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EPI.35 母親 後編


 悲鳴のようなユウタの声と、ほぼ同時だった。

 パシュっと、空気がひび割れたような音が響く。

 クマ男の手元から伸びた二本の細いワイヤーが、ミカンちゃんの腹部へと突き刺さっていた。

「…………ッ!!」

 ユウタは叫びだしそうになった。

 感情を真っ黒に塗りつぶされたような衝動に襲われ、情動のままにクマ男に殴りかかろうとするが、膝が震えてまともに立ち上がることすら出来ない。

「へっ、へっ、へへっ、へへへへっ、ざまあみろってんだ」

 クマ男は、肩で息をしながら歪な表情で笑う。

「へっ、へっ、へっ、へっ、……へっ、……へっ」

 だが、何かがおかしいことに、気づく。

 スタンガンの電極が刺さっているはずのミカンちゃんが、動かない。

 立ったまま、動かない。

「…………あぁ?」

 呆けたように、だらんと腕を下げたところで、ミカンちゃんが跳ねた。

 おそらく、そこから先の出来事は、クマ男の記憶には残っていないだろう。

 魔法のように一瞬で間合いに潜り込み、一閃。クマ男の側頭部に強烈な回し蹴りが叩き込まれた。

「ぺへぇぁ?」

 意味を成さない言葉だけ残して、クマ男は受け身を取ることもなくに床に倒れ伏した。

 それきり、ぴくりとも動く気配はない。

「ふぅ、一丁上がりね。ありがとう、ユウタ君。心配してくれて。でも大丈夫よ」

「どうして……」

 ミカンちゃんの脇腹には、今もワイヤーが刺さったままだ。

「ああ、これ?」

 と言って、ミカンちゃんは割烹着の中へ手を入れる。

 そして、出てきたその手には、ファンシーなパステルカラーに彩られた編み物雑誌が掴まれていた。

「……ははっ」

 思わず、乾いた笑い声が漏れた。

 膝から力が抜け、ぺたんと床へ座り込んでしまう。

「やから、心配いらんって言うたやろ?」

 ヨーイチがユウタに手を差し伸べて、言う。

「ミカンちゃんって、いったい何者なの?」

「さっき言うたやろ。オカンに電話したって。そん時の話し相手がミカンちゃん。つまり、ワシのオカン」

「でもオカンって……。だって、ミカンちゃんは、その、……子どもを産めないだろ」

「オカンにも、色々あるっちゅうこっちゃ。切りたくても切れん血の縁で結ばれとる戸籍上のオカンも居れば、育児放棄されとった元愛人の残したガキを引き取って育てる物好きなオカンもおる」

「それは……」

 ユウタが言葉に詰まると、ヨーイチは軽い調子で言う。

「もともとは、オヤジのボディガード兼愛人やったらしい。何周忌やったかのオヤジの墓参りン時にな、食うモンもロクに与えられずにガリガリに痩せ細っとったワシを無理やり引き取って、育ててくれた。ワシにとってオカンってのは、戸籍に名前が載っとる女やなくて、あの人のことや」

「……思いのほか、壮絶な過去で絶句している」

「昔の話や。聞かれたから答えたが、他人が気にするような話でもないからあんま気にすんな。立てるか?」

「ああ、もう大丈夫だと思う」

 手を取り、身体を起こす。膝が震え、少し立ち(くら)みもしたが、自力で歩けないほどではない。

「どういう理屈か知らんが、結果的に弟クンとも無事合流できたみたいやし、こんなところにおる理由はもうないやろ。さっさと帰るで」

「そうだね」

 ヨーイチの言う通りだ。悠長にお喋りしている暇があったら、さっさと帰ったほうがいい。

 ユウタは、いまだに意識を取り戻せていない五十鈴のそばまで行くと、腕を肩に回して担ぎ上げる。そして、身体を持ち上げようとしたところで、突然ふわりと浮かぶような感覚に襲われた。肩に圧し掛かっていた抵抗がなくなった。

「?」

「ワシもしんどないわけやないけど、お前よりはマシやろからな。ここはワシに任せろ」

 ヨーイチが、五十鈴の身体を肩に担ぎあげながら言う。

「そうよ。その子、頑丈さだけは立派だから任せちゃいなさい。もう一人の子は私が引き受けるわ」

 それに呼応するように、ミカンちゃんが閑野の身体を同じように肩に担ぎあげた。

 ユウタは一瞬だけ抵抗しようとするが、ここは大人しく任せることにした。

 そして、少し離れた部屋の真ん中に立っていた弟に声をかける。

「ダイスケはどうする?」

 言外に、『逃げないのか?』と問う。

 これまでの成り行きを考えれば、このままユウタらと共に行動することは都合が悪いだろう。

 現に、健太郎少年とエリサはすでに姿が見えなくなっていた。

「僕も兄ちゃんたちと一緒に行くよ」

「いいのか?」

「うん。本当は、もう少しだけケンたちと一緒に行動する予定だったんだけど、もう僕のやりたいことは一通り終わったようなものだし、ちょっと別の用事も思いついたしね。脱走劇は終了でいいかなって」

「そうなのか?」

 ダイスケの言葉の真意はさっぱり分からなかったが、おそらく問い返してもいつものようにはぐらかされてまともな答えは返ってこないだろう。

 ユウタは疑問をひとまず棚上げすることにする。

「じゃあ、さっさとこんな場所撤収しようか」

「それを、私が許すと思う?」

 背中が、ぞわりと総毛だった。

 皆の視線が一斉に声のもとへ注がれる。

 鮮明な深紅。

 否定を拒絶する、支配的な声。

 真っ赤なドレスに身を包んだ珠洲がそこに立っていた。


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