EPI.19 五十鈴の懸念
眼下に映る水平線を眺めながら、五十鈴は幼いころの父との記憶を思い起こしていた。
優しい人だった。
記憶の中の父はいつも穏やかに笑っており、自分もまた隣で笑っていた。
よく遊んでもらい、色々なことをを教えてもらった。
五十鈴が粗相をしても決して声を荒げたりせず、優しく叱り、必ず最後には笑って許してくれる人だった。
対照的に、母は冷たい性格だった。
普段からほとんど笑うこともなく、また、褒められた記憶もまったくなかった。
いや、過去に一度だけ褒められたことがあったか。
18歳のころ、母と同じ大学に合格したことを報告したときだけ、彼女は一言、『がんばったのね』と言ってくれた。
その言葉に、五十鈴はひどくがっかりしたことを覚えている。
大人になった今思い返せば、本質的に、彼女は他人にあまり興味を持たないタイプなのではないかと思う。
自らの娘である五十鈴を含め、すべての他人と等しく距離を取るような冷たい雰囲気を持った人だった。
自然、五十鈴は父に懐いた。
幼いころから、あの優しい父がなぜあのような人好きのしない母と一緒になったのか、不思議でならなかった。
好奇心に負けて、母のどういうところが好きなのか、父に尋ねたことがあった。
そのときは、『杏子はまだ小さいから、ちゃんと理解してもらうには少し難しいかもしれないね』とはぐらかされた。
「……33歳になっても、全然わかんないわよ」
広大な太平洋の海の底にまでに聞こえるように、わざと少し大きめの声で呟く。
五十鈴は仙台の出身だ。父の亡骸も、場所は違えど同じ海に沈んでいる。
父が亡くなって、14年。
今も、母との距離感は変わっていない。悪くなったわけではないが、良くなったわけでもない。必要なことは話をするが、必要のないことは一切話さない。
大好きだった父の好きだった人。理解したいという気持ちは未だ諦めていないが、糸口は全く見つからない。
自分も人の子の親になれば、彼女のことを、――母の気持ちというものを理解することができるようになるのだろうか。
五十鈴は下腹部に手をやる。
自分にも、子を宿す機能は備わっている。
だが――。
今年で、33歳。
人も有機物である以上、身体は老いる。
生物学的な出産の限界は、いずれやってくる。そして、五十鈴にとってそれはもう遠くない。
自虐的な笑みがこぼれたところで頭を振って、仕事モードへ切り替える。
同僚を探そうと首を回すと、ビーチへつながる階段のそば、一枚岩で作られた大きな慰霊碑の前に彼女の姿を見つけた。神妙な顔で手を合わせている。
律儀な部下に感心し、五十鈴も隣に立ち手を合わせる。
十数秒ほど祈りを捧げ、顔を上げる。
「赤木さんはお父さんの記憶ってあるの?」
「ありますよ。声はもううろ覚えですけれどね」
五十鈴は後部座席に積んでいたバッグから双眼鏡を取り出し赤木へ手渡す。
「お父さんのこと、好きだった?」
「普通、ですかね。私、お母さんっ子だったんで」
海辺沿いの道路に車を停め、二人並んで堤防越しに浜辺を監視する。
隣から、何やら軽快な鼻歌が聞こえてきた。
赤木がなにやら浮かれている様子である理由は察しが付く。
半分は、行き詰りそうになっていた仕事に光明が見えたことによる開放感だろうが、もう半分は、おおよそ、スパイ映画か何かを体験している気分にでもなっているのだろう。
のんきな部下とは裏腹に、五十鈴は重い気分がさらに沈んでいくようだった。
――本当に、これは正しい判断だったのだろうか。
五十鈴の胸には、今でもまだ葛藤がある。
芳野優太から提案された申し出は、彼女らにとって非常に魅力的なものだった。
『俺が囮になるから協力してほしい』
ファウンダーと瓜二つの彼が囮役を買って出てくれれば、高確率で緋梅会の連中を釣り上げることが期待できる。顔写真まで出回っている現状を鑑みればなおさらだ。
突貫で書類を整え、彼を正式に厚労省のデバイステストメンバーに組み込んだ。
すなわち、彼に手を出そうとした時点で生存戦略特措法を適用できる。一人でも釣れれば、あとは芋づる式だ。こじつけでいくらでも縄にかけられる。
職権乱用は百も承知の上だが、すでに芳野大輔の顔まで知られてしまっている以上、一刻の猶予もない。NGPの責任者の一人として、なりふりに構っている場合ではなくなっている。
だが、それでも、まだ十五歳の少年を危険な状況に巻き込むことに躊躇いがあった。
NGPを、ファウンダーを、そしてこの国の未来を守るためだったら、どれほど倫理観にそぐわない判断でも下せると思っていた。自分はそう割り切れる人間だと思っていた。
(まったく、我ながら女々しいったらありゃしない)
まるで子どもだ、と五十鈴は思う。
起こるはずのない奇跡に縋り、魔法使いのお婆さんが助けに来てくれるを待つだけの少女のようだ、と。シンデレラになりそこなった者に待つ運命は破滅だけだというのに。
覚悟を決めろ、と、何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、もう一度繰り返す。
「先輩、優太くんに近づく女性がいます」
言われ、五十鈴も双眼鏡を覗く。
「……不審者って感じではなさそうね。どちらにも警戒感がないわ」
「知り合い、ですかね」
「というよりは、雰囲気的には保護者に近いわね」
ならば、彼のことをよく知る人物である可能性はある。
ほどなくして、その人物は芳野優太のもとを離れ浜辺へ向かって歩いて行った。
ちょうどいい。
「あなたはここで引き続き優太くんの監視をお願い。もし怪しい人物を見つけても、まず、私と閑野へ報告。絶対に早まった真似はしないでね」
「ちょ、先輩どこ行くんすか」
「さっき、優太くんとコンタクトした女性に話を聞いてくる」
「なんでですか? 芳野くんの知り合いでしたら緋梅会とは無関係なんでしょ?」
「だからこそ、よ。シロが確定しているなら話ができるでしょ。もしかしたら、彼の人物的な背景情報を詳しく聞けるかもしれない」
五十鈴がそう言うと、赤木は少しムッとしたような口調で言う。
「先輩、優太くんのこと疑っているんですか?」
赤木が気分を害するのも当然だろう。
身を挺して弟を守ろうとしている少年の裏を取ろうというのだ。正義感の強い彼女が反発する気持ちも分かる。
だが、疑っているという表現は誤謬がある。
「ちょっと、気になることがあったから話をしてみたいだけよ」
五十鈴とて、彼に何かしらの悪意があるとは思っていない。どこからどう見てもただの中学生である彼に、芳野大輔の身柄を匿えるような伝手や大胆さがあるとも思わない。
だが、だからこそ、彼は異質だと五十鈴は思う。
――俺が囮になるから。
いくら家族のためとはいえ、自らを囮にするという判断ができる人間は、そういない。
ましてや、彼はまだ15歳の少年だ。
端的に言えば、彼は、どこかがおかしい。
これは、ただのお節介、あるいは野次馬根性かもしれない。
だが、一人の大人として放っておいてはいけない問題であるような気がした。
理屈ではなく、本能的な衝動に近い。
今の世の中、常識は非常に不安定なもので、薄氷のような理性の上に危ういバランスで成り立っている。
厚労省で働き、ともにNGPを運営する立場である赤木ですら、時折無意識に倫理観がおかしくなっている、と五十鈴は思うことがある。
五十鈴自身、さきほど頭の中で自問した通り、場合によっては常識とはかけ離れた判断をすることもあるだろう。
だが――。
子どもを守るのは、大人の役割だ。
自分のやっていることが矛盾だらけだという自覚はある。それでも、その価値観だけは絶対不変であるべきだ。
五十鈴は堤防を乗り越えると、急ぎ足で砂浜を駆けていく。記憶を頼りに彼女の向かった道を辿り、立ち並ぶ屋台で大量の焼きそばを購入してるところでどうにかその人物に追いつくことができた。
息を整えながら、彼女の支払いが追えるのを待ち、五十鈴は声をかけた。
「すみません。突然で恐縮ですが少しお話よろしいでしょうか」
「ん? あなたは?」
普通ならいくらか警戒もするものだろうが、その女性は警戒心の全くないフラットな表情で応じた。
「厚労省職員の五十鈴という者です」
五十鈴はバッグから身分証明書を取り出し提示する。
「官僚さんが、こんなところでなにしているのさ」
身分証の写真と五十鈴の顔とを交互に見比べながら、女性は言う。
「職務です。詳細はお話しできません」
「はあ、お疲れ様です。で、何の用ですか?」
「先ほど、ビーチで少年と話をしていましたよね。彼との関係は?」
女性は眉根を寄せる。
「芳野くん? 彼の担任教師よ。なに、厚労省の人が芳野君関連の話ってことは、ニュージェネがらみのお話?」
「この場で詳細な内容はお話しできません」
「ってことは、ニュージェネがらみなのね。プログラム自体には私も肯定的だから、当然何かの役に立てるなら貢献はしたいけれど、……あの子に悪い話だったら断らせてもらうよ」
「ただ、お話を伺いたいだけです。それ以上のことをするつもりはありません」
「そう、ならいいけど。ただ、今はダメ。ちょっとだけ待っててもらえる? これ、冷めちゃう前に生徒たちに渡しておきたいから」
「もちろん、構いません。もし、今の時間帯では都合が悪いようでしたら、夕方や夜でも私は問題ありません」
「そうね、だったら、夜のほうがありがたいかな。お祭りのメインイベントが終わってからになるから、少し遅い時間帯になるけれど」
五十鈴は周囲を見回しめぼしい場所を探す。
そして、夜でもやっていそうな食事処にあたりを付け、「今晩、あちらのお店で待っています。都合がつき次第で構いませんので、いらしてください」と名刺を一枚手渡した。




