EPI.33 脱出
「あら、本当に逃げ出さずに待っていてくれたのね。少し意外だわ」
シャワー室から出た珠洲は、バスタオルを頭にかけたまま全裸姿で戻ってきた。
身体から零れ落ちた水が、上等そうな絨毯の上で珠となって柘榴石のように煌めいた。
「もちろんですよ。こんなきれいなお姉さんと一緒に楽しめるチャンスを逃すなんて、もったいなくてできるはずないですから」
「お口が上手なのね」
「舌の扱いには自信がありますから」
少年は、少年らしからぬ余裕を含んだ笑みを浮かべ、言う。
そして、ベッドで隣に腰掛けた珠洲に覆いかぶさるよう押し倒して、頬の痣をそっと撫でる。
「くすぐったいわ」
「痛くないですか?」
「ええ、平気よ。なんだか雰囲気変わった? ベッドの上では性格が変わるタイプかしら?」
「よく言われます」
「楽しみだわ」
少女のような顔で笑みを浮かべ、珠洲は少年の首に腕を絡めながら口づけをした。
ダイスケが珠洲と対峙しているころ、ユウタは天井一枚をはさんだすぐ頭上で、エリサと真田少年にホテルの間取りを説明していた。
記憶力には自信があった。そもそも、ユウタ自身も目的が達成されればさっさと逃げ出す前提で珠洲に同行してきたため、ある程度、最適な脱出ルートは思い描けている。
「六階から三階フロアまでは同じ構造だから、イレギュラーでもない限り一息に階段を降りたほうが近い。フロアの通路からも死角になっているから、よほど運が悪くない限り人目にもつかないはず。ただ、一つ下の五階フロアにいる女性については要注意。たぶん、抜け目ないタイプの人だから」
「どうしてフロアの構造を知っているのですか? ここに来たのは当然初めてでしょう?」
「珠洲さんに連れられている途中でフロアマップを見かけたから、覚えておいた」
「なるほど」
エリサは小さく頷き、流石ですね、と誰にも聞こえないような小さな声で、言う。
「ただ、そのまま一階に向かうとロビーに出ちゃうから、玄関ホールで絶対に誰かに見つかっちゃう。だから、ここから先は運頼みになるけれど、二階フロアにある大広間を通って反対側の階段から一階フロアへ行くルートしかない」
「そこから一階フロア出口までの道は?」
「そっちは従業員用区画っぽくてフロアマップには載っていなかったから詳しいことは分からない。でも、裏口とか、従業員用の通用口みたいなものが絶対にあるはず」
「従業員用区画の構造なんてどこも同じようなものでしょうから大まかなアタリは付けられますが、その辺は出たとこ勝負になりそうですね。鍵がかかっていないことを祈りましょう」
「――ってことで、これがおおまかな想定脱出ルートなんだけど、どうかな?」
「うん。僕はこれでいいと思う。エリサもいいよね?」
「はい。私も、ユウタさんのルートで良いと思います」
「じゃあ、あとはあいつが戻ってくるまで待つか」
話がひと段落し、喉に若干の渇きを覚えた。
先ほどのダイスケの言葉を思い出し、もともとは彼のために準備されていたと思われる緑茶を一口貰う。
味はほとんど分からなかったが、知らぬうちに身体が渇きを覚えていたのだろう。喉が潤ったことで、少しだけ、緊張感がほぐれた気がした。
「お待たせ」
気がつけばステンレス製のマグカップいっぱいに注がれていたお茶の大半を飲み干したころに、ダイスケが屋上の縁からひょっこりと顔を出した。
「終わった?」
健太郎少年が聞くと、ダイスケはフェンスを乗り越えながら、うん、と頷いた。
「問題なく。ただ、なんというか、さすがのパワフルさだった。正直、少し圧倒されそうになったよ」
「彼女はどうなったんだ?」
「どうもなっていないよ。今はベッドでぐっすり休んでる。ちょっとイタズラでベッドの支柱と手錠でつないじゃったけど」
「手錠?」
「僕が準備してたわけじゃないよ。彼女の趣味じゃないかな。なんか、ベッドのそばに落ちてたから、折角だし、つい」
「ついって……」
「それじゃあ、あまりゆっくりしている時間もないしさっさと脱出しようか。段取りは決まった?」
「うん、だいたいは」
「先頭は私が進みます。ユウタさんも私の後についてきてください」
そう言って、エリサはフェンスの根元にハーネスを括り付ける。
「とりあえず、先ほどの部屋まで戻ります。ハーネスはユウタさんが使ってください。一人で降りられますか?」
屋上の縁から顔を出し、見下ろす。
地面までは遥かに遠く目がくらみそうになるが、一番近い窓まではほんの数メートルほどだ。
「これくらいならたぶん」
ユウタが言うと、エリサは無言で頷く。
そして、エリサの後を追う形で、ハーネスを手繰るようにホテルの壁を降りていく。ぎこちないながらも、なんとか珠洲の部屋の窓へ足をかける。
足音に注意しながらゆっくりと部屋の中へ入ると、エリサが腰をかがめ、顔の前で人差し指を立てていた。
意図を理解し、ユウタも無言で頷く。
珠洲は、裸のままベッドの上ですやすやと気持ちよさそうに眠っていた。ユウタらの気配に全く気付く様子はない。相当深く寝入っているようだった。
ほどなく、ダイスケと真田少年も窓から入ってきた。
(これ、お前の仕業ってことでいいんだよな?)
満ち足りたような顔で眠っている珠洲を見ながら、ユウタはダイスケに問いかける。
(もちろん)
(……我が弟ながら、とんでもないスケコマシだな)
ユウタが呆れ顔でそう言うと、ダイスケが不思議そうな顔をした。その疑問を代弁するように健太郎少年が、ユウタに聞く。
(スケコマシって何?)
(えーっと、使う場所や時代によって捉え方が変わる言葉だろうけど、今この瞬間に限っては、最高にクールな男って意味かな)
(面白い言葉だね。気に入った)
ユウタらの冗談を片耳で聴きながら、エリサは先行して音もなくドアを開けていた。
(とりあえず、外には誰もいないようです)
(あ、ちょっと待ってて)
(……言うまでもないことですけれど、今は一刻を争う状態です。余計なことをしている時間はありませんよ?)
珍しく、少しムッとするエリサに小言を言われながら、ユウタは珠洲の眠るベッドへと歩いていく。
そして、その傍らに置かれていたサイドテーブルの引き出しを下から順に開けていき、一番上の段を開けたところで目的のものを見つけてそれをポケットへとしまい込んだ。
(お待たせ)
(なに? いまの?)
(俺がここへやってきた目的。今となっては状況が変わりすぎて、これが意味を成すのかも分からないけれど、折角だからね)
(もういいですか? ここから先は何が起こるかわかりません。しっかりついてきてくださいね)
言うや否や、返事も待たずにエリサは階段へと向かって進みだした。




