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EPI.23 星のきれいな夜

 先を歩く南井が躊躇(ためら)いなく跨いでいった虎縞模様のロープには、赤い文字で『立ち入り禁止』と書かれた札が括り付けられていた。

 だが、彼女は全く意に介することなく、薄汚れたコンクリートの階段を上へ上へと進んで行く。

 彼女に続いてそのラインを超えてしまうことに抵抗感がないわけではなかったが、あそこまで堂々とした姿を見せられると、なぜか妙な安心感を抱いてしまう。

 もちろん、そんなものはただの錯覚で、たぶん、大人に見つかれば普通に大目玉を喰らうことになるのだろうが。

 埃が吹き溜まっている階段を上りきり、突き当りにある小さなドアにたどり着く。ここに来るまで、結構な段数を上ってきたため少し息が上がっていた。

 南井はドアに手をかけ、一本立てた人差し指を口元に添え、無言でユウタの目を見つめる。ユウタもこくりと無言で頷く。

 そして、肩を押し付けるようにゆっくりと扉を開け、外の様子を確認する。

 首だけ出してキョロキョロと見回してからユウタのほうを振り返り、「おっけー」といたずらっぽく笑った。

 南井の後を追い、ユウタも外に出た。

 空が広い。視界を遮る建造物はすべて眼下だ。

「ちょっと意外でしょ。この辺りで一番背の高い建物って実はこのホテルなんだよね」

「立ち入り禁止って書いてあったけど、勝手に入っちゃって大丈夫かな」

「それは、ルール的なお話? それとも安全的なお話?」

「せめてどちらか一つは保証があってくれると嬉しいんだけど」

「ん-、片方は確定でアウトだけど、もう片方はギリ勝ちの目があるかなってくらい、かな」

 それはどっちがどっち?、と聞くのが怖くなり、ユウタは話題を変える。

「海はあっちの方角かな」

「うん。ね、いいでしょここ。海岸からはちょっと遠いけれど、視界が高いから海が遠くまでよく見えるんだ」

「よく知ってたね。こんなところ」

「えへへ、地元民の特権」

 Vサインを頬にあて、南井がドヤ顔で言う。

 ユウタは、コンクリートの縁に腕を乗せ、海を見る。

 海岸線に沿って立ち並ぶ屋台の明かりが、オレンジ色の稜線のように宵闇の中で輝いている。

 その少し奥、夜の闇を煮詰めて雫にしたような真っ黒な海の上、ゆらゆらと揺らめく明かりがある。

 大きな漁火が、等間隔でいくつも並んでいる。

 中でもメインステージに置かれたひときわ大きな漁火は、ときおりチカチカと瞬き、まるで宇宙に輝く赤いポラリスのようだった。

 生ぬるい海風に乗って磯の香りが鼻腔を刺激する。

 ――夏の匂い。

 もうすぐお盆だ。

 これだけわかりやすい目印があれば、海の底で眠ることになった故人も、きっと道に迷うことはないだろう。

「きれいだね」

「そうだね」

 ざらざらとしたコンクリートの手すりに身体を預け、二人で、ただぼんやりとその様子を見ていた。

「私ね、意外に思われるかもだけど、昔からこのお祭り好きなんだー。ゆらゆらと揺れる火を見ていると、なんだか落ち着くんだよね。ほら、静かな夜に焚き木が燃えているのを見ていると、心が整っていく感じしない?」

「意外ではないと思うよ。俺も、お祭りの人混みは苦手だけど、その感覚はなんとなく分かる」

 ユウタは本心からそう思っていたため、そのままを口にする。

 南井は子どもっぽく笑う。

「ねえ、ユウタくんはさ、恋愛感情って分かる?」

 思いがけない質問にユウタは一瞬あっけにとられる。

 なかなか答えられないユウタを、南井は根気よく待っている。

 しばらく考え込んでから、ユウタはふるふると首を振ると、南井は「そう」と言って海のほうへ視線を戻す。

「私たちって、本当不幸な世代だよね」

「ヨーイチだったら、マンガが教えてくれるって言うんだろうけどね」

「確かに、あのマンガ馬鹿なら言い出しそうね。そりゃあね、私も知識や理屈としては当然知っているのよ。愛だの、恋だの。そういう、グワッと湧き上がってくるみたいな気持ちがこの世界にはあるんだ、って。アニメやマンガなんかのフィクションだったら、それが恋愛って言うものなんだなって客観的に飲み込める。だけど、自分自身の実体験では、それはまるで得体のしれない感覚の話にしか思えない」

 知識としてはあるが、実感を伴わない感情。

「例えば、三十歳を越えたら急に体力が落ちるとか、脂の多い物が食べられなくなるとかっていうのを大人の人が話しているのに似ているかもね」

 ユウタが言うと、南井はおなかを抱えて笑い出す。

「恋愛感情をそんな風に例える人初めて見た」

「……確かに恋愛モノと脂モノとじゃ全然毛色が違うものだし、例え方としては不適切だったかも」

 南井はひとしきり笑って、目元に浮かんだ涙をぬぐう。

 そして、呟くように、

「私たち、まだまだ子どもだからね。経験値が足りなすぎる」

 と言った。

 海の上に浮かぶ明かりが、ひときわ大きな炎のうねりとなって空へと延びた。まるで、星空に手を伸ばそうとしているようだ。

 祭りもそろそろ佳境に入っている頃のようだ。きっと海辺では観覧客たちの歓声でさぞ盛り上がっていることだろう。

 だが、ここからだと祭りの声は聞こえない。聞こえるのは、時折吹く風が空気を切る音だけだ。

 目に映る光景は派手だが、それに反してあまりにも静かすぎるため、心がちぐはぐになりどこか不思議な感情が湧きだしてくるような気がした。

 不意に、隣で一緒に海を眺めていた南井が、ユウタに身体を寄せてきた。

「ねえ、ちょっと試してみない?」

「何を?」

 南井はユウタの手を取る。指と指の間に自分指を絡めるように合わせてくる。

 ――私たちがまだ知らない、大人の世界のこと。

 芝居っぽい仕草でそう言って、南井はゆっくりと体重をユウタに預けていく。

 彼女を支えきれず、ユウタはそのまま床に押し倒される形になった。

 馬乗りになった南井が、身体ごと密着させるように顔を寄せる。

 ユウタの上から降りるつもりはないようだ。主導権は彼女に握られている。

「ね、だから、いいよね」

 南井は囁くように言う。熱い吐息が、頬にかかる。

 ユウタは何も考えない。考えることを止めた。

 肯定も否定もせずにいると、南井はユウタの頭を両手で抱え、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 さらりと顔にかかる彼女の髪の後ろに星空が見えて、ああ、星がきれいだなあ、とぼんやりと思った。

 唇に柔らかく湿った感触があった。

 しばらく、そのままどちらも動かない。そして数秒後、そっと離れる。

 舌の先に違和感を覚えた。ハッカの風味だ。

 南井は、ユウタに馬乗りになったまま真っすぐに目を見据え、紅潮した顔でいたずらっぽく笑う。そして、舌の上に乗るキャンディを見せた。

 胸の上でまさぐられるような感触を覚えた。簡素に結ばれただけの甚平の帯がするすると解かれていく。

 ユウタの脳裏には、数年前の記憶が浮かんでいた。

 あの時の彼女らも、今の南井と全く同じだった。一切悪意のない顔で、ユウタの身体を一心不乱にまさぐっていた。

 困惑こそするが、行為それ自体は大きな苦痛を伴うものではない。殊更に不快というわけではない。

 ユウタは彼女が満足するまでじっと待っていればよいだけだ。いずれ、興味が尽き、気持ちが冷めるその時まで。

 ただ、それだけ。

 ただ、それだけのはず、だった。

「えっ、うそ」

 南井が突然、狼狽(うろた)えたような声を上げた。

 そして、慌ててユウタの上から離れ、自分の服装を整える。

 一体何が起こったのだろうかとユウタが身体を起こすと、自分のほほに流れ落ちるものがあることに気が付いた。

「ご、ごめん。本当にごめん。ちょっと、調子に乗ってた」

 指先で触れて確認する。今度はユウタが困惑する番だった。

「…………えっ?」

「どこか苦しかった? それとも本当はすごく嫌だった? ごめんね、本当に」

 ――涙?

 なぜ、自分は泣いているのだろう。

 困惑するユウタの心とは裏腹に、それは瞳の奥から止めどなく溢れ続けてきた。

「違うよ。苦しかったわけでも、痛いわけでもない」

 コンクリートの床の上に足を崩して座り込みながら、ユウタは言う。嘘ではない。

「だったら、どうして――」

 南井が問いかけるが、その答えはユウタには答えられない。理由が、分からない。

 先ほど言った通り、苦しかったわけでも、痛かったわけでもない。

 似たような経験はすでにあるのだ。その時と同じだ。ただ、身体を弛緩させ、彼女が満足するのを待つだけの簡単な作業。そんなものが苦痛であるはずがない。

「最近の子どもは、そんな簡単なことが分からないのか?」

 ユウタと南井は、びくりと身体を震わせ同時に声のほうを振り返る。

 突然現れた第三の声。その主を探すと、ここに来る時に押し開けたドアの前に二人の女性が立っていた。

 おそらく言葉の主は背が高いほうの女性。目が合うと、彼女は今更ながら申し訳程度にコンコンと扉を叩いた。

 見覚えのある顔だった。それも、ごく最近。

 かんきつ亭で、お互いに挨拶は済ませている。

 呆れたような顔をしている背の高い女性が閑野で、その後ろで両手で目を覆っている全体的に丸い印象の女性が鹿島。

「若人たち、ここは立ち入り禁止だよ」

 叱るというより不服そうな声で閑野が言う。

 子守りは業務範囲外だ、という本音が言外ににじみ出るような声だ。

「えっ、何でこんなところに二人がいるの?」

「それが仕事だから」

 今更何を言っているんだ、とため息交じりに閑野が答える。

「マジで? いつから見られていたの?」

「最初から。当たり前でしょ」

「気配が無さ過ぎて怖いんですけど」

「それも、仕事だから」

「それより、ねえ、閑野さんですよね。ユウタくん大丈夫かな」

 閑野が後ろに目配せをすると、鹿島は視線だけで意図を理解し何も言わずにユウタの元へと歩いていく。

 小柄な鹿島がユウタの前にしゃがみ込み、脈や呼吸、視線の動きを観察する。

「身体的には異常なところはなさそうですよ」

「ってことらしいわよ」

 鹿島の言葉に、南井はほっと胸を撫でおろす。

「私、どこかで間違えちゃったのかなあ」

「大間違いでしょ。この結果を見れば、どう考えても」

「やっぱり? あああぁ……」

 南井は両手で顔を覆いながら、長く息を吐く。

 肩を落とし落ち込む南井をよそに、閑野はジャンパーのポケットから何やら取り出す。そして、南井やユウタのほうを見て、彼女らから二歩ほど距離を取った。

「ねえ」

 興味本位、というよりは職務質問のような口調で、閑野は南井に話しかける。

「なんですか?」

「あなた、彼のこと好きなの?」

 口にくわえた紙煙草に火を付けながら、閑野は南井に問いかける。

「ユウタくんのこと? うん、好きだよ。すごくいい人だと思う」

「その『好き』は、家族やお友達に対する好きと違うもの?」

「それを確認しようとして、この有様です」

 あれこれと理屈をつけて考えても、物の数秒で頭がパンクしてしまう。だったら、実際にやってみたほうがずっと確実だしずっと早い。というのが、南井の生まれ持っての性格であり、培ってきた経験則でもあった。

「失敗しちゃった原因だけどね。あなたのやり方もまあ、問題はあるけれど、もっと大きな問題はどちらかというとあなたじゃなくて、たぶん彼のほうにあると思うよ」

「彼って、ユウタくん?」

 急に自分が話題の中心になり、ユウタは閑野を見上げる。

 ユウタの思考は活動が停滞したままだった。

 だが、閑野の言葉を否定出来なかった。

 正確には、閑野の言葉を聞いたその瞬間、出来なくなってしまっていた。

(心配いらないよ)

 いつかの記憶が、脳裏でぼんやりとした輪郭を結んでいた。

 ――――ああ。

 ユウタは気づいてしまう。

 そして、気づきたくなかったなあ、と思う。

 自嘲するような、乾いた笑いがこぼれる。

「何、どうしたの?」

「いや、はは、何でもないよ」

「何でもない、なんてことがないから、そうなってるんでしょ」

「そう、かもね」

「だったら――」

 南井が何かを言いかけたところで、閑野が制する。

 そして、抑揚のない声で、言う。

「自覚できた?」

「…………」

 閑野の言葉は問いかけではない。確認だ。

 ならば、ユウタはただ頷くしかない。

 取り残された南井は一人、首をかしげる。

「なに、ねえねえ、どういうこと?」

「あなたもいずれ分かるわよ」

「なんで今じゃないの? いずれっていつ?」

「さあね。ただ、それが分からないうちは、あなたはこれ以上この子に踏み込むべきじゃない。納得できないかもしれないけれど、今日のところは大人の言うことを大人しく聞いて、部屋に帰ってベッドで休みなさい」

 白い煙を空に噴き出しながら、閑野は言う。

 南井は不満げな顔であったが、負い目を感じているのだろう、大人しく頷く。

 ユウタは、助かったと思った。

 正直、今は頭の中を整理する時間がほしい。

 早く感情の落としどころを見つけないと、今後一睡もできなくなるような気がした。

「君も、今日は疲れただろう。早く寝るといい」

 ユウタの心の中を見透かしたように閑野はそう言って、ポンとユウタの頭を撫でる。

 心を見透かされるというのは、裸を見られるより気恥ずかしいものだな、とユウタは思う。特に、自分でさえ知りえなかったものであれば、尚更だ。

 今は、心の声が、よく聞こえる。

 今までずっと聞こえないふりをしていた、自分の声。


 いやだ、と。


 こんなことはもうたくさんだ、と。


 ファウンダー(だれか)の代わりであることは耐えられないほど悔しい、と。


 ユウタは、その声を受け入れる。

 いつかのように、自問自答で否定と肯定を堂々巡りをする長い夜も、もう二度と訪れることはないだろう。

「閑野さんって大人って感じですよね」

 ユウタが聞くと、閑野は短くなった煙草を手持ちの吸い殻入れにしまい、言う。

「君らよりかは、たぶん大人だよ。タバコ(こんなもの)をうまいと思う程度には」

「歳いくつですか?」

「30」

「閑野さんって、人を好きになったことありますか?」

 ユウタの言葉に、閑野は少し面食らったような顔をする。

 南井と、隣にいた鹿島が興味津々に目を輝かせた。

「あるよ。もう、ずいぶんと昔の話だけれど、私が今の君たちと同じくらいの歳のころには、とても好きだった人がいたよ」

「それで、どうなりました?」

「どうにも。その人は、ほかに好きな人がいたから」

「押し倒してしまおうとか思わなかったんですか?」

 ユウタの後ろから南井がそう言うと、閑野は声をあげて笑った。

「しないよ。そういう時代じゃなかったし。それに、そもそもその人、結婚していたから」

「結婚してたって、それだけで諦めちゃうんですか?」

「そりゃね。既婚者相手じゃいくらなんでも分が悪い」

「でも、好きだったんですよね。その人のこと」

「もちろん。とても好きだったよ」

「最初から諦めてたのに、好きだったってことですか?」

「そうだよ」

 閑野が言うと、南井は不貞腐れたようにほほを膨らませる。

「悔しくなかったんですか? 好きな人に、好きになってもらえないってことに納得できたんですか?」

「昔のことだから当時の気持ちを正確には思い出せないけど、たぶん、私なりに割り切っていたと思うよ。好きになってもらえなくても、仕方のないことだって」

「……そんなの救いがないじゃないですか」

「そんなものだよ。感情ってのは得てして思い通りにならないものだけど、好きって感情は特別に取り扱いが難しいものだから」

「なんか、やだな。恋愛感情って、なんなんだろう」

「さっきも言ったけど、いずれ経験して、いずれ分かることだよ。あまり小難しいことばかり考えてたら夜眠れなくなるから、ほかの大人に見つからないうちにさっさと帰るよ」

 閑野はそう言って、ユウタらを先導するように非常階段へと向かって歩いていく。

 南井は服についた埃を軽く払ってから、ユウタの手を取り引っ張る。

「ユウタくん、ごめんね。今日は無理につき合わせちゃって」

 申し訳なさそうに言う南井に、ユウタは気にしなくていいよと答える。

 だが、頭の中では別のことを考えていた。

 先ほどの南井の言葉。

 ユウタを意識して発したわけではないだろうが、すとんと腑に落ちる言葉があった。

 ああ、そうだ。

 自分でも気づかないうちに自分の感情に蓋をしていたのは、おそらく、それを本能的に恐れていたからなのだろうとユウタは思った。

 救いのない感情。

 それは、奈落よりも冷たく感じる言葉だった。

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