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EPI.39 不器用な道しるべ

 

 食堂で寝かされていたヒグマの傷に化膿止めの軟膏を塗っていたところで、さくらは背後から声をかけられた。

「丁寧な仕事ね。介抱しろとは言ったけれど、こんなやつにそこまでしてあげる必要もないでしょうに」

 環だった。珍しく、珠洲も一緒に立っている。

「でも、苦しんでいる人を放っておくわけにもいきませんから」

「そうね」

 さくらの言葉に、どこかぎこちなく、環はそれだけ答える。

 そして、一通りの手当てが終わるのを待ってから、無言で手招きをするようにさくらを呼んだ。

「なんでしょうか?」

 さっそく次の仕事だろうか、とさくらの背中にちょっとだけ緊張感が走る。

 しかし、さくらの予想に反し、環はスーツの内ポケットから何かを取り出し、手渡してきた。

 薄い封筒。

 促され、中を確認すると、数枚の紙幣が入っていた。

「これは?」

「今までの頑張りに対する、あなたへの報酬よ」

「えっ、あの、私、お給金はいらないと……」

「そうね。そう聞いていたわね」

「だったら――」

「でも、それは、お給金じゃないから」

 どこか、いつもより歯切れの悪い環の言葉に、さくらは困惑する。

「そんな回りくどい言い方じゃ、この子には伝わらないわよ、環」

 後ろで様子を見ていた珠洲が、口をさしはさんだ。どこか、楽しそうな様子で口元に笑みを浮かべている。まるで、新しく手に入れた玩具を前に浮かれている子どものように。

 嫌な、予感がした。

「あの、たまきさん、これって」

「退職金よ。別の言い方をすれば、手切れ金かしら」

 環の代わりに答えた珠洲の言葉に、さくらは、頭が真っ白になる。

「……えっ」

「分からない? あなた、クビになったの」

 (もてあそ)ぶような、珠洲の言葉。

 手元から、封筒が滑り落ちる。

 バラバラに散らばった紙幣を環は拾いなおし、再び封筒をさくらの手に渡し、握らせる。

「そんな、わたし、どうして……」

「あなた、環の部屋に居候(いそうろう)しているんでしょう? 今日中に荷物をまとめて出て行くこと。いいわね?」

「わ、わたしに至らないところがあることは分かります。だけど、もっと頑張りますから、だから、だから――」

 必死だった。ここにすら捨てられたら、自分の居場所など、本当にこの世界のどこにもなくなってしまう。

「……いいえ。あなたはよくやってくれていたわ。未熟な点も多かったけれど、何にでも一生懸命で、十分役に立ってくれていた」

「だったら――」

「でも、あなたは緋梅会(うち)には要らない。私がそう判断したの」

「うそ……」

 環の言葉に、さくらは息を飲む。

 信じられない言葉だった。

 信じたくない言葉だった。

 自分を捨てたのは、珠洲ではなく、環だった。

 世界で、ただ一人信じていた人物に、裏切られた気分だった。

 言葉を失い立ち尽くしていたさくらに、環は小さく息を吐き、別のものをスーツの懐から取り出し、それを手渡す。

「それから、これ」

 もはや取り乱すことすら出来なくなったさくらは、うつろな瞳で、手渡されたそれを見る。

 A4サイズにプリントされた不鮮明な画像。おそらくは防犯カメラの記録映像。

 明確な場所は分からない。どこかの駅だろうが、見覚えはない。

 ――だが。

 そこには、行き交う人々に、必死な形相で声をかける婦人の様子が映されていた。

 そして、その婦人が、まるで押し付けるように鉄道の利用者に受け取らせているチラシに映るのは――。

「それ、あなたでしょう?」

 信じられない光景だった。

 そんなはずはない、とさくらは思った。

 だが、印刷された画像は、ただ、事実だけを淡々と伝えてくる。

 疑いようのないほど、明確に。

「ママ……?」

 紙を持つさくらの手が、いつの間にか震えていた。

「このご婦人、あちこちの駅で似たようなことをしているそうよ。アキラが調べてくれた限りでも、西は浜松から、東は水戸まで」

「そんな、そんなはずは……!!」

「あなた、お兄さんかお姉さんがいたでしょう?」

 不意に、珠洲が尋ねる。

 意図は全く分からなかったが、さくらは、素直に頷く。

 だが、困惑する。そのことは、珠洲はもちろん、環にすら話したことのない話だ。

 どうしてそれを、と口を開きかけたところで、珠洲が遮るように言葉を続ける。

「もちろん、分かるわよ。このご婦人が、こんなに一生懸命になっている様子を見れば、誰だってね。わざわざ口には出さなくても、みんな思っていることなのよ」

「どういう、ことですか?」

「分からない? このご婦人は恐れているの」

「何を、ですか」

「子を、失うこと」

 珠洲は、薄いほほえみを口元に浮かべ、言う。

「ことさら、かつて子を失ったことのある親っていうのは、特にね」

 彼女は、恐れている。

 珠洲はそう言った。

 さくらを失うことを恐れている、と。

 にわかには信じられなかった。

 さくらの記憶。

 母との長い生活の中、母の目にさくらが映っていたことは一度もなかった。

 彼女の瞳はいつも、自分の形を通して、かつて亡くなった兄を見ていた。

 歳の離れた兄。さくらがまだ赤ん坊のころに大災害で亡くなった兄。

 ――お兄ちゃんはそれくらい簡単に出来ていたのに。

 ――お兄ちゃんはもっと上手だったのに。

 ――お兄ちゃんはもっといい子だったのに。

 ――お兄ちゃんは、

 ――お兄ちゃんは、

 ――お兄ちゃんは。

 物心つく前からはじまり、ついに耐え切れずに家を飛び出した14歳になるまで続いた地獄だった。

 たかがそれくらいで、と言う者もあるかもしれない。

 たった一人の家族を捨てるほどのことでもないだろうと。

 だが、さくらにとってその生活は、喉を掻きむしりたくなるほどの苦痛だった。

「そのお金で切符を買って、家に帰りなさい。実家がどこだか知らないけれど、いずれにしろ十分な額のはずよ」

「そんな、今更……」

「そうね。今更帰ったところで、きっとあなたのお母さんはあなたを叱るでしょうね。ながいながい家出ですもの。激昂して、罵って、少なくとも、一度はぶたれるでしょう」

 びくりと、さくらは肩を震わせる。

「でも、甘んじてそれを受け入れなさい。あなたは、それだけのことをしているのだから」

「…………」

「そして、そのあと、必ずあなたを抱きしめるはずよ。それも、甘んじて受け入れなさい」

 自分の心臓を握りしめるように、さくらは、手に持っていた封筒を握りしめる。

「あなたは、それだけ愛されているのだから」

 ――愛されている?

 それは、さくらがずっと求めて、ずっと得られなかったものだ。

 それを、

 それを――!!

「そんなこと、私のこと何も知らないでそんな勝手なことを言わないでください――!!」

 突然大きな声で叫んださくらに、むしろ、珠洲は挑発するように、息がかかりそうな距離まで顔を近づけ、言う。

「あなたたち母娘の間にどんな軋轢があったかなんて知らないけれど、愛情の形がゆがむことなんてよくあることよ? その形を正せないのは、あなたの努力不足」

「私、の……?」

 思いもよらない言葉だった。

「あなた、お母さんとケンカしたことないでしょう?」

「…………」

 図星だった。

 喧嘩はおろか、ただの一度も、言い返したことすらなかった。

 さくらは、ただいつも、我慢して、我慢して、耐えてきた。

「言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさい。赤ん坊じゃないんだったら、察してほしいなんて甘えないこと。それが、子どもの責任よ」

「私の――」

 母に言い返す自分を想像する。今まで、一度だって反抗したことのない娘の反逆だ。もしかしたら、母はこれまでに見たこともないほど激昂するかもしれない。想像するだけで、委縮し、手が震えた。

「そんな、私に、そんなこと……」

「できるわよ」

 環は、そう言ってゆっくりとさくらの手をとり、両手で優しく包む様に握る。

 いつのまにか冷え切っていたさくらの手のひらに、ぬくもりが移る。

緋梅会(ここ)は、あなたの場所じゃない。いるべき場所じゃない。だけど、ここで過ごした時間がまったく無意味だったわけでもなかったはず」

「……どういう、ことですか」

 環は、どこか寂し気な笑みを浮かべ、言う。

「とっさで覚えていないかもしれないけれど、あなた、さっき、珠洲様に啖呵を切ったのよ。それにくらべたら、血のつながったお母さんに自分の素直な思いを伝えるなんて、よほど簡単な事でしょう?」

 さくらは、今更のように口を押える。

 恐る恐る珠洲の顔色を窺うが、彼女は、変わらず挑発的に口元に笑みを浮かべるだけで咎めようとするような様子はなかった

「……そう、でしょうか」

「あなたに足りなかったのは、自信ときっかけ。ここはあなたのいるべき場所ではないけれど、ここで身に着けた炊事や仕事の経験も、目にしてきた世界も人も、すべてがその(いしずえ)になるはず。だから、胸を張っていきなさい。珠洲様に面と向かって啖呵を切れる人間なんて、そういないんだから」

「…………」

「あなたのおうちへ、帰りなさい」

 環がそう言うと、さくらは顔を伏せるように俯き、そして静かに頷いた。

 さくらの手を握っていた環の手に熱を持った雫が何粒か落ち、音もなくはじけた。



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