初めての依頼ともふもふ
翌朝、安宿の一室に差し込む光で、俺は目を覚ました。
床に敷いた毛布の上では、獣人の少女――セレスが、体を丸めて眠っている。昨夜、俺がベッドを譲ろうとしたら、腰を抜かすほど怯えさせてしまった結果だ。
(……まずは、飯だな)
所持金はほとんどないが、昨日換金した中から最低限の生活費だけは残してある。俺は宿の食堂で、焼きたてのパンと温かいスープを買い、部屋へと戻った。
「セレス、朝だ。飯にしよう」
俺の声に、セレスの猫耳がピクリと震える。ゆっくりと顔を上げた彼女の前に、俺はスープの皿を差し出した。しかし、セレスはそれを受け取ろうとせず、ただ怯えた目で俺を見つめるだけだった。
「……どうした? 毒なんて入ってないぞ」
「……い、いえ……」
「じゃあ、食べろ。冷めてしまう」
「……あ、の……きょ、許可が……許可がなければ、わたくしは……食事を、摂ることは……」
途切れ途切れに紡がれた言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
そうだ、こいつは奴隷だったんだ。自分の意思で食事をすることすら、許されない環境に、ずっと。
(……根が、深いな)
彼女の心に刻まれた傷は、俺が思うよりもずっと。
俺はため息を一つつき、できるだけ優しい声で言った。
「……許可する。だから、食べろ」
セレスは、ビクッと肩を震わせた後、おずおずとスープの皿を受け取った。
このままじゃダメだ。金がいる。こいつに、まともな生活をさせてやるための、金が。
俺はセレスを宿に残し、再び冒険者ギルドへと向かった。受注したのは、Fランク冒険者向けの、最も簡単な依頼――「鎮静効果のある薬草の採取」。これなら、危険も少ないだろう。
「森に行く。お前も来い」
「……は、はい」
セレスを連れて、俺たちは街の近くにある森へと足を踏み入れた。木漏れ日が優しく降り注ぐ、穏やかな場所だ。だが、辺境であることに変わりはない。
「――グルォォォォォォッ!」
依頼の薬草を半分ほど集めた時だった。突如、森の奥から地響きのような咆哮が轟いた。茂みをなぎ倒し、俺たちの前に姿を現したのは、家ほどもある巨大な熊型の魔獣――フォレストグリズリーだった。
「……セレス、俺の後ろに」
俺はセレスを背中にかばい、ゆっくりと腰の折れた剣に手をかける。
Fランク冒険者が手を出していい相手じゃない。だが、今の俺にとっては。
「――《武装同化》」
俺は、すぐそばに生えていた大樹の幹に左手を触れた。腕が、ごつごつとした樹皮に覆われ、鋼のような硬度を帯びる。さらに、地面に転がる岩石に右足をつけた。足が、岩盤そのものへと変質する。
フォレストグリズリーが、俺を排除すべき異物と認識し、突進してくる。その巨大な爪の一撃を、俺は樹木と化した左腕で、正面から受け止めた。
――ゴッ!
鈍い音が響き、魔獣の爪が、俺の腕に防がれて停止する。
呆然とする魔獣のがら空きの腹に、俺は岩と化した右足で、蹴りを叩き込んだ。
凄まじい衝撃音と共に、巨大な熊の体が、まるで木の葉のように宙を舞い、森の奥へと消えていった。
森に、不自然な静寂が戻る。
俺は折れた剣を鞘に納め、巨大な魔獣が吹き飛んでいった方へと歩を進めた。念のため、とどめを刺しておく必要がある。
だが、森の奥で俺が見たものは、絶命したフォレストグリズリーの巨体と――その傍らで、小さく震える銀色の毛玉だった。
「……子供、か」
それは、銀狼の子供だった。成体になればAランクにも指定される高位の魔獣。だが、目の前にいるのは、か細い声で鳴くことしかできない、ただの赤ん坊だ。
おそらく、このグリズリーは、この子狼を捕食しようとしていたのだろう。親とはぐれたのか、あるいは――。
どちらにせよ、このまま放置すれば、夜を越せずに死ぬ。
それは、あの日の俺と同じだ。理不尽に、ただ死だけが与えられた、無力な存在。
「……はぁ」
俺は、大きなため息を一つつくと、その銀色の子狼を、そっと抱き上げた。驚くほど軽く、温かい。腕の中で、子狼は必死にしがみついてきた。
宿屋に戻ると、俺の帰りを待っていたセレスが、ビクッと体をこわばらせた。俺が腕に抱えているものに気づくと、その瞳にわずかな恐怖の色が浮かぶ。
「……アッシュ、様……それは……」
「見ての通りだ」
俺は、子狼をベッドの上にそっと下ろした。子狼は、不安そうに俺とセレスを交互に見つめている。
俺は、ベッドの前に立つセレスに向き直った。
なんて言えばいいのか、少しだけ迷う。これは、命令じゃない。俺の、勝手な感傷で拾ってきた命だ。
「セレス」
俺は、彼女の目を見て、言った。
「こいつの世話を、頼めるか?」
「…………え?」
セレスは、虚を突かれたように、小さく息を漏らした。
その瞳が、困惑に揺れている。命令じゃない。それは、彼女にも分かったのだろう。どうすればいいのか分からず、ただ俺と子狼を交互に見つめている。
長い、沈黙が流れた。
やがて、セレスは、おずおずと、震える手を子狼の方へと伸ばした。
そして、その柔らかな銀色の毛皮に、指先が、そっと触れた。
その瞬間。
子狼が、安心したように、くぅんと小さく鳴いて、セレスの指先をぺろりと舐めた。
ビクッ、とセレスの肩が震える。
だが、それは恐怖ではなかった。
ガラス玉のように、何も映さなかったはずの彼女の瞳に、ほんのわずかな、揺らめくような光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。




