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EPI.35 母親 中編


 平衡感覚を失い、後頭部に衝撃を受けてからようやく自分が倒れてしまったことに気が付いた。

「兄ちゃん!!」「ユウタ!!」

 誰かが同時に叫ぶ。

 何重もの見えない薄膜を通したように、声が遠く、判然としない。

 意識の中に漠然とした危機感だけは残っていたが、思考はまるでまとまらず、何も考えることができなかった。

 視界いっぱいに広がっていたくすんだ色の天井に、山のような大男が覆いかぶさるように映る。

 身体を起こそうとするが、足に力が入らない。かろうじて、動かせる右腕で上体だけでも起こそうとするが、背中は床に根を生やしたようにぴったりとくっつき、1ミリも浮き上がらなかった。

「気分はどうだ、ガキ」

「あぁ、少し、頭がクラクラするみたいだ。落ち着くまでしばらくかかりそうだから、タイムアウトをお願いしたいな」

「はは、面白ぇな。これからチョークで落としてやるから、遠慮せずゆっくり休んでろ」

 クマ男の左腕が、ユウタの首を鷲掴む。

 その時――。

「おっさん、ちょっと待てや」

 なんとか首を動かし声のほうを見ると、壁を背にしてヨーイチがようやくと言った体で立っていた。

「てめぇはもう終わってるだろが。そこで大人しく死んでろ」

「いや、そうやなくてな。ちょっとばかしおせっかいかもしれへんのやけど、一応教えといたろうと思てな。なあ、おっさん。ひょっとして、アンタいま、それどころやないんちゃうか?」

 ヨーイチが一体なにを言っているのか、ユウタは最初理解できなかった。

 それはクマ男も同じであったようで、怪訝そうな顔でヨーイチを睨む。

 だが、すぐにその顔に疑問符が浮かぶ。

 何かを探すように、あちらへこちらへとせわしなく首を動かし始めた。

 クマ男が何をしていたのかユウタには最初分からなかったが、ようやく回復し始めた聴覚が、遠くから、細切れになったノイズのような音を捕えた。

 それは、おそらくは、ホテルの階下から。

 騒乱。小さな(いさか)いが絶え間なく続いているような騒々しさだ。

「…………なんだぁ?」

 その様子は大男の耳にも届いたようで、騒音が漏れ聞こえてきた扉に目をやる。

「どうやら、ギリギリ間に合うたみたいやな」

 ヨーイチが、ため息と同時に呟く。

 そして、ふらふらとした頼りない足取りで、その扉の前へゆっくりと歩いていく。

「間に合った? 何の話だ?」

「ユウタの勝ちで、お前の負け、って話や」

「あぁん?」

 大男の言葉にはぐらかすように答えて、ヨーイチは扉を開く。

 途端に、階下の喧騒が鮮明に聞こえるようになった。

 騒ぎは思いのほか大きいようで、時折、怒声や悲鳴も入り混じって聞こえてくる。

「てめぇ、いったい何をやらかした?」

 ヨーイチは、唇の端を歪めるようにして太々しく笑う。

「ここに来るちょっと前にな、ワシ電話したんよ。これからちょいと出入りに向かうから、もしものことがあったら後のことはよろしゅうって。んで、そんときにな、まあ後のことを頼むにしても今()る場所くらいは伝えやんと、拾う骨も拾えんやろ? やから、教えといてんやわ。ワシが今居る、このホテルの場所」

「――サツか?」

「ははっ、まさか。今の時代、ドンパチ騒ぎに本気でサツに頼るやつなんざおらんやろ」

「だったらどこどこのどいつにだ?」

「自分の人生の後始末なんて大切なことを頼むんや、そんなん決まっとるやろ」

「だから、そいつは誰だって――」

「もちろん、うちのオカンや」

「はぁ?」

 大きな悲鳴とともに、廊下の床を転がっていく女性の影が立て続けに二つ見えた。

 そして――、

「洋一!!」

 直後、その人物が飛び込んできた。夏の太陽のように、鮮やかな橙色の髪を振り乱して。

「よっす。ホンマ、ええタイミングやで」

 扉の傍らに寄りかかりながら、ヨーイチが片手をあげて出迎える。

「……ミカンちゃん?」

 よほど急いで来たのだろう。着の身着のままで店を出てきたようで、割烹着姿のままだ。肩で息をしながら、ミカンちゃんはヨーイチのもとへと駆け寄った。

「アンタ、無事なの?」

「御覧の有様や。あんまり無事とは言えん」

 ヨーイチの言葉に促されるように、ミカンちゃんは床に伏している五十鈴と閑野を見る。次いで、万鈴とダイスケと健太郎少年とエリサ、そして最後に、鼻から血を流しているユウタと、ユウタを片手で釣り上げていた異質な存在感を放つクマ男を見た。

「あなたが原因、ってことでいいのよね?」

 聞いたことがないような低い声で、見たことがないような鋭い目で、ミカンちゃんはクマ男へ言う。

「そうだが、てめぇは誰だ?」

「保護者よ。この子たちの」

「一応言っておくが、原因はこいつらのほうにあるからな。不法侵入の現行犯ってヤツだ」

「それにしては、やりすぎじゃないかしら」

「これが普通なんだよ。ここではな」

「頭を下げれば許してもらえるの?」

「んなわけねぇだろ」

「だったら、申し訳ないけれど無理にでも押し通るしかないわね」

 ミカンちゃんは、割烹着の袖をまくり上げ、帯で止める。

「……? オマエ、男か?」

「染色体的には、ね」

「半端モンか。俺は女はクソだと思っているが、女みたいな男はそれ以上のクソだ。俺の一番嫌いなタイプだ」

「お互い様ねぇ。私も、あなたみたいななんでも力づくで解決しようとしそうなタイプが一番苦手だわ」

 そう言って、ミカンちゃんは全くの無遠慮にクマ男に向かって距離を詰めていく。

「右手、痛そうだけど大丈夫?」

「オカマ相手ならちょうどいいハンデだろ」

「そうね。私、か弱いオカマだからよろしく手加減してね」

 間合いに入り、最初に伸びたのはクマ男の手だった。

 ミカンちゃんはあっけなく襟首を掴まれると、クマ男に力任せに身体を引き寄せられる。

「ッ!?」

 しかし、ミカンちゃんの身体はピクリとも動かない。

 クマ男は、狐にでも化かされたかのような困惑した表情を見せる。

「片手じゃ無理よ。しかもそんな腰も入っていないような力づくのやり方じゃ、尚更」

 言って、ミカンちゃんは襟首を掴んでいたクマ男の手を取り、払うように軸足を蹴る。

 バランスを崩したクマ男は掴まれていた手を軸にして身体が捩じり上げられ、悲痛な声を上げる。

「ぐあッ!!」

 クマ男はとっさに掴んでいた襟首を放し、力任せに腕を引く。

 単純な力比べはさすがに敵わないようで、ミカンちゃん手はあっさりと振りほどかれた。

 クマ男はすぐさま立ち上がり、()じりあげられた腕をさする。

「まったく、とんだ馬鹿力ね」

 クマ男はミカンちゃんを睨みつけると、今度は跳躍するように一気に距離を詰め、拳を叩きつけるように振り下ろす。

 後ろに飛ぶようにミカンちゃんがそれを躱すと、クマ男は追尾ミサイルのように体ごとミカンちゃんにくらいついて行き、追撃の拳を繰り出した。

 ミカンちゃんは軽いステップとしなやかなスウェーでそれらの攻撃を躱し続けてはいるが、息がつまるようなラッシュが続く。

 先ほどまで命がけでクマ男と立ち合っていたユウタだからこそ分かることだが、クマ男の動きは身体が大きい分だけ相対的に鈍く見えるが、実際はかなり素早い。

 上に下に右に左に、縦横無尽に降り注ぐ拳の雨を、しかし、ミカンちゃんはただの一度の例外もなく全て避けきっていた。

 長い脚で器用にステップを踏みながらクマ男の攻撃を全て紙一重で躱している。

 技量の差は、圧倒的だった。

 彼女がどのような経歴を持っていて、なぜそのような技術を身に着けているのかは分からないが、何かしらの達人であることは疑いようがないようだ。

 だが――。

 それでも、ユウタの心は全く安心することができなかった。

 むしろ、不安のほうが大きいと感じるほどだ。

 体重差。

 ミカンちゃんは、ユウタよりは少し大きいが、それでも平均的な男性と同程度の体型だ。クマ男と比べると、体重差は倍近くあるだろう。

 実際に鼻っ面に一撃を叩き込まれ、身をもって経験したユウタにはよく分かる。

 あいつの攻撃は、まずい。

 いま自分が意識を保てているのは、ただの幸運の産物なのだ。叩きつけられたのが負傷していた右手であったから、この程度で済んでいるだけだ。

 おそらく、万全の状態での一撃であれば、首から上を引きちぎられ命を落としていた確率のほうが高かったのではないかとすら思える。

 大抵の格闘技には公平性を担保するために体重制限が設けられている。

 一定以上の体重差がある相手と戦うということは、勝負にならない、――つまりは、反則と同程度には危険なことと判断されているということだ。

 ミカンちゃんは、たった一度のミスが命取りになる。

 一方のクマ男は、現にいまも攻撃をかわされるたびに膝に蹴りを叩きこまれているはずなのに、まったく堪えている様子はない。

 とてもフェアな勝負になっているとは思えなかった。

「よぉ、生きとるか」

 扉のそばにいたはずのヨーイチが、いつの間にか床に伏していたユウタのそばにしゃがみ込んでいた。

「自力で起きれるか?」

「ああ。たぶん、大丈夫だ」

 ミカンちゃんのおかげで、クマ男の意識は完全に彼女に集中している。さすがにこれだけゆっくりできれば起き上がれるくらいには回復している。

 ゆっくりと、身体を引き起こし、座り込む。

「頭、ふらふらしたりせんか?」

「痛みは激しいけれど、平気だと思う。そういうのは特にない」

「なら、とりあえずは一安心やな」

 言って、ヨーイチは心底ほっとしたように笑う。

 すぐ目の前では、ミカンちゃんがクマ男と命がけの殴り合いを繰り広げているというのに呑気なものだ、とユウタは思う。

 不機嫌そうに曇るユウタの顔を見て胸中を察したのだろう。

「心配いらんで。あの人のことなら」

 とヨーイチは言った。

「心配いらんって、そんな無責任な……」

 巨漢に襲われている女性を見て心配するなと言うほうが無理だろう。

「心配いらん。あの人が、チンピラ風情にやられるわけがない」

 そういうものなのだ、と。

 まるで、じゃんけんを知らない子どもにごく当たり前のルールを教えるように、ヨーイチは言う。

「チィ!!」

 クマ男の苛立たし気な舌打ちが聞こえた。

 単純な打撃勝負ではラチが開かないと踏んだのだろう。

 腰を落とし、じりじりと近づくと、一息にミカンちゃんの太ももへ飛びついた。

 カマキリが獲物を捕らえるように両腕をいっぱいに振り回す。

 重心が低くなったことで、クマのようだった動きはネコのような狩猟動物のそれに変わった。もちろん、サイズ的にはネコのようにかわいいものではなくトラやライオンなどに例えるほうが適切だろう。

 先ほどまでの上半身への攻撃が中心だったときと異なり、狙いが下半身に変われば、ミカンちゃんの長い脚は却って不利になる。

 クマ男のタックルを右に左にと躱していたがミカンちゃんであったが、何度避けても執拗に繰り返されるクマ男の執念にやがて余裕がなくなっていく。

 そして、ついにクマ男の左腕がミカンちゃんの腰をとらえた。

 熊男は下品な笑い声を漏らしながら、勢いのまま覆いかぶさるようにミカンちゃんを押し倒そうとする。

 その時、ミカンちゃんが床の下へ消えた。

 いや、当然消えたわけではない。押し倒されるよりも前に、自ら身体を落とし、あおむけに床に伏していた。

 そして、器用に畳んでいた長い脚をクマ男のノドと水月に押し当て、身体のバネを目いっぱいに使って後方へ投げ飛ばす。

 クマ男は完全にカウンターを喰らう形になった。押し潰すつもりで乗せていた体重と勢いが、そのまま自分の急所に叩き込まれた。

「がはッ!!」

 投げ飛ばされたクマ男は、もんどりうって転がり、喉を抑えてうずくまる。

 ヒューヒューという不自然な呼吸音に本能的な嫌悪感を覚え、ユウタは思わず耳をふさぎたくなった。

 ふらふらと、やっとのことで立ち上がったクマ男だったが、彼の身に見られた違和感はそれだけではなかった。

 重心が右側に偏り左足をかばうような動きをしている。

 理由は明白だった。打撃戦のときにミカンちゃんに執拗に狙われていた左足。一発二発では気にも留めるほどでもなかったはずのダメージが蓄積して、無視できない大きさになっていたのだろう。

 まだ闘志は折れていないようでミカンちゃんへと向かって足を進めていこうとしてはいるが、膝が上がっていない。額には疲労だけによるものではない汗も浮かび始めているようだ。

「さすがに、そろそろ諦めてもらえないかしら。私、サディズムに興奮する性癖は持っていないのよ」

「ハァ……、ハァ……、ここまで虚仮(こけ)にされてなぁ、はいわかりましたってなぁ、辞めるわけにゃいかねえだろうがよォ!!」

 クマ男は、脇腹をおさえるように左腕を自分の腰へと持っていく。

 そして、シャツの下へ手を差し込むと、おもむろにその腕をミカンちゃんへと向けた。

 その動作が何を意味しているのか気づいた瞬間、ユウタの背中に絶対零度の悪寒が走った。

 なぜ失念してしまっていたのだろう。

 先ほど、万鈴を助けた際に奪われたモノ――。

「ミカンちゃん、逃げて!! そいつスタンガンを持ってる!!」


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