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君といる日常

王都での一件から、一年が過ぎた。


辺境の街フロンティアに、暖かい春の風が吹く季節。


「フェン、こっちよ! あははっ!」


俺たちの家の、ささやかな庭から、鈴を転がすような笑い声が聞こえてくる。


窓からそっと覗くと、そこには、一年ですっかり大きくなったフェンと、楽しそうに追いかけっこをするセレスの姿があった。


あの頃の面影は、もうどこにもない。彼女は、この街で一番、太陽の似合う少女になっていた。


「――ただいま」


「あ、アッシュ様! おかえりなさい!」


俺が玄関のドアを開けると、セレスは花が咲くような笑顔で駆け寄ってくる。その腕の中に、成長して銀色の毛並みを輝かせる狼となったフェンが、甘えるように頭をすり寄せた。


ちなみに、俺が今日ギルドでこなしてきた依頼は、パン屋の娘に頼まれた「迷子の猫探し」だ。


英雄でも、救世主でもない。俺はただの、この街の冒険者アッシュさんだ。


それで、よかった。心から、そう思える。


***


その日の夕方、俺はギルドの酒場で、一人静かにエールを飲んでいた。


カウンターの隣で、最近この街に来たという、北の鉱山からの行商人が、酔った勢いで口を滑らせている。


「いやぁ、北の鉱山は地獄だぜ。特に、俺が見た囚人どもはひでぇもんだった。なんでも、元Sランクパーティーの英雄様だったって話だが、今じゃ見る影もねぇ。ガリガリに痩せこけて、何かに怯えるようにブツブツと……『無能だったのは俺たちの方だ』ってな。もう、気が狂れてるのさ」


その言葉に、酒場にいた誰もが興味を惹かれたように聞き耳を立てる。


だが、俺は、その話に何の感想も抱かなかった。


ガウェインたちが、今どうしているかなど、俺の人生には、もはや一欠片の関係もない。


俺はエールを飲み干すと、勘定を済ませ、ただ一つの場所を目指して席を立った。


俺の、帰るべき場所へ。


家路を急ぐと、温かいシチューの匂いが、ドアの隙間からふわりと漂ってきた。


中に入ると、セレスが「おかえりなさい」と、満面の笑みで出迎えてくれる。その日常が、俺にとっては、どんな爵位や金銀よりも価値のある宝物だった。


その夜、俺たちは、暖炉の前に並んで座っていた。


ゆらめく炎が、セレスの横顔を柔らかく照らし出す。床に寝そべったフェンが、時折、幸せそうに寝息を立てていた。


「……なんだか、夢のようです」


ぽつりと、セレスが呟いた。


「一年前は、明日が来ることが、ただ怖かったのに……今は、明日が来るのが、こんなにも楽しみなんて」


「……俺もだ」


俺は、彼女の小さな手を、そっと握った。


「お前がいなかったら、俺は、あのダンジョンで死んでいただけの男だった。力を手に入れても、何のために使えばいいのか、きっと分からなかっただろう。お前が、俺に、生きる意味をくれたんだ」


「いいえ……違います」


セレスは、ふるふると首を横に振った。その瞳には、美しい涙の膜が張っている。


「わたくしの方です。アッシュ様が、心を殺していたわたくしに、もう一度、生きる喜びを教えてくださったのです」


感謝の言葉は、もういらない。


お互いの気持ちは、痛いほど分っていたから。


俺は、彼女の肩を、優しく引き寄せた。


「セレス。お前がいてくれる。それが、俺の全てだ」


「……はい」


幸福に満ちた笑顔で、彼女は、こくりと頷いた。


俺は、そっと顔を近づける。


それは、王都の喝采よりも、どんな冒険よりも、ずっと、ずっと価値のある、俺たちの日常を象徴するような、穏やかな口づけだった。

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