振り返ると、そこには息を切らしたセレスが、フェンを胸に抱いて立っていた。その瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「……行かないで、ください……。死んで、しまいます……」
その言葉が、かつて俺を罵倒した誰かの声とは全く違う、純粋な心配からくるものだと分かって、胸が締め付けられる。
俺は、彼女の前に膝をつき、その震える肩に、そっと手を置いた。
「大丈夫だ」
「でも……!」
「必ず帰る。だから、フェンとここで待っていろ」
それは、誓いだった。
俺はセレスの頭を一度だけ優しく撫でると、今度こそ振り返らずに、巨大な外門の向こう側――戦場へと、一人で足を踏み出した。
***
街の外に広がる平原は、不気味なほど静まり返っていた。
俺が一人でそこに立つと、やがて、遠くの空に、一つの黒い点が現れた。それは、恐ろしいほどの速度で大きくなっていく。
――ズシンッ!
街の城壁が、わずかに揺れた。
ワイバーンが、俺から数百メートル離れた場所に着地したのだ。山のように巨大な体躯、刃物のように鋭い爪、そして、全てを焼き尽くす灼熱をその喉に宿した、天翔ける厄災。
城壁の上から、息を呑む気配が伝わってくる。ギルドの連中や、街の衛兵たち、そしてセレスも、あの場所からこの絶望的な光景を見ているはずだ。
「――GYAAAAAAAAOOOOOOOッ!」
天を裂くような咆哮と共に、ワイバーンが動いた。
その巨大な顎が開き、奥に、灼熱のマグマのような光が収束していく。ブレスだ。街ごと焼き払う、滅びの光。
だが、俺は動かない。
ただ、右の手のひらを、足元の――大地に、そっと置いただけだ。
「――《武装同化》」
俺の膨大な魔力が、大地そのものへと流れ込んでいく。
直後、ワイバーンの口から、極大の炎の奔流が放たれた。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
だが、その炎が俺に届くことはない。
俺の目の前の大地が、まるで生き物のように隆起し、瞬く間に、城壁にも匹敵する巨大な岩の壁を形成したからだ。
凄まじい轟音と共に、灼熱のブレスが岩壁に激突し、爆散する。
炎が消え去った後には、わずかに赤熱した、しかし傷一つない巨大な壁と、その背後で涼しい顔をしている俺だけが残されていた。
城壁の上が、水を打ったように静まり返るのが、ここまで伝わってきた。
ワイバーンの目が、明確な殺意を込めて俺を捉えた。
俺が作り出した岩壁など、所詮は時間稼ぎ。本質を断たなければ、意味がない。
(……やるしか、ないか)
俺は大地を蹴り、ワイバーンへと真正面から突進した。狙うは、その巨体そのもの。あの鋼鉄のように硬い鱗と《武装同化》し、内側から破壊する!
「――同化!」
ワイバーンの薙ぎ払う尻尾をかいくぐり、その脚の鱗に、俺は手を触れた。
――だが!
バチッ!と、まるで静電気のようにスキルが弾かれる。俺の魔力が、鱗の内側にある『生命』そのものに拒絶されたのだ。
「ちっ、やはりか……!」
正典で定めた、俺のスキルの限界。無機物とは同化できても、生命そのものとは同化できない。
ならば――お前自身に触れる必要はない!
俺は再び大地に手をつけ、今度は防御のためではなく、攻撃のために魔力を注ぎ込む。
「――穿てッ!」
直後、ワイバーンの足元から、無数の巨大な岩の槍が、凄まじい勢いで突き出した! それらは狙い違わず、ワイバーンの分厚い翼の皮膜を突き破り、地面へと縫い付けていく!
「GYIIIIIIIAAAAAAッ!」
初めて聞く、ワイバーンの苦痛に満ちた絶叫。翼を封じられ、もはや飛ぶことのできない天翔ける蜥蜴は、その憎悪に満ちた瞳を俺に向け、最後の抵抗を試みる。
死を覚悟した、猛進。
俺も、覚悟を決める。
残りの魔力、その全てを……この一撃に!
「――《武装同化》ッ!」
俺は、右腕を大地に突き刺した。俺の魔力が、平原の、そのさらに奥深く、岩盤そのものにまで到達する。そして、俺の右腕が、もはや腕と呼べるものではなくなっていく。大地と一体化し、天を衝くほどの、巨大な、鋭利な、『城壁の槍』へと。
突撃してくるワイバーンの心臓、ただ一点を見据え、俺はそれを、振り上げた。
――ゴオォォォォォンッ!
地軸が揺れるほどの、凄まじい衝突音。
俺が作り出した巨大な槍は、ワイバーンの突撃の勢いごと、その硬い鱗を粉砕し、肉を抉り、骨を砕き、その心臓を、内側から完全に破壊した。
「……ぁ……」
山が、崩れるような音を立てて、ワイバーンの巨体が地に墜ちる。
同時に、俺の体からも、全ての力が抜けていった。魔力の枯渇。立っていることもできず、俺は、その場に膝をついた。
平原に、静寂が戻る。
勝った、のか……?
その答えは、すぐに聞こえてきた。
城壁の上からだった。最初は、誰か一人の、甲高い声。それが、二人になり、十人になり――やがて、街全体が揺れるほどの、割れんばかりの大歓声となって、俺の耳に降り注いできた。




