表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/55

EPI.35 母親 前編

 

 慎重に慎重を重ねて屋上からホテルの外へと向かう道を進んでいた四人だったが、その声を聴いた瞬間、二人の少年は全く同じ行動を取った。

 ほんの数秒前まで足音を殺しながら降りていた階段を一足飛びに駆け下り、わき目も振らずに声のもとへと向かう。

 二階フロア。一際大きな部屋にたどり着いたユウタの瞳に飛び込んできたのは、見たこともないような大きな男と、その前で怒りをあらわにした顔で立ち向かっている少女の姿だった。

「万鈴!!」

 いったいなぜ、彼女が今ここにいるのか。頭の中は困惑したままだったが、ぐだぐだと考える前に身体が勝手に走り出していた。

 同時に部屋に入ったダイスケが、傍らのテーブルに置かれていた酒瓶をつかみ、ぶん投げる。

 飛沫をまき散らしながら一直線に飛んで行ったそれが、大男の頭に直撃する。

「――ッ」

 大男の手が万鈴の持っていた何かに触れた瞬間、鈍い音とともに、大男の巨体が少しだけ(かし)いだ。

 意識が万鈴から離れた隙にユウタは彼女の手を取り大男から引きはがし、腕の中に抱いたまま壁際まで走り抜ける。

 心臓が大きく鼓動を打つ。忘れていた呼吸を思い出し大きく息を吸い込んだ。

 大男が、敵意をむき出しに、ユウタを睨む。

 瞬間、身体中の血管から血液を搾り取られたかのような寒気が全身を走った。

 思わず、悲鳴を上げそうになる。

 そいつは明らかに異質だった。直感的には、人でないとさえ思った。

 例えるなら、暴力という概念が何かの間違いで人に似た形を取ってしまったような存在。たとえ街中でクマにばったり出くわしたとしても、これ以上の警戒心は湧かないだろう。

 部屋へ入った時は無我夢中で気が付かなかったが、周りをよく見ると、五十鈴と閑野、そしてヨーイチまでもが床に倒れこんでいるのが見える。

 このような状況になってしまっている経緯は全く分からないが、端的に分かることがある。いま、この状況は非常にまずい。

「ああ、ああ、クソ。痛ぇなあ」

 片手で頭を押さえるクマのような大男。その手には、先ほど万鈴の手からはぎ取られたものが握られていた。駅前のアーケードで目にしたのは一瞬だったためはっきりと断言はできないが、あのとき五十鈴らが手にしていた物のように見える。

 大男はそれをシャツの下へとしまい込むと、大きな身体をゆするようにして言う。

「今度はなんだぁ? 次から次へとよぉ」

 ユウタは今すぐにでも逃げ出したい衝動にかられる。本能が、ひっきりなしに警鐘を鳴らしている。

 ――しかし。

 眼下には、五十鈴たちが伏しているのだ。

 直感的にではあるが、想像はつく。

 まったく想定外の事態ではあるが、おそらくこれは、自分が蒔いた種だ。あのとき、珠洲の手を取ったために招いてしまった結果だろう。

 自分のために危険を冒してくれた人たちを、このまま置いて逃げるなどできるはずがない。

「いきなり後ろからやってきやがってよぉ。てめぇら、いったいなんなんだ?」

「通りすがりのヒーローだよ」

 ユウタを睨む大男の背後から、芝居がかったような言い回しでダイスケが言う。

 さらに健太郎少年とエリサも遅れて到着し、入り口からラウンジの様子を伺っていた。

「急に走り出して、いったいどうしたのさ。ってか、うわっ、なにそのデカいやつ」

「ダイスケさん、はやくこちらへ。見ての通りこのルートは使えません。計画変更です。道を変えますので、今すぐ戻ってください」

「ごめん、ちょっと野暮用ができたみたい。僕はここで一仕事してから追いかけるよ。先に行ってて」

「野暮用って、ダイスケまさかそいつどうにかするつもり? 流石に無理があるって」

「でも、このまま見過ごすこともできないから」

 なぜ? と顔に疑問符を浮かべていた健太郎少年だったが、視線がユウタと、彼の腕に抱かれていた少女に止まると得心したように頷いた。

「なるほど。どうしてダイスケがいきなり飛び出して行ったのかは分かったよ」

「ごめんね、勝手なことしちゃって」

「いいって。これまで借りをつくってばかりだったし、これくらいどうってことないさ。ねえ、エリサ。この状況、君ならどうにかできる?」

「無理です。あれの相手は私の手には余ります。逃げる一択ですね。床に倒れている人たちも、たぶん政府の人ですし、個人的な感想を言えば正直関わりたくない案件です」

「まあ、エリサの立場だったらそう言うだろうね。でも、だからと言って、このままダイスケを置いていくのも心情的に抵抗があるし。うーん、どうしたものかな」

 健太郎少年は、場違いに緊張感のない声で独り言のようにつぶやき、腕組みをしながら考え込んでいる。

 そんな様子を見て、状況が呑み込めないクマ男が頭をガリガリと搔きむしる。そして、巨体ごとゆっくりと顔を回しながら、前方のユウタ、後方のダイスケと健太郎少年らとを見る。

「なんで、こんなところにこんなにガキがたくさんいやがるんだ?」クマ男は呟くように言い、そして、自分の言葉で何かに思い当たったように目を見開く。「まさか、てめぇらファウンダーのガキか?」

「うん」

 健太郎少年があっさりとそれを認めると、クマ男は不気味なほどに顔をゆがませ、大声で笑い出した。

「ひゃははは、ひゃははははははははは。まさか、憧れのファウンダー様とこんなところで会えるなんて、思っても見なかったぜ。ひっひっ、世の中何が起こるかわかんねえもんだな」

「なに、そんなに僕たちに会いたかったの? ひょっとして僕たちのファン?」

「ああ。ああ。何年も何年も積み重ねてきた鬱憤の元凶みてぇなもんだからな。いつの日か、ぐちゃぐちゃにぶっ潰してやりてぇといつも夢に見ていたんだよ。ああ、おかげで、今日はよく眠れそうだ」

 そう言って、クマ男はいびつな笑みを口元に浮かべながらぶんぶんと腕を振り回す。

「ありゃあ、ファンじゃなくてストーカーだったか」

「健太郎さん、早く逃げましょう。アイツ、相当にヤバいです」

「おめえら、ひょっとして珠洲の奴に騙されてホイホイついてきたクチか? あいつ、頭は狂ってるが顔だけはやたらといいからな。女を覚えたばかりで色気づいたガキを引っかけるなんざ朝飯前だろうよ」

「そうだね、彼女は確かにとても素敵な人だったよ」

「もう手籠めにされたあとかよ。さすが盛りのついたサルガキと節操のない変態女だな」

 ダイスケの言葉に、クマ男は不愉快そうに舌打ちをする。

「だけど、あまり長居するのも悪いでしょ? そろそろお暇したいと思ってところだったんだ。だから、そこ通してもらえないかな?」

「ふざけんな。通すわけねぇだろ。てめえらファウンダーのガキ一匹にいくらの値段がついてると思ってるんだ」

「僕ら、知らないうちに値段なんて付けられてるの?」

「狂った世界にはなぁ、狂った連中がたくさんいるもんなんだよ。ファウンダーのガキを手元に置いておきたいって考えるような根っからの気狂いがな。ひょっとして、社会のお勉強は苦手か?」

「なんのためにそんなことを?」

「知るかよ。そんな気色の悪い連中の考えることなんざ。ただ、ロクでもない理由ってことは確実だろうよ。間違いなく、まともな倫理観なんざ持ってねえさ」

「であれば、そんな人たちに売り払われるってのは、出来れば御免被りたいかな」

「お前らはな、これからの人生、そんな変態に飼われて死ぬまでどこかの小さな檻の中で過ごすことになるんだよ」

 クマ男の言葉に思わず寒気のするようなイメージを連想してしまい、ダイスケは気圧されたように一歩後ずさる。

「ひゃは、逃げられると思ってんのか?」

「そりゃね。そんなおっかない話までされて、わざわざ捕まりに行く人なんていないでしょ」

「馬鹿か、一匹だって逃すかよ。無駄だ、無駄無駄無駄。天下のファウンダー様もこうなっちまえば酷い人生だな。毛も生えてねえようなガキのころから国に管理されて、種馬みたいな生活が続いたかと思えば、今度は珠洲みてぇな頭の狂ったチンピラに攫われて適当に弄ばれて売り飛ばされて、行く末はどっかの酔狂な変態に一生飼われる人生か。ああ、ああ、みっともねえ。ゴミだな。ゴミ。お前も、お前も、そこに転がっている女も、お前ら全員ゴミみてぇな人生だな。ひゃははははは。ひゃっはっはははっははは――」

 クマ男は、まるで狂ったように口を大きく開き、笑い続ける。

「…………るな」

 すぐそばで声がした。

 重く、とても熱い声だった。

「……人の価値を、お前みたいなやつが勝手に決めるな」

 ユウタの腕の中で、少女が言った。

 堂々と、言い放った。

 この場で最も非力で、最も小柄な少女が、気おくれを一切感じさせないような誰よりも力強い声で。

 強い光の灯った瞳で、万鈴がクマ男を睨みつけていた。

「あぁ?」

 取るに足らないと思っていた小物が、委縮せずに歯向かってきたのだ。不機嫌を顕わにし、クマ男が万鈴を睨み返す。

 だが、万鈴はそれに全く怯むことなく、さらに言葉を重ねた。

「聞こえなかった? お前みたいなクズが、頑張って生きている人の価値を勝手に決めるなって言ったんだ」

「なんだぁ、このチビは?」

「みんな悩んで、みんな考えて、数少ない選択肢の中で必死に悩んで、選んで、頑張ってるんだ。ユウタも、ダイスケくんも、五十鈴さんも、みんな頑張って頑張って精いっぱいに生きてるんだ。ただ、不満を喚き散らしてわがまま放題しているだけのお前みたいなヤツが、そんな人たちの生き方を侮辱するな!!」


 ――熱を持った、言葉だった。

 ――火が、灯った気がした。


「ごちゃごちゃうるせえなあ。てめぇから先に潰されてえのか?」

 挑発され、今にも啖呵を切って飛び掛かりそうになっている万鈴の頭にぽんと手を置き、彼女を背中に隠すように、ユウタは一歩前に出る。

「させないよ。そんなこと」

 ユウタの震えは、止まっていた。

 心臓が、熱を帯び始めていた。

 彼女の言葉。

 それは、たぶん、ユウタがずっと求めていたものだったのだろう。

 何年も前から、物心がついたころから、――あるいはそれよりずっと昔から、求め続けていたものだったのだろう。

 不安だった。

 孤独だった。

 追い詰められた人類の未来のため、必死でがんばっているみんなを尻目に、何もできずにいたことが。

 拭いきれない劣等感と、堪えきれない罪悪感とが、ずっと心を蝕んでいた。

 自身の価値を自身で認めることを、拒み続けていた。

 だけど――。

 自分のあり方について。自分の存在について。

 自分の、価値について。

 ユウタは知った。

 自分が一人の人間として、認められていたことを。彼女に認められていたことを、ユウタは知った。

 知ることが、出来た。

 ――芯が、通った。

 決して折れることのない、黒鉄(くろがね)の芯。

 もう、不安は感じなかった。

 躊躇わない。迷わない。そして、後悔もしない。

 彼女がそれを認めてくれたのだから。

 ユウタは解放感を覚えていた。

 生きることを肯定された。

 いつか、心のどこかに刺さっていた小さなトゲは、もうない。

 これまで通り、変わらず、自分らしく生きて行けばいい。

 これからも、その自分を貫けばいい。

「万鈴を傷つけることは、俺が許さない」

「笑わせるなよ、クソガキが。許さなきゃどうするんだ? 手前みてぇなガキ一匹に何が出来るってんだ?」

「確かに、俺はただの学生で、大きなことを成せるような才能もなければ、立派な人間でもない。でも、そんな俺でも、お前みたいな時代遅れの落伍者をぶちのめすくらいのことはできるよ」

 ユウタは、口元に挑発的な笑みを浮かべ、言う。

 すると、ダイスケもそれに乗っかるように言葉をつなげる。

「あ、ずるい。僕だって悪者退治やりたかったのに」

「悪いな、ダイスケ。早い者勝ちだ。ここは、俺に譲ってもらうよ」

 クマ男は、自身を間に挟んで前後で言葉を交わしているユウタとダイスケの顔を順に見て、ガリガリと頭を掻きむしる。

 そして、喉が張り裂けそうなほどに声を荒げて叫んだ。

「ああぁぁぁぁぁぁ!! ああああぁぁぁぁぁぁ!! クソがクソがクソが!! こんなガキにまで馬鹿にされるのかよ!!」

 クマ男が地団太(じだんだ)を踏むと、ホテルが揺れそうな勢いで軋んだ音が響いた。

「ああ、クソ!! クソ!! クソ!! むしゃくしゃする!!」

 叫ぶや否や、クマ男がダイスケに向かって突進していく。

 巨体に似合わず、驚異的な瞬発力で一気に加速してあっという間にダイスケの眼前へと迫る。

 そして、もう一息で手が触れるというところで――、

「うわ、危ない」

 ダイスケは突進するクマ男の頭上を飛び越え、クマ男の背中を踏みつけるようにして身をかわす。

 思わぬ方向からのカウンターに体勢を崩したクマ男に、追い打ちをかけるように健太郎少年が尻に蹴り入れる。

 突進の勢いを残したまま足が追い付かなくなったクマ男は、バランスを崩しながら部屋の隅に積み上げられていたテーブルの山に頭を突っ込んだ。

 しかし、すぐさま身体を引き起こして向き直る。

「ちょこまかとネズミみたいに動き回るクソガキどもがぁ!!」

「うそ、全然効いてない」

「当たり前です。ウェイトが違いすぎます」

「ねえ、今ならお兄さん側のドアからみんなで逃げ出せるんじゃない?」

 健太郎少年が、ユウタの背後に目をやって、言う。

 確かに、今であれば出口を塞いでいたクマ男は後方に立ち位置を変えている。

 ――だけど。

 万鈴が、泣きそうな顔で首を振る。

「だめ。五十鈴さんたちを置いて行けない」

 ユウタもそれに同調するように頷く。

 五十鈴と閑野は、まだ意識を取り戻していない。

「彼女たちも、一緒に連れていく必要があるのですか?」

 エリカが尋ねると、ダイスケは万鈴を一瞥してから、こくりと頷いた。

「だったら、やっぱりあいつをどうにかしてやっつけるしかないね。彼女たちを背負って出て行くのを大人しく見逃してもらえるとは思えない。エリサ、何かいい方法ないかな?」

「さっきも言いましたが、私の手には負えません」

「困ったね。あれ、本当に僕たちだけでなんとかなるのかな」

「いや、なんとかなるアテはある……」

 弱々しい声が足元から聞こえた。

 先ほどまで倒れこんでいたヨーイチが、上半身だけ起こして言う。口元には拭い取られた血の跡が生々しく残っていた。酷い怪我を負っているようだ。

「ヨーイチ、大丈夫か?」

「おう、クソボケドアホのユウタくんやないか。無事で何よりやで。ワシは顎がガタガタで正直いま喋っとるだけでもキツいんやがのう」

「ごめん、皮肉も罵倒もあとでまとめて聞く。それより、なんとかなるアテって?」

「もうちょい、時間稼げれば、なんとかなる、と思うんや。――たぶん」

「時間? どういうことだ?」

「まあ、時限性の爆弾を仕込んどいたみたいなもんやと思てくれたらええ」

「……よくわかんないけれど、時間を稼げばいいんだな」

 ヨーイチは、ああ、と頷く。

 それだったら……。

 ユウタの頭には、一つの案が閃いていた。

 それはイチがバチかの賭けになる。もし失敗すれば、ただでは済まないだろう。

(――だけど)

 どのみち、いま自分ができることはこれくらいしかないのだ。

 ユウタは、大きく息を吸い込み、クマ男に向かって叫ぶ。

「おい、()()()()!!」

 身体に引っかかっていたテーブルを放り投げていたクマ男が、ピクリと肩を震わせる。

 一瞬、寒気のするような殺気が(ほとばし)ったのを感じた。

 獲物を絶対に逃がさぬよう、その姿形を脳に刻み込むように、ゆっくりとクマ男の血走った目がユウタに向けられる。

 ユウタは思わず声が震えそうになるのを、おなかに力を入れてごまかして、叫ぶ。

「出来損ないのサルは猿回しすらまともにできないのか? 俺が躾けてやるからこっち来いよ」

「んんんなあぁぁぁぁめっだらねぇぞおっらぁ!!」

 睾丸を失った者への劣等感の刺激の仕方は、誰よりも知っている。

 意味を成さない雄叫びとともに、クマ男がユウタに向かって突進する。

 ユウタには、ダイスケのように器用に頭の上を飛び越えるだけの身体能力はない。

 だから真正面からクマ男と対峙するしかない。

 それは、非力なユウタにとって、非常に分の悪い勝負だ。体重差も考慮すれば無残に跳ね飛ばされるだけで、勝ち負けにすらならないだろう。

 ただし――。

 猛烈な速度で眼前に迫ったクマ男が、身体をねじり、攻撃の体勢に入る。

 ――身体の()()が狙われるかが分かりきっていれば、話は別だ。

 ユウタの股間にクマ男の右手が触れようとした直前、とっさに左手で局部を守る。そこ備え付けられていたVMDがクマ男の指をはじいた。

 耳障りな鈍い音が鳴る。

 目論見通り身体をつかまれることは防げた。だが、衝撃はすさまじいものがあり、ユウタはかち上げられるように身体ごと弾き飛ばされ、たたらを踏みながら後ろに下がる。

 クマ男は荒い呼吸で肩を上下させながら、ユウタを睨みつける。

 流石、NGPお手製のデバイス。想像以上の頑丈さに思わず感心する。

 ユウタは、呼吸が浅くならないよう意図的にゆっくりと息を吸いながら、クマ男を見る。

 先ほどユウタの股間へと伸びたクマ男の右腕。その指が、あらぬ方向に曲がっていた。

「こンの、クソガキがぁ――!!」

 唇を震えさせながら吠える。

 鼻息を荒く吐きながら、言うことを聞かなくなった右手の指を左手で無理やり畳み、ぼろきれでぐるぐる巻きにして拳を固める。

 見ているだけで悲鳴を上げたくなる所作だが、クマ男は興奮によるアドレナリンで感覚がマヒしているようで、まったく怯む様子はないようだ。

「それ、痛くないの?」

「痛ぇに決まってんだろ。おかげで余計に腹が立って仕方がねえ」

 口の端から泡を飛ばしながら、クマ男は言う。

 だが、カウンターはしっかり効いていたようで、思惑通り、先ほどのように勢いに任せて突進してくるようなことはなくなった。

 クマ男は、たとえ誰が相手であろうと組み伏せてしまえば体格差でどうとでもなるという確信があるのだろう。じわじわと間合いを詰めながら、まだ自由な左手で掴みかかろうと腕を伸ばしてくる。

(まいったな。やりすぎたか)

 ユウタは焦りを感じ始めていた。

 先ほどのだまし討ちは、一回きりしか使えないカウンターのようなものだ。冷静になられたら、正面から対峙するには分が悪い。

 痛手を負わせて警戒心を植え付けられたところまでは良かったが、闘争心が挫けなかったのは予定外だった。少し挑発しすぎたようだ。

(だけど……)

 ヨーイチの言う『なんとかなるアテ』というものが何なのかは分からないが、時間を稼げばいいだけであれば、なんとかできるかもしれない。

 クマ男は手負いになった。右手はもうまともに使えないだろう。

 であれば、あとは身体を掴まれないよう左手の動きにだけ注意し、追い詰められないように背後に気を付けながら逃げ続けるだけ。

 伸びてきた左手を何度もひょいひょいと躱しながら、ユウタはクマ男と一定の距離を保つ。指先が届かぬよう近づきすぎず、注意が自分から逸れぬよう離れすぎず――。

 緊張感のある危険な鬼ごっこが、しばらく続いていた。

 運動能力は平均的であるはずのユウタだが、昔から能力の高い弟の相手をしていたおかげだろう、鬼ごっこなどの対人の遊びだけは人一倍に得意だった。

 ユウタは広いラウンジを目いっぱい使って器用に逃げ続けていた。だが、それも数分続くとなると、さすがに軽く息が上がり始めた。

 それはクマ男も同様であった。彼の呼吸にも少しずつ苦しそうなものが混じり、肩が上下し始めていた。動きも鈍くなっている。

 だからといって、警戒心を緩めたつもりはなかった。

 ただ、破れかぶれだった作戦が思いのほかうまくいってしまった達成感と、なんとか逃げ切れそうだと考えてしまった期待感とが、ずっと緊張の糸を張っていたユウタの心にほんの小さな隙を作ったのかもしれない。

 何度目かの、襟首へと掴みかかってきた左手を、身体を逸らしてへ避けたユウタに向かって、クマ男が無茶苦茶な体重移動で体をねじって燕返しのように追撃を打ってきた。

「なっ!?」

 意表を突かれる形ではあったが、伸びきった腕を身体ごと無理やりねじって逆手に繰り出してきたところで勢いはない。避けることは容易だろう。

 勢いなく迫ってくる左腕に注視し、さらに一歩だけ後ろに下がる。

 予想通り、クマ男の左腕はユウタを捕えることができず空を切った。

 その直後。

 ユウタの鼻先に、真っすぐに、ぼろ切れを纏った右手の拳が飛び込んできた。

 顔面に、感じたことのない衝撃が走った。

 首が後ろに引っ張られるように、身体が吹っ飛ぶ。

 鼻から火のついた花火をねじ込まれたような熱が脳天にかけて迸り、瞳の奥でいくつも星が散った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ