Fランクの英雄
あの日から、俺たちの生活は驚くほど穏やかなものになった。
俺は毎朝ギルドへ向かい、Fランクの依頼をいくつか受ける。ゴブリンの討伐、薬草の採取、商人の荷運び護衛。どれも、かつての俺からすれば子供の遊びのような仕事だったが、手を抜くことは一切なかった。むしろ、一つ一つの仕事を、丁寧すぎるほど完璧にこなしていった。
そんな俺の仕事ぶりは、すぐにギルドでも評判になったらしい。「地味だが、仕事が確実すぎる新人」として、少しずつ信頼を得ていった。
そして、稼いだ金で、俺はセレスに新しい服を買った。奴隷の証だったボロ布ではなく、街の娘が着ているような、簡素だが清潔なワンピースだ。子狼のためには、栄養のある山羊のミルクを毎日買った。俺たちは、もう飢えることも、何かに怯えることもない。ささやかだが、温かい生活がそこにはあった。
何よりの変化は、セレス自身に訪れていた。
子狼に「フェン」と名付け、甲斐甲斐しく世話をするようになってから、彼女の表情は驚くほど豊かになっていった。
そして、ある日のことだった。
いつものように仕事を終え、宿屋の部屋のドアを開けると、そこにはフェンとじゃれ合うセレスの姿があった。
「――あ」
俺に気づいた彼女は、動きを止め、そして、はにかむように、ふわりと笑った。
それは、今まで見たどんな顔よりも、自然で、温かい笑顔だった。
「……おかえりなさい、アッシュ様」
「……ああ。ただいま」
心臓が、温かいもので満たされていくのを感じた。
守りたい。この、ささやかな日常を。心の底から、そう思った。
だが、そんな日常は、あまりにも唐突に、引き裂かれることになる。
ギルドで次の依頼を探していた、まさにその時だった。
ギルドの重い扉が、凄まじい勢いで開け放たれた。誰もがそちらに注目する中、血まみれの男が、文字通り転がり込んできたのだ。
「……『鉄の意志』の斥候か! どうした!」
ギルドマスターの鋭い声が飛ぶ。
『鉄の意志』。それは、このフロンティアの防衛を担う、ベテラン揃いのBランクパーティーだ。
斥候の男は、ぜえぜえと肩で息をしながら、絶望に染まった顔で叫んだ。
「……全滅、だ……。『鉄の意志』は……全滅した……」
「馬鹿な! いったい何に!」
「――ワイバーンだ! ランクA相当のワイバーンが……こっちに、この街に向かってきてるんだ!」
斥候の男がもたらした報告は、一瞬にしてギルド全体を叩きのめした。
ワイバーン。それは、熟練のAランクパーティーですら、死闘を覚悟する相手。そんなものが、この辺境の、しかも高ランク冒険者が不在の街に向かってきている。
「……迎撃は、不可能だ……」
誰かが、絶望に染まった声で呟いた。
その一言が、引き金だった。今までどうにか平静を保っていた冒険者たちが、一斉にパニックに陥る。
「逃げるぞ!」
「街を捨てろ! 間に合わなくなる!」
「クソッ、なんでこんな時に!」
怒号と悲鳴が入り乱れ、ギルドは阿鼻叫喚の地獄と化した。
誰もが、己の命のことしか考えられない。誰もが、下を向き、絶望している。
――ただ一人を、除いて。
その喧騒の中を、俺は、静かに歩いていた。
誰も見向きもしない、ギルドの依頼掲示板へ。そこに、ギルドマスターが震える手で貼り出したであろう、一枚の緊急依頼書が貼られていた。
【緊急討伐依頼:ワイバーン】
俺は、その札に、迷いなく手を伸ばす。
ビリッ、と紙の破れる音が、不思議なほど大きく響いた。その音に、何人かが俺の行動に気づく。
「……おい、待て! お前、正気か!?」
受付の女性職員が、血の気の引いた顔で叫んだ。
俺は、剥がした依頼書を、そのまま受付カウンターの上に置く。
「Fランクのド新人が! それがどういう意味か分かってるのか!」
「死ぬぞ! いや、自殺行為だ! 今すぐ元に戻せ!」
周りの冒険者たちも、俺の行動を止めようと声を上げる。彼らの言うことは、正しい。常識的に考えれば、Fランク冒険者がワイバーンに挑むなど、狂気の沙汰だ。
だが、俺はもう、常識に生きるつもりはなかった。
守りたいものが、できてしまったから。あの、ささやかで、温かい日常を。セレスと、フェンのいる、あの部屋を。
俺は、制止の声を上げる彼らを、静かに見つめ返した。そして、ただ一言だけ、告げる。
「――俺がやる」
その瞬間、ギルドの入り口で、息を呑む気配がした。
振り返ると、そこには、俺のただならぬ気配を感じて、後を追ってきたのだろう、セレスが立っていた。
彼女は、俺と、俺がカウンターに置いた依頼書を交互に見つめ、信じられないものを見るかのように、その美しい瞳を大きく見開いていた。




