辺境の街と奴隷の少女
あれから、何日歩き続けたのか。
ダンジョンを脱出した俺は、ボロボロの服を隠すようにローブを目深にかぶり、ひたすら東へと向かった。そして、ようやくたどり着いたのが、この王国の最東端に位置する「辺境の街フロンティア」だった。
「……すごいな」
城壁をくぐった瞬間、俺は思わず呟いていた。そこは、整然とした王都とは全く違う、混沌とした活気に満ちあふれていた。様々な人種の商人たちの怒声、酒場の扉が開くたびに漏れ聞こえる荒くれ者たちの笑い声、香辛料と土埃が混じった匂い。全てが、俺の知らない「自由」を体現しているようだった。
まずは、身分と金だ。
俺は冒険者ギルドへ向かい、「アッシュ」という名前だけを告げ、記憶喪失のフリをして最低ランクのFランク冒険者として再登録を済ませた。幸い、ダンジョンで倒したモンスターの素材がいくつか残っていた。それを換金すると、ずっしりと重い金貨袋が手渡された。一般人が数年は暮らせるほどの、大金だった。
(これで、ようやく……)
新しい人生が始まる。
そんな解放感に浸りながら、宿を探そうと街を散策していた時だった。
ふと、活気ある大通りから一本外れた裏路地から、汚い怒鳴り声が聞こえてきたのは。
「この役立ずが! いつまで突っ立ってやがるんだ、あぁ!?」
ドゴッ、と鈍い音。そして、くぐもった、獣のような呻き声。
気になって覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
肥え太った男が、商品を並べるように、小さな檻の前に立つ少女を蹴りつけていたのだ。
猫のような耳と尻尾を持つ、獣人族の少女。その首には、痛々しい鉄の首輪がはめられている。奴隷だ。
「……っ」
俺は、息を呑んだ。
少女の瞳は、まるでガラス玉のように何の感情も映していなかった。ただ黙って、されるがままに暴力-を受け入れている。抵抗も、懇願も、何もない。まるで、心を殺してしまったかのように。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏に、あの日の光景が鮮明にフラッシュバックした。
ガウェインたちに罵倒され、ただ俯くことしかできなかった、無力な俺自身の姿が。
理不尽に、ただ、奪われるだけの存在。
あの時の俺と、目の前のこの少女が、寸分の違いもなく重なって見えた。
ガウェインたちに罵倒された、あの時のように。
理不尽に、ただ、奪われるだけの存在に、させてたまるか。
「――ッ!」
気づいた時には、体が動いていた。
俺は、肥え太った奴隷商人と、獣人の少女の間に、割り込むように立ちはだかる。
「あぁ? なんだテメェは。邪魔だ、どきやがれ」
突然現れた俺を、奴隷商人がギロリと睨みつける。だが、そんな脅しは、今の俺には何の意味もなさない。
俺は、腰に提げた金貨袋を、奴隷商人が見やすいように持ち上げた。
「その子、俺が買う」
「……あ?」
一瞬、奴隷商人は何を言われたのか分からない、という顔をした。だが、すぐに俺の持つ金貨袋の重みに気づくと、下品な笑みをその顔に貼り付けた。
「ケケッ、そいつは好都合だ。だがよぉ、アンちゃん。こいつは『訳アリ』でな、ちいとばかし高いぜ? 払えんのか?」
値踏みするような、いやらしい視線。
俺は、何も答えなかった。ただ、無言で金貨袋の口を開け、その中身を――換金したばかりの、俺の全財産を――奴隷商人の足元に叩きつけた。
チャリン、と硬い音が響き、金貨が数枚、袋からこぼれ落ちる。
「……これで、足りるか」
俺のその行動に、奴隷商人はもちろん、周りで見ていた野次馬たちも息を呑んだのが分かった。
奴隷商人は、一瞬だけ怯んだような顔をしたが、すぐに欲望をむき出しにして金貨袋に飛びついた。
「へっ! た、足りるに決まってんだろ! お、お釣りはねぇぞ!」
そう叫ぶように言うと、奴隷商人は慌てて懐から一枚の羊皮紙を取り出し、俺に押し付けた。所有権の譲渡証だ。
そして、少女の首につながっていた鎖の鍵を乱暴に開けると、俺のことなど目もくれず、人混みの中へと消えていった。
静寂が戻る。野次馬たちも、興味を失ったように散っていく。
後には、俺と、まだ状況が理解できずに、ただ小さく震えている少女だけが残された。
俺はゆっくりと彼女に近づき、そっと手を差し伸べる。
ビクッ、と少女の肩が大きく跳ねた。その瞳には、感謝や安堵ではなく、新たな主人に対する恐怖の色だけが浮かんでいる。
心が、チクリと痛んだ。
だが、言葉は無意味だろう。俺は、ただ一言だけ告げた。
「……行くぞ」
少女の手を引くことはせず、俺は背を向けて、宿屋の方角へと歩き出す。
しばらくして、おずおずと、小さな足音が後ろからついてくるのを感じた。
ずっしりと重かった金貨袋は、ほとんど空になっていた。