EPI.36 混沌の行方 後編
ミカンちゃんの背に乗せられた赤木の指示に従い五十鈴と閑野の介抱をしていると、ドンッと、傍らで何かを蹴ったような音がした。
「ほら、ヒグマ。いつまで寝てるの? 早く起きないとジビエにして煮込んで食べちゃうわよ」
うつ伏せに倒れ込んだままになっていたクマ男の脇腹へ、珠洲のヒールがぐりぐりとめり込んでいる。
「さくら、介抱してあげて」
環が指示を出すと、多くの組員の後ろから、人をかき分けるように小柄な少女が顔を出す。
その顔に、ユウタは見覚えがあった。つい先日、丘塚の海水浴場でぶつかった子だ。
「…………」
少女はユウタを一瞥するが、気にも留めずにクマ男のもとへと駆け寄っていった。
控えめそうな雰囲気の子ではあるが、巨躯の男性に物怖じすることもなく、手際よく手当てしていた。
「あの、環さん。ダメです。出血とか目に見える外傷は大したことなさそうなんですけれど、意識が完全に落ちています」
「運べる?」
「すみません。私ひとりでは片腕を持ち上げるくらいで精いっぱいです」
「だれか、手伝ってあげて。引きずっても構わないから、四、五人くらいで食堂まで運んでおいて」
「まったく、役に立たないだけじゃなくて迷惑までかけるなんて。お給金下げちゃおうかしら」
「――珠洲様、ちょうどいい機会ですので、そのヒグマについて一件ご報告が」
環が言うと、珠洲は意外そうな顔をした。
「ヒグマについての報告? なにかしら?」
環は、嫌悪感を顕わにした目でクマ男を一瞥する。
「そいつ、数か月前から組員に乱暴を繰り返しています。アキラの裏取りからも、被害に遭っている組員は複数。おそらくですが、最近の組員の離脱増加の要因になっている可能性もあります」
「…………ふぅん」
珠洲は、目を細め、床に倒れ伏すヒグマを見る。
「こいつが、そんなことを、ね」
「……構成員の安全と、組織を守るため、即時追放を提案します」
「それはダメよ」
「なぜですか」
半ば叫ぶように、環が言う。
「彼が、私の玩具だからよ」
「……玩具、ですか?」
「ええ。私のお気に入りの、ね」
「はあ」
思いもよらぬ珠洲の言葉に、環は間の抜けた声を出してしまう。
「これが、玩具ですか?」
「ええ、素敵でしょ?」
その場にいた皆が、珠洲の言葉に困惑していた。
百歩譲ってテディベアのような愛らしい姿であれば理解もできるが、クマ男を抱いてベッドで眠る珠洲の姿など、誰も想像できなかった。
「あの、すみません。言っている意味が分からなくて……」
「そうね、こいつ、環みたいなタイプの子には手を出さないでしょうから、あなたには分からないかもしれないわね」
「どういうことですか?」
「引き取って最初の日だったかしら。こいつ、私の部屋へ押し入ってきて、ベッドに押し倒してきたのよ」
「なっ……!!」
環はたちまち激昂し、懐から取り出したハンドガンをクマ男へ向け、躊躇なく引き金を引いた。
破裂音とともに、クマ男の股の間でタイルがはじけ飛ぶ。
パンパンに膨らんでいるジーンズの下がどうなったのか外観からは分からないが、勢いよく血が噴き出していないことから運よく直撃は避けられたのだろう。
だが、じわりと血が滲み始めていた。
標準を修正し二発目を撃とうとしたところで、珠洲が環の腕を押さえるようにそっと制した。
「ダメよ」
「なぜです」
「私、なにもされていないもの」
「……は?」
「こいつね、私を押し倒してから、そこから先何もできなかったの。息を荒くして、しばらく足をくねくねと擦り合わせるように動かしていたのだけれど、そのうち、見る見るうちに情けない顔になっていって、荒い息もだんだんとすすり泣くような声になって、最後はうなだれて帰っていくの」
「…………」
環の顔から、怒気が消えた。
「それからも、時折なにかの拍子にやってきては、耐え切れなくなったような顔で私を押し倒して、くねくねと動いて、同じように情けない顔で帰っていくの。何度も、何度も、何度も。うふふ、たまらなく愛らしい。でしょう?」
珠洲は昂揚しながらそう言うが、環はただ困惑した顔を浮かべるだけだった。それのどこが楽しいのか、まるで分からないといったように。
「きっと、他の組員たちに対しても同じよ。覆い被さって、下半身を擦り付けて、情けない顔で去っていくだけ。もっとも、男性に免疫のない子も多いでしょうからそれに耐えられないという気持ちも分からなくはないわ。でも、捨てるのは少し勿体無いのよ」
「……いつか正気をなくして珠洲様の身に危険が及ぶ可能性もあります」
「平気よ。こいつにそんな度胸あるわけないわ。なまじ頭が回るから、私たちに見捨てられたら、自分がどうなるかとてもよく分かっているのよ。こんな図体で本当はまるでリスみたいに臆病な性格なんですもの、そんなこと絶対にありえないわ」
「ですが、組織のためにもこのまま放置するわけにもいきません」
「そうね」と珠洲は子どもにご褒美を上げる母親のような顔で、「あなたがそこまで言うのだったら、他の女の子に手を出さないようにって、釘を刺しておきましょうか」と言った。
「ありがとうございます」
環は、ほっとした様子で拳銃を懐へ戻し、頭を下げた。
ユウタは、その様子を複雑な表情で見ていた。
おそらく、ヨーイチやレンも似たような感情を持っただろう。
つい先ほどまで畏怖の象徴のようであり、嫌悪感しか抱けなかった大男が、ひどく小さく、哀れに思えた。
「ねえ、あなた」
ユウタがクマ男から視線を逸らしたところで、珠洲に声をかけられた。
「なんですか?」
もはやファウンダーでないと分かった自分に用などなにもないであろうに、とユウタは身構える。
「あなたがファウンダーでなくて残念だとは言ったけれど、お気に入りだったのは本当よ。あなたさえよければ、いつでもウチに遊びにいらっしゃい。遊んであげるわ」
「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます」
「若者が遠慮なんてしなくていいのよ」
「いいえ。遠慮しておきます。俺、好きな人がいるんで」
「あら」
ユウタが言うと、そばで警戒していたヨーイチが驚いたような顔でユウタを見た。
「嫉妬しちゃうわね。その子、私よりも魅力的なの?」
「はい、俺にとっては、あなたよりずっと素敵な女性です」
ユウタが言うと、珠洲の傍らに立っていた環が吹き出した。
「フラれちゃったわ」
「ですね。生まれて初めてなんじゃないですか?」
「まさか、こんなところで、こんな子どもに処女を奪われるなんて、思っても見なかったわ」
ツボに入ったようで、環はずっとくつくつと笑っている。
「まあ、いいわ。私のヴァージンを奪った記念に、もう一つだけサービス。お魚にエサをあげたくなったらウチに相談に来なさいな。三割引きで請け負うわよ」
「……?」
言葉の意味を測りかねユウタが返答に困っていると、ヨーイチが後ろから手で耳を塞いできた。
「聞くな聞くな。相手にせんでええ。『いけ好かんやつがおったら代わりに相模湾に沈めたる』っちゅーとるだけや。ヤクザ者の戯言なんざ聞き流せ」
「おーい、ヨーイチ、ユウタ。ミカンちゃんが呼んでるよ。準備終わったから肩貸してほしいって」
見ると、ミカンちゃんらはすでに撤収の準備がほぼ完了しており、ユウタらを待ってくれていたようだった。レンとダイスケで両脇を支えるように閑野を担いでおり、あとは気を失っている五十鈴を運ぶだけのようだ。
ユウタがそちらへ向かおうとすると、ぽんと、ヨーイチに肩を叩かれた。
「あの姉ちゃんはワシに任せろ。お前の仕事は、お姫様を守る騎士様、やろ?」
くいっと顎で促されたほうを見る。
その先には、今にも泣きだしそうな小さなお姫様が、ユウタを睨んで待っていた。




