EPI.34 蛇腹に潜む獣
その中は、今にも崩れ落ちそうだった建物の外観からは想像できぬほどしっかりと整備された空間だった。
おそらくは台所であろうその部屋は、イモ類やタマネギなどの長期保存に向いた野菜が丁寧に新聞紙に包まれ仕分けされており、調理器具や大型のシンクも清潔できれいに整頓されていた。
途端に、他人の生活空間に潜入しているのだという実感が湧き、五十鈴はゆっくりと唾を飲み込んだ。
幸い、まだ緋梅会のメンバーとは出くわしていない。だが、自分はいま間違いなく敵の腹の中に入り込んでいる。
気が張り詰めないはずもなく、先ほどから嫌な汗が止まらない。
「卸業者用の勝手口が開いていたのは幸いでしたね」
普段とあまり変わらない様子の閑野が、小声で言う。
「そうね」
「とりあえず、このフロアから調べて回りますか?」
「んにゃ。親分の部屋ってのは、たいてい一番奥や。やったら、上やろ。ユウタも間違いなくそこにおる」
「どうして言い切れるの?」
「そういうもんやからや」
「なんだか、君が言うと妙な説得力があるんだよね。五十鈴さん、どうしますか?」
後ろ向きになりたがる心に鞭を打ち、絞り出すように五十鈴は言う。
「……上に向かいましょう」
「わかりました」
観音開きの防火扉を肩で押し開け、閑野が顔だけ出して様子をうかがう。
「どう?」
「右手に大きな部屋。おそらく食堂ですね。正面を真っすぐ行くとロビー、途中の左手に階段があります」
「人は?」
「食堂に人の気配があります。ロビーのほうは遠くてわかりませんでしたが無人ということはないでしょう。十中八九『受付』がいるでしょうね」
「ほな、帰り道もここ通ったほうがよさそうやな」
「そうね」
「階段は?」
「近くまで行ってみないことには何とも」
「虎穴に入らずんば、ね」
閑野はこくりと頷く。
「……行きましょう」
四人は息を殺して階段へと足を進める。
移動中、右手の部屋からひどく咳き込んでいる女性と、おそらく看病していると思われる女性の気配が聞こえてくる。
壁が薄いのか、あるいは壁のどこかが崩れているのか、音の通りが良い。もし、向こうにいるのが勘のいい人物だったら、こちらの気配にも気づかれてしまうかもしれない。
五十鈴は心臓が高鳴っているのが自覚できた。
左手の階段へと曲がり、一段ずつゆっくりと足を進める。
「何階まで昇るの?」
「一番上までや。外から見た限りやと、六階建てっぽかったから、六階までやな」
「そう」
遠い、と五十鈴は思う。建物に足を踏み入れてから、すでにそこそこの道のりを進んできている。だが、それでも道は半ば。
最後尾をついてきている東雲万鈴に気を配る。幸い、今のところ潜入に感づかれてはいないようだが、芳野優太と合流して、そして帰り道までも同じような幸運が続くとは思えなかった。
「少し、先を急ぎましょう」
「いえ、ダメです」
閑野が、階上を睨みつけたまま小声で言う。
二階フロアへ到着し三階へと昇りかけたところで、上から誰かの足音が聞こえた。
五十鈴の鼓動が、大きく跳ねた。
「さくら、患者の様子はどう?」
閑野はとっさに階段を引き返そうとしたが、下のほうからそれに答えるように、ドアを開く音が聞こえた。
「喉が火傷を負っちゃったみたいで、その、呼吸がとても辛そうです。あと、耳が聞こえなくなっちゃってるみたいでパニックを起こしちゃっていました。今はどうにか落ち着いてもらいましたけど、精神的にかなりまいっているみたいです」
「目は無事?」
「はい、目は見えているみたいです」
「了解、いま紙とペンを持っていくわ」
上から降りてきていた足音が止まり、少しずつ遠ざかっていく。
階下も、少なくとも今すぐに昇ってくる様子はない。
五十鈴は、ゆっくりと息を吐く。
とりあえず一難は去ってくれたが、状況は悪い。このままだと先ほどの人物はすぐにまた階段を降りてくるだろう。
「ねえ、このフロアマップ見るとこっちの奥にも上につながる階段がありそうだよ」
エレベータ横にいた東雲が、言う。
閑野が確認に向かい、埃をかぶっていたパネルを袖で拭った。
「なるほど。確かに」
五十鈴も確認に向かおうとしたところで、再び上から足音が近づいてくる気配があった。
「時間がありません。向こうの部屋へ向かいますのでついてきてください。慌てず、静かに、急いで」
先を行く閑野の後を追い、四人はなだれ込むように大扉の部屋へと入った。
息を殺して、扉の向こうの様子をうかがう。
ちょうどさっきまでいたエレベータのあたりで合流しているようだった。話の内容から察するに、幸い五十鈴らの潜入に気づいている様子はなさそうだ。
だが、長居すればするだけリスクは高くなる。そもそも芳野優太の安全を考えるとこんなところでのんびりもしていられない。
先を急ごうと顔を上げて、上のフロアへつながる道、――先ほどのフロアマップに記されていたもう一つの階段を探す。
「なあ、ここ何の部屋なんや?」
「たぶん、ラウンジね」
「ラウンジ? なんや、聞いたことあるような言葉な気はするが、いまいちピンとこんなあ」
「飲食や会話を楽しみながらくつろげる大きなロビーみたいなものよ。ここはお酒も提供していたみたいね」
向かって左手側の壁にはバーカウンターが設置されていた。逆側、――カウンターから背中を向ける方向は一面ガラス張りで、外の様子を大パノラマで一望できる。
ホテルが営業していたころはさぞ賑わっていたことだろう。
だが、遠の昔に廃業した今となっては利用する者はどこにもおらず、テーブルも椅子もほとんどが片付けられており、部屋の隅にまとめて積み上げられていた。
「――――!!」
もぞりと。
その一角。ソファをまとめていた山で大きなクッションが、動いた。
異常に気付いた閑野がスタンガンを構える。
途端に高まる緊張感に、五十鈴はつばを飲み込み、遅れてスタンガンを向ける。
クッション、ではない。
腹。人の腹だ。
それはゆったりとした動作で起き上がり、見る見るうちに天井に届きそうなほどに大きくなる。
「…………なんだあ、てめぇら」
緩慢とした、冬眠明けのクマのようにのろのろとした動きで手に持っていた酒瓶を一度口に付け、そいつは五十鈴らを見下ろした。
男性。それも、飛び切りに大柄な。
「……ワシ、自分よりデカイ人間見るん初めてかもしれん」
「ねえ、あれって前にミカンちゃんが言ってたヤバいやつじゃない?」
少女の予想は、おそらく正しい。
五十鈴は唇を噛む。
最も警戒すべきであった脅威が、目の前にいる。
ミカンちゃんに言われたことを思い出すまでもない。
リスクが大きすぎる。撤退が正解だ。
――だが。
「閑野、見える? アイツの奥」
男性の後ろ、崩れたドアの向こうに上階へとつながる階段がある。
「はい。フロアマップのレイアウトとも一致します。あそこまで行ければ、最上階までは一直線ですね」
すでに、ずいぶんと腹の奥まで忍び込んでしまっている。ここまでくれば、もはや時間をかければかけるほど、リスクは増すばかりだ。
一刻を争う現状、その階段へと続く道はたった一つの正解のルートと思えた。
リスクはある。だが、選択肢はほかにない。
「あいつ、無力化できる?」
「身体は大きいですが、スタンガンが刺さればサイズは関係ありません。ただ、逆に言えばそこが失敗したら、この体格差だと勝ち目はありませんね」
「なら、行きましょう」
「スタンガンは単発式です。リスクは低くないですよ?」
「女は、度胸よ」
相手が単体であれば、チャンスはある。
閑野は一度こくりと首肯して、トリガーに指をかける。
そして、五十鈴はクマのような大男に向かって、声に威厳を込めて言う。
「緋梅会の構成員ですね?」
「なんだぁ、おまえら? 新入りってワケでもねぇみてえだが」
「答えなさい」
「バカかてめぇ。聞いてるのは俺だ。答えられないってことは敵ってことでいいんだよなぁ?」
野性的な威圧感。
言葉の内容自体はただ乱暴なだけだが、声が圧倒的に異質だった。
根本的に価値観が違う。
おそらくコミュニケーションを、脅迫や威圧の手段としか使ってこなかったのだろう。
一方的に要求を伝えるだけの声。こちらの言うことには一切聞く耳を持っていない。
つまりは、交渉の余地も、説得の余地もない。
「めんどくせぇけど、とりあえず、ぶちのめしてから考えりゃいいか」
独り言のように言うと、大男は傍らの木製の丸テーブルを肩に担ぐ。
そして、身を屈め身体の大半を隠すようにして突進してきた。巨体にもかかわらず猪のような素早さだ。
「ちょっ、まっ」
「スタンガンに貫通能力はありません!! テーブルは避けて狙ってください!!」
「どうやって!!」
「なんでもいいので当ててください!! どこでもいいです!! 腕でも、足でも、どこでもいいんでスタンガンを刺せれば動きは止められます!!」
みるみる近づいてくる巨体に戦き五十鈴が慌てて引き金を引くと、風を切るような音とともに軽い反動が腕に伝わる。
しかし、スタンガンから伸びた電線は無情にも丸テーブルの端に突き刺さっていた。
「横に飛んで!!」
閑野の叫び声に反応し、五十鈴らは一斉に横に飛び退る。
まずい、と直感的に五十鈴は思う。
小村と東雲の二人と分断されてしまっていた。
転がりながら体勢を立て直し顔を上げると、クマ男と小村が、丸テーブルをはさんで押し合いの状態になっている。
「こいつ、なんちゅうバカ力や……!!」
東雲を背中に守る形でクマ男の突進を何とか食い止めてはいるが、じりじりと押し負けており壁際まで追い詰められていた。
そのまま壁に押し付けられるかと思われたが、次の瞬間、不意にクマ男がテーブルを引くように身体を翻した。
虚を突かれる形になった小村は、虚空を掻くように前のめりに倒れこむ。
「やばッ――」」
その顎をクマ男のつま先が蹴り上げた。
おぞましい衝撃音が響く。
小村が、言葉にならない悲鳴を上げながら、地面に倒れ込む。
口元からは、まるで穴の開いたバケツのように止めどなく鮮血が零れ落ち、床に血の跡を描いた。
クマ男は小村を一瞥し、その後ろ、おびえるように後ずさる東雲に腕を伸ばす。その手が、少女の顔に触れようとしたところで――。
風を切るような音が、五十鈴の隣から響いた。
「……あぁん?」
クマ男が自分の脇腹に目をやる。二本の細い線。閑野が手にしたスタンガンから伸びた電極が、深々と突き刺さっていた。
どさりと、巨体が物言わず倒れこむ。
「……ふぅ」
閑野が、大きく息を吐いた。
「お嬢ちゃんは、――大丈夫だな。金髪少年は無事か?」
言いながら、銃を手に持ったまま小村のもとへ駆け寄る。
そして、ゆっくりと彼を抱き起す。
口の端から血の塊が流れ落ちた。
顎に受けたダメージは深刻そうではあるが、それ以外には大きな問題はない。口の中で内頬を噛み切ってしまっているようだったが、少なくとも命に関わるようなことはないだろう。
閑野が介抱しようと血を拭い取っていると、小村が血まみれになった口を動かした。しかし、口元がぷるぷると震えるだけで、なかなか言葉が出てこない。
「喋るな。命にかかわるようなことはないが、決して軽いけ怪我じゃない」
閑野の言葉に、小村は激しく首を振る。
そして、クマ男を指さし、絞り出すような声で言う。
「腹は……、あかん……、足……、足を……、狙って……、撃て……」
そして、震える手で、足元に取り落していたスタンガンへ手を伸ばそうとした。
「――ッ!! 閑野、よけろ!!」
五十鈴の声にとっさに振り向いた閑野だったが、状況を認識する前に、クマ男のつま先が腹部にめり込んだ。
決して小柄な体格ではない閑野の身体が宙に浮かび、人形のように転がった。
閑野は意識はなんとか保っているようだったが、腹部を抑えてうずくまったまま動けなくなり、空気を求めるように口を必死に動かす。
そんな彼女の様子を見て、クマ男つまらなそうに鼻を鳴らした。
そして、緩慢な動きで閑野へと近づくと、まるで虫でも踏みつぶすように、頭へ踵を落とす。
咄嗟に横に転がり難を逃れた閑野であったが、逃れようと足掻くその裾を、クマ男はあっさりと捕まえる。
呼吸もままならず苦悶の表情が浮かべていた閑野であったが、瞬間的に体を翻しクマ男の手を振りほどくと、勢いをそのままにクマ男の膝へ自身の身体をぶつけた。
美しさすら感じるほどに鮮やかなタックルであった。――が、クマ男の身体はピクリとも動かなかった。
「くっ……!!」
閑野は目に涙を浮かべながらクマ男を睨みつけ、今度は身体を巻き付けるようにその左足に取りつき押し倒そうとする。が、それでも、クマ男は倒れない。
そして、クマ男はまるで足元の猫でも拾い上げるように閑野の首根っこを掴み上げると、そのまま勢いよく床へ叩きつけた。
閑野は、それきり動かなくなる。
「……どうして」
五十鈴は困惑していた。
スタンガンの電極は間違いなくクマ男の腹に刺さっていたはずだ。たとえ規格外の巨躯が相手でも、電気ショックが効かないなんてことはありえないはずだった。
クマ男は、小村の腕からスタンガンをはぎ取りそれを投げ捨てると、シャツの裏に手を突っ込み何かを取り出す。
ばさりと床に投げ捨てられたそれは、どこにでも売っているような雑誌だった。焦げたように開いた小さな穴が、二つ並んでいる。
「あっちのチビは、――まあ、どうでもいいか。んじゃ、あとはお前だけだな」
五十鈴は、スタンガンから伸びきった電極を引き抜き、それを投げ捨てる。
替えのカートリッジは持っているが、リロードする暇が与えられるとは思えない。
電極は飛ばせなくなったが、スタンガンの機能が失われたわけではない。相手の身体に直接電極を押し当ててトリガーを引けば、一時的に身動きを取れなくするくらいはできるだろう。
「動くな」
「ザマぁねえなあ。四人がかりでこのザマってのは、やっぱ女ってのは役に立たねえ生き物だな。はは」
「動くな!! 緋梅会には政府の職員を拉致しNGPを妨害した疑いがある!! 大人しく調査に協力しなければ生存戦略特措法に基づき拘束する!!」
「んなもん知るかよ。なんたら法とか。ここではクソの役にも立たねぇよ」
クマ男は一切ためらうことなく五十鈴のもとへ歩み寄ると、石ころでも蹴るように五十鈴の手からスタンガンを払い飛ばし、五十鈴へと腕を伸ばす。
そして、喉を鷲掴むようにして宙づりに持ち上げた。
「ぐっ」
五十鈴は手足をじたばたとさせて抵抗するが、クマ男は一切意に介する様子はない。
むしろ、虫を捕まえた子どものように、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべる。、
「惨めだなぁ。本当、惨めな生き物だよなぁ、女ってのは。はは、笑ってしまいたくなるくらいの劣等種だな」
「――かはっ」
五十鈴の気道が、力任せに締め付けられる。
「なんで、てめぇらみたいな劣等種がのさばって、俺がこんな惨めな思いしなきゃいけねぇんだろうなあ!!」
極端な女性嫌悪。
男性として身体の一部が欠けてしまったことに対する劣等感か、あるいは女性中心になった社会環境への不満か。どちらにしろ、自身の抱える鬱憤を、無関係の他人に八つ当たりをしているだけだ。
あまりに自分勝手な理屈に、虫唾が走る。
「仲間がみんなやられて一人になって、チャカも失って、それでもまだ逃げずに歯向かってくるなんてよぉ。おまえ、役立たずなだけじゃなくて頭のほうも相当に残念なことになっていそうだなあ。これから自分がどんな目に遭うのか想像も出来ねえのか? ひゃはは」
「……馬鹿は、おまえだ」
「あぁン?」
「子を、見捨てて、逃げる、大人が、どこにいる……!!」
「はっ、クソくだらねえ」
クマ男の腕が、五十鈴の喉を締めあげる。骨が、軋むような音を立てる。
さらに気道を圧迫され、いよいよ声を上げることができない。
いや、声だけでなく呼吸そのものを封じられた。足掻くように手足を動かすが苦痛から解放されることはなく、口の端から泡がこぼれるだけだった。
「――――ッ!! ――――ッッッ!!!!」
自重で頸動脈も圧迫されているため、次第に視界が狭窄していくのが自覚できた。
このまま、では――。
「五十鈴さんを放せ!! この化け物!!」
視界はほとんど見えない。聴覚も、まるで海の底にいるかのように音が濁って聞こえる。
ただ、声でわかる。
東雲が、クマ男にスタンガンを向けていた。
いつの間にか、小村の手からこぼれていたものを拾っていたようだ。
「あぁ?」
ギラついた瞳が、獣の殺意が、東雲に向けられた。
クマ男は五十鈴を乱暴に放り投げると、一息に距離を詰め、その手を東雲へと伸ばした。
おねがい、誰か。
誰か、彼女を、――助けて。
意識が闇に沈んでいく最後の瞬間、五十鈴は祈ることしかできず、慙愧の涙をこぼした。




