EPI.32 冴えないやり方の果てに
「落ち着いて。大きな声を上げないで」
ユウタの口を手のひらでふさいでいた人物が、小さな声で、噛んで含めるようにゆっくりと言う。
ユウタはその人物の目を見ながら、こくりと首を縦に動かした。
窓の外、予想外すぎる場所で不意に目が合ったため面食らったが、その人物はユウタにとって見覚えのある顔だった。
「身体ごと引き上げますので、私の腰あたりにしがみついてください。できますか?」
空から上下さかさまに宙づりになったまま、あくまで落ち着き払った声で彼女、――エリサは言った。
ユウタは窓べりに足をかけ、言われた通りに彼女の腰に手を回す。腰とお尻の中間あたりに触れると、細いながらも引き締まった筋肉の感触があった。
余計なことを考えていると、エリサがユウタの尻を衣服ごと思い切り引っ張り上げた。
身体がふわりと持ち上がり、足が窓べりから離れる。
瞬間的にとてつもない不安感が押し寄せるが、身体を密着させ引き寄せる彼女の力強さに、すぐに落ち着いた。
「ゆっくりと引き上げてください」
ユウタの股の下から、空に向かってエリサが言う。
それに応える返事はなかったが、ほどなくユウタの身体ごとエリサの身体が空へと向かって昇って行った。
逆光ではっきりと見えないが、屋上に誰かいて、その人物が彼女の身体に結ばれているハーネスを引っ張っているようだった。
さび付いた鉄のフェンスに手が届くと、最後はエリサに腰を押されるように乗り越えて、屋上に足を付ける。
ユウタが深呼吸して鼓動を落ち着かせている間に、エリサは器用に身をひるがえして屋上へ降り、身に着けていたハーネスを取り外していた。
先ほどまで輪郭しか見えなかったその人物が、ユウタに語りかける。
「やあ、三日ぶりくらいかな」
「……なんでやねん」
思わず関西弁になる。ユウタの胸中は、もはや原初の宇宙よりも混沌としていた。
不安。
憤激。
驚愕。
困惑。
そして、安堵。
感情をコントロールしている器官は機能を失い、もはや笑うしかないと判断したようだ。
ごちゃごちゃになっていた頭も、匙を投げるようにすべて根っこから投げ捨ててしまったらしく、おかげでいつも以上に思考がクリアになっていた。
「俺は、お前がここに連れて来られないようにするために、色々と手を打っていたはずなんだがな」
「はは、あるある。人生って往々にしてそういうものだよね。人間万事塞翁が馬? いや、この場合は骨折り損のくたびれ儲けかな?」
「13歳が人生を説くな」
ユウタの乾いた笑い声につられるように、彼、――ダイスケは、はにかむ様に笑った。
「聞きたいことは山ほどあるんだが、まずは根本的なところから確認していこうか。何で、お前たちがこんなところにいるんだ?」
屋上には中型サイズのテントが据え付けられており、傍らに置かれたローテーブルには、ついさきほどまでのんびりとアウトドアキャンプを楽しんでいましたと言わんばかりに三人分のカップが湯気を立ち昇らせていた。
「きっかけは彼女から、――エリサさんから聞いた話だよ。兄ちゃんが、僕の変装をしてるのを見かけたって」
ダイスケが言うと、エリサがぺこりと頭を下げる。
「覚えていますか? 漁り火祭りの日に少しだけお話しました」
もちろん、覚えている。ずいぶん昔のことのような気もするが、なんせまだ昨日のことだ。
「最初はなんでそんなことしているんだろうって不思議だったんだけど、同じころに少し怖い人たちの動きが活発になってきているって話も聞いてピンときた。兄ちゃんのことだから、またやっかい事に首を突っ込んでいるんだろうなって」
やや気に障る言い方ではあるが、言っていることは間違っていないため言い返せない。
「もともとは別の場所にお世話になって潜伏していたんだけどね。だけど、怖い人たちの捜索が活発になってきたこととか、政府の人たちを遠ざけられるメリットとか、あと、万が一兄ちゃんが下手こいたときもすぐにフォローできるようにとか、色々考えた結果、潜伏場所をこっちに変えようってことで昨晩引っ越してきたんだ」
「色々考えた結果が、自分のことを探し回っているヤクザ連中の本拠地に潜伏とか、お前、頭沸騰してるのか」
「案外バレないもんだよ。灯台下暗し、――いや、逆かな。灯台屋根の上暗し」
その諺に出てくる灯台は海辺に立ってる灯台じゃないから本来屋根はないのだが、もはや突っ込む気にもなれないため捨て置くことにする。
「そもそも、どうやってこんなところ忍び込んだんだ」
「あっと驚くような冴えた種やら仕掛けやらがあったら恰好がつくのかもしれないけれど、残念ながらそんなものはなくて、ただの力技。夜中にこっそりと窓のヘリを辿って壁を上っただけだよ」
「そんな馬鹿な」
「僕、運動は得意だし体力にも自信があるから。昔と比べると背も伸びたしね」
そういえば、小学校で会った時も一体どうやってあんな場所へ入ったのだろうと思っていたが、ダイスケの言う通り自力でこのホテルの壁をよじ登れる能力があるのであれば、取っ掛かりの多い学校に侵入するなど、普通に玄関をくぐり階段を上ることとさして変わらぬ難易度なのかもしれない。
気持ちよく腑に落とすにはあまりにも消化不良だが、話している内容は理解できたためユウタはとりあえず納得することにする。
となると次の疑問は――。
「エリサさんは、ダイスケとどういう関係なんですか?」
ユウタがエリサへ問いかけると、彼女はふるふると首を横に振った。
「私は、ダイスケさんとは直接的な関係はありません」
「うん。彼女と関係があるのは、こっち」
と言って、ダイスケは傍らに立っていたもう一人の少年へ話を振る。
丘南小学校で、一度だけ会っている。ダイスケのNGPでのルームメイトであり、ともに脱走したもう一人のファウンダー。
促され、どうも、と言って彼は目深にかぶっていたフードを下ろす。
――ああ、なるほど。
こちらは、素直に納得できた。
同時に、小学校で彼に、また、海でエリサに会った時に覚えた違和感の正体も判明した。
二人、目の前に並んで立つとよくわかる。
違和感の正体は既視感。
男女の違いや髪色の違いはあるが、一目瞭然だ。
彼女ら、エリサと健太郎少年は、血のつながった姉弟だ。
「あれ、でもエリサさんは両親とも外国の人だよね? 真田君は名前から察するに日本人の家系のようだけど」
「いわゆる、腹違いというやつです。健太郎は、母が日本人ですので」
「なるほど」
どうやらやや複雑な家庭の事情がありそうだが、当人はあまり気にしている様子はなさそうだ。
「そして、ダイスケの言っていた協力者っていうのは、つまりエリサさんだったわけだ」
「はい。より正確な表現をするなら、私と、私の祖母ですね」
エリサは抑揚のない声で答える。
「じゃあ、これが最後の確認。これからどうする?」
「もちろん、さっさと逃げるよ。自然いっぱいで開放的な気分になれるいい場所だったけれど、下の人が兄ちゃんの脱走に気づけば、あっというまに大騒ぎになるだろうからね。であれば、こんなところにいても百害あって一利なし。長居は無用だ」
「それには俺も賛成だ。で、どうやって逃げる?」
「それが問題なんだよねえ」
「は?」
想定外に歯切れの悪い返答だった。
こんなところで呑気にキャンプを楽しんでいたのだから、てっきり脱出の手段もバッチリ準備されているものだと思い込んでいたユウタは困惑する。
「帰りは、お兄さんも一緒になるってことを失念していたんだ」
ごまかすように笑ってばかりのダイスケに代わり、健太郎少年が答える。
「僕らだけだったら、ビルの壁をそのまま戻ればいいだけだったんだけれど」
「つかぬことを聞くけど、兄ちゃん、ボルダリングとか得意?」
「やったこともない」
「じゃ、やっぱりホテルの中、――敵の本拠地のど真ん中を突っ切って帰るしかないね。はは、これは困った」
全く困った風でなく、ダイスケは言う。
「さっきみたいに、ハーネスを使って下まで降りられないのか?」
「あれ、ケーブルの長さが5メートルしかないから、残り20メートルくらい自然落下になっちゃうけれど、大丈夫?」
「たぶん、だいじょばない」
「それじゃあ、やっぱり、やれるだけのことを頑張ってやるしかないね。兄ちゃん服脱いで」
「なんでだよ」
藪から棒にぶっ困れた弟の言葉に思わずツッコミを入れるユウタであったが、どうも冗談ではなかったらしい。
「そろそろでしょ。下の人のシャワーが終わるの。とりあえず僕が代わりにさっきの部屋に戻るよ」
「それこそ意味ないだろ。わざわざ大将が影武者の代わりに相手の手の内に戻ってどうするんだよ。このままこっそり抜け出す方法を探したほうがいい」
「それも悪くないかもだけれど、今のこの状況って考えようによっては、実はかなりチャンスだと思うから」
「どういうことだ?」
「あの人には少し休んでいてもらったほうが都合がいいでしょ?」
ダイスケの言葉の真意を測りかね、ユウタは首を傾げる。
「えーっと、細かい説明は難しいけど、とにかく任せてよ。高い塀を乗り越えたり、ホテルの壁をよじ登ったりってのも得意だけど、女性を相手にしたコミュニケーションにはそれ以上に自信があるんだ」
「それって……」
「一時間くらいしたら戻るから、それまでここでゆっくりしてて。そこに淹れてあるお茶、まだ口を付けてないから、僕の分飲んでていいよ」
「大丈夫なのか? その、色々と」
「ダイスケなら心配いらないよ」
ユウタが手渡した甚平に袖を通し、支度を進めるダイスケの代わりに健太郎少年が言う。
「女の人が相手なら、学生だろうが、主婦だろうが、大統領だろうが、あるいはマフィアのボスだろうが、あいつにとっては大差ない。任せておけばいいよ。それよりも、僕らはあいつが一仕事終わるまで、じっくりとここから脱出する算段でも立てて居よう」
ホンマか? と、とてもではないが信じられないという目でダイスケを見ると、彼はまるでサマになっていないキメ顔でサムズアップをするのだった。
どうしよう、とユウタは思う。本当に不安しかない。




