小四の頃に流行った噂と、それからの今
春も終わり、暖かさが暑さに切り替わるようになった。
運動のたぐいを何もしなくても勝手に汗だくになる時期が近づいてこようとしている。
高校に進学してから、二回目の夏。
嫌だけど進学や就職についてそろそろ本気で考えないといけない頃合いだ。暑くてそんな気になれないけど仕方ない。自分の将来だ。
そんな風に自分を説得するけど嫌なものは嫌なので、ベッドの上でごろごろしながらスマホ片手に将来設計を先延ばしにしてしまう。
それもこれも暑さが悪いんだ。
また今年も、朝から晩まで茹でられてしんどくなるのだろうか。
父さん母さんは「昔はここまでひどくなかったのにね」と、毎年口癖のように言っている。
二人にとっての昔とは何十年も前のことだが、まだ十七の自分にとって昔なんてのは、ついこないだの出来事だ。
昨日の事のように──とまではいかないけど、無理にひねり出すことなどしなくても、わりかし楽に思い出せる。
その中でも鮮明に甦ってくる記憶は、どれも、痛い目にあったり酷い目にあったりしたやつだ。
自転車でスピードを出しすぎてコケて何針も縫ったり、花火大会が豪雨で中止になって家族みんなで濡れネズミになって帰宅したり、徹夜で友達とクソゲーのクリアを目指してたけど操作性があまりにゴミすぎて苛立ちから喧嘩になったり……
悪い出来事のほうが記憶に残るってのは本当なんだな。残るってより脳みそにざっくり刻まれるって感じか。
不思議なもので、当時は辛かったり後悔もしたんだけど、こうやって思い返すとなんだか楽しく思えてくる。
そんな記憶の中で、唯一、楽しさや懐かしさのカケラもない、いまだに「あれは怖かった」という感想しか出てこないものがある。
脳みそどころか魂に焼き付けられたのではないかと思うくらい、忘れようとしても忘れられない恐ろしい出来事だ。
発端は小学四年生の頃になる。
小学校高学年と低学年の中間くらいの時期だな。ギリ高学年か?
それはともかく、当時はわりと本気で怪談とか宇宙人とか謎の生き物とかを信じていた。サンタクロースは流石に信じていなかったが。
クラスの皆も、だいたい俺と似たようなものだったのではないか。
ネットで人気だった『マジで冗談にならない怖い話を集めないか?』なんて、たぶんクラスのほぼ全員が見ていたんじゃないかな。師範シリーズとかコネコバコとか。
夏休み、一家総出で田舎にある親の実家に行ったとき、納屋とか実家の押入れをあさってその手のものがないか調べた奴もいたみたいだ。
その成果については言うまでもないだろう。
そんな、皆がオカルトに夢中になっていた中、『かえれさん』という噂が流行った。
最初はうちのクラスだけの話だったが、次第に隣のクラス、別の学年、しまいには別の小学校や、中学にまで広まったらしい。
ただ、そこが限界だったのか、それ以上広まることもなく、内容が地味なのもあって飽きられたのか、『かえれさん』の噂は風船がしぼむように衰え始めた。
そうして、全国どころか県内制覇もできないまま、話題になることもなくなっていったのである。
その『かえれさん』についてだが、まあ、遅くまで学校にいると現れる、妖怪というか怪人というか、そんな感じのよくわからない何かだ。
「かえれ」「はやくかえれ」「かえれかえれかえれかえれ」と急かして家に帰らせるから、『かえれさん』と呼ばれてるらしい。
……やはり地味な内容だ。
親にこの話をしたら「なんか用務員さんみたいね」って言われたことがある。そんなヤバい人が昔の学校にはいたんだな。
姿だが、ありがちな話だが、直に見たやつは誰もいない。
まあ、それはほとんどの怪談話にあてはまることなんで珍しくはない。
友達の友達の知り合いが見たとかそんな目撃談ばかりだしな。その知り合いこそ実在しない怪人なんじゃないのか?
話を戻す。
その『かえれさん』だが、姿を見たやつがいないと言ったが、実は一人だけいたりする。
俺だ。
──もう夏休みがそろそろ間近になってきた、そんなある日の放課後。
仲のいい友達のAちゃんと(AちゃんではなくBのやつだったかもしれない。どっちでもいいが)俺は、図書室で本を読んでいた。
二人とも海外のラノベに当時ハマッていて、ハリポタや、あと、名前が思い出せないが、主人公が吸血鬼の仲間入りする冒険作品に毎日かじりついていたんだ。
「なあ○○、もー帰るかー?」
「もうちょい」
どちらを読んでいたのか覚えてないが、いいところだったのは覚えてる。
キリのいい場所まで読んでやめようとしたのだが、つい先延ばしにしてしまって、次第にAちゃんがしびれを切らしてしまった。
「俺もう帰るわ」
「待てよぉ」
「知らね」
薄情なことにAちゃんは俺を置いて帰ったのだった。
まあ、薄情ではないんだけど、あの頃の俺はそれを薄情だと認識してしまっていた。下手すると何日も引きずりそうなくらいに。
「ホントに帰るか、普通」
俺はボヤキながら図書室を出た。
結局あいつが帰ってからもしばらく読み続けていたから、誰が見ても俺が悪いのだが、この時の俺にはそんな反省の意思なんか毛頭なかった。
「まだ四時なのに。夕日じゃないし。何なんだあいつ」
止まらないボヤキをこぼしながら、ひと気のない廊下を歩く。
やけに自分の足音が耳障りだった覚えがある。
階段をおり、一階へ。
なんだか体が軽い。体というか背中というか、やけに軽い。普段はもっと重いはずなのに。
「……やば」
ここで俺は教室にランドセルをド忘れしていたことを思い出した。だから荷物がないので軽かったのだ。
「だからいっしょに帰ってくれたらよかったのによー」
Aちゃんがいたら、自分の頭から抜け落ちていてもAちゃんが気づいたはずだ。だからAちゃんが悪い。さっさと帰るからだ。
恐ろしいほどの責任転嫁だったと思う。Aちゃんは何も悪くない。悪いのはダラダラやめ時を見失った俺のほうだ。
愚痴りながら来た道を戻る。
階段を上り、廊下を早歩きで、教室につくと手早くランドセルを背負い、今度こそ帰ろうとした。
「あいつが忘れたら知らん顔してやる。同じ目にあえ」
まだ情けない愚痴をこぼしながら教室を出る。
廊下に何かがいた。
「えっ」
コンビニとかスーパーのビニール袋らしきものを頭にかぶった女の子がいた。
真っ白なワンピースを着ていたから女の子だと思う。そういう格好が好きな男子かもしれないが。
お洒落のつもりなのか、ビニール袋の上から、リボンのついた帽子をかぶっていた。
「かえれ」
カエルとカラスの声を混ぜたような気色悪い声で、その女の子が喋った。
「かえれ。いいからかえれ。はやくかえれ」
まさかと思った。
マジかよと思った。
恐怖よりも驚きで動けなかった。
『かえれさん』って本当にいたのか。いるよ目の前に。幽霊? 人間? うわ本当にかえれかえれ言ってる。喋ってるよ。女子の悪戯? 先生呼ばなきゃ。なんでそんな帰らせたいんだ。そのカッコで帽子いる? 帰らないとどうなるんだ。俺まさか殺されるの? 明日皆に教えてやんないとな。でも殺されるかも。気持ちわりい声だな。同い年? こっち来んな頼むから。
パニックに陥った俺が停止してると、『かえれさん』らしき女の子が、ペタぺタという足音をさせて近づいてきた。
裸足だった。
「かえれ。あかるいうちにかえれ」
まだ距離は離れているけど、手を伸ばしてきた。
その瞬間、なぜかはわからないけど、全身の毛が逆立つような、凄まじい恐怖に襲われた。
あのときの手を思い出すと今でも震えがくる。トラウマになったのか、一時期、女子の手をまともに見れなくなったくらいだ。
「う、うわ、うわあああ!!」
理由のわからない恐怖が一気に押し寄せてきて、それが皮肉なことにパニックを解いてくれた。
自分の悲鳴で固まっていた体がほぐれ、一目散に背を向けて逃げ出した。
幸い、『かえれさん』がいたのが下校するためのルートのほうじゃなくて助かった。あんなのかわして逃げる根性なんてあるわけないからな。
「わー! あああー!」
恐怖をごまかすために叫びながら逃げる。
危険な存在なのかどうかも、追ってきてるかどうかもわからないが、ひたすら本気で走った。
ちょっとでも止まったら首根っこ掴まれるかもと思った。すぐ後ろにまで、うなじのあたりにまで指が届きかけているんじゃないか、そんな恐ろしい想像に突き動かされた。
今思えば、かえれと言ってる奴がそんなことするわけない気もするが、そんな矛盾なんか頭の片隅にすらなかった。
それくらい、あの手は恐ろしかったのだ。
玄関にたどり着いた。
当然、靴を悠長に履き替える余裕なんかあるはずがない。
上履きのまま校庭に飛び出た。
「あっぐ!」
足がもつれて転んだ。
とんでもないしくじりだった。
「うわあ! わああああ! やめろって待てってぇぇぇ!!」
終わった、と思った。
それでも必死に立ち上がった。立たないと大変なことになると、声を張り上げ死に物狂いで地面から起きた。
振り返る。
「あれ?」
──そこには、誰もいなかった。
「……何やってんのお前」
「ひっ!」
後ろからいきなり声をかけられた。
「ひっ、だってよ。情けねーやつだな、○○はよぉ……あれ? お前、何で上履きのままなんだ?」
Cだった。
とにかくがさつで乱暴なお調子者で、クラスの大半から煙たがられていた奴だ。
なんでこの時間まで学校に残っていたのかわからないが、たぶん、また何かトラブル起こして先生に絞られていたんだろう。前にもそんなことあったらしいからな。
「で、でた」
「でた?」
嫌な奴とはいえ一応顔見知りに出会えて安心しきったのか、俺は洗いざらいCに話した。図書室のこと、ランドセルを忘れたこと、そしてあの『かえれさん』らしき人物のことを。
「おもしれぇじゃん」
その手の話を全く信じないCは、ひとしきり俺の話を聞くと、楽しそうにニヤニヤと笑った。
「可愛いかブスか確かめてやる。お前もこいよ」
「嫌だよ。行くわけないだろ」
「何だとテメー」
肩を掴み、Cが凄んできた。
普段ならこの押しに負けているところだが、事態が事態なので俺も本気で拒絶した。あのヤバい手をもう見たくはない。ここで殴り合いしたほうがずっとましだ。
Cは俺のあまりの抵抗にキレつつも若干引いていたようだ。
俺の肩から手を離し、呆れたような感じで、鼻で笑ってきた。
「ヘッ、ならいいさ。俺一人で見てきてやる。ビビりの○○はそこでグズってな。なんなら帽子でも奪ってきてやっからよ」
そんな言葉を吐き捨てるとCは学校の中に入っていった。
馬鹿じゃないのかと思った。
俺の話をまともに聞いていなかったのか?
……でも、その場にいなかったら、単なる悪戯好きの女の子の悪ふざけと思っても、おかしくはない。
だが、違うんだ。
あの時の、伸ばしてきた手を見た時に味わった恐怖は、悪戯とか演技力とかそんなものでカタがつくようなものじゃない。あれは本当に死ぬほど怖かった。きっとCも漏らすくらいビビるだろう。
そんな恐怖を与えることができる女の子がまともな人間なわけがない。
校内に入るのはためらわれたが、でもCをほっといて帰るのも、なんだか無責任な気もした。やることなすこと腹立たしいあんな奴でも一応クラスメートだ。
そもそも、俺がダラダラと読書しなかったら、こんなことにはならなかったのだから。
一応、上履きだけははき変え、待ってみることにした。ずっと戻ってこなかったら先生や警察に知らせた方がいいと思っていた。
「………………………………えっ」
学校正面の上のほうの壁に設置してある時計が五時半を過ぎた頃、誰かが玄関から出てきた。
金のショートヘア。
白のワンピース。
リボンがついた帽子。
まるでお人形みたいな外国の美少女が、姿を見せた。
その姿は、さっき俺を心底ビビらせた『かえれさん』の姿そのものだった。
「またあった」
美少女はゆっくりとした足取りで俺のほうに、つまり学校の正門のほうへと近づいてきて、こう言った。流暢な日本語だった。
「…………Cは、どうしたの」
震える声で、かろうじてそれだけ言うことができた。
「かえてもらった」
美少女は、抑揚のない口調で淡々と言った。
あの、エコーがかかった音が水中から聞こえてくるような声ではなく、透き通った声だった。
「『わ、わかったよ、かえるから、それでいいだろ! だからそこをどけよ!』といったから、こんどはあのこのばん」
それを聞いて、俺は二重にビビった。
『かえれ』とはそういう意味だったのか、もしかしたら俺がこの子の代わりになっていたのか、という驚き。
そして、最初のほうの声が、Cの声と全くそっくりだったということへの驚き。
「ま、待って」
「なに」
「し、Cは、これからどうなるの」
「しばらくは、きえたまま。でも、そのうち、ときどき、このよにでられる。わたしがそうだったから」
それだけ言うと美少女は去っていった。
その格好に不似合いな、Cのスニーカーをはいて。
その後、Cは、行方不明扱い──にはならなかった。Cなど最初から存在しなかったことになっていた。
Cの家では、あの美少女がCの後釜に収まっていた。それを不思議がる者は、俺の他に誰一人としていない。
そんな恐ろしい交代劇があった後、二階の男子トイレを使っていると、
「……かえれ、かえれ……」
掠れ声が、どこからともなく聞こえてきた。なんとなく、Cの声に似ていた…………いや、そうに違いない。
きっと、あいつはここで代わったのだ。
まだこの世に出てこれないが、声だけはわずかに届いているのだろう。
「かえれ……かえれよぉ…………かえれったらよぉ……」
恨みや悲しみがつまった、Cの掠れ声。
お前のせいだ。
お前があんなことを教えるから。
どうして俺を心配して追いかけてこなかった。どうして誰にも言わない。どうして見捨てた。どうして。どうして。どうして。
「かえれ」としか言えない声に、そんな俺へのどろどろとした怨念が込められているのがわかった。
俺は小便を素早く済ませると、手を洗いながら、もうここのトイレは使わないことに決めた。
今はこれだけだったけど、次は何があるかわからない。確かめたくもない。
俺はトイレを後にした。
「どうした、○○」
下校途中。
暑さが強まってきた帰り道。
ぶっきらぼうな女の声が、俺を現実に引っ張り戻した。
「ああ。ちょっとな。昔の事を思い出してたんだ」
「そうか。でも、おもいでにひたるような、としでもないだろう?」
肩まで金髪を伸ばした美少女──かえれさんは、無表情なまま、そんなことを言ってきた。
俺にはそうにしか見えないが、周りには表情豊かな可愛い子に見えるらしい。なにせ学園のアイドルなんて呼ばれているくらいだ。
気がつけば、小中高と、こいつと同じところを進学していた。
偶然だと信じたい。まさかこの女怪人にロックオンされてるなどとは思いたくもない。
「なあ」
「ん?」
「──Cは、まだあのままなのかな」
「なんだ、そんなことか。そうだな、あと、さんじゅうねんくらいは、あのままだな」
「そんなに」
「まいにちあそこでなまえでもよんでやれば、すこしははやまるかもしれん。どうする?」
言葉に詰まってしまった。
小学校の男子トイレに毎日忍び込むのは遠慮したい。
もし見つかって捕まったら変態扱い確定だ。後の人生が針のむしろになるのは御免である。
それに、Cへの負い目もあるが、同時にCが戻ってくるのが早まって欲しくない気持ちがある。
もし戻ってきたら、俺か、こいつに仕返しする可能性が高いからだ。どちらの確率が高いかといえば俺のほうじゃないかな。
「ほおっておけ。おまえがきにすることはない」
お前が責任を感じるなと慰めているのではなく、本当にそう思っているんだろうな。
「こっちに、ちょっかいをかけてきたら、またあっちにおくってやる。あんしんしろ」
「そりゃどうも。でも、なんで俺にそこまでしてくれるんだ」
聞くかどうか一瞬迷ったが、やはり聞いてみた。
「きにいったからだ」
やっぱりロックオンされてたのか。
だから、俺をあの時、見逃したのかもな。
「そうか。ま、それはそうと」
話を変えることにした。
あまり親密になると後が怖い。この話はこのくらいで終わらせたかった。
「Bのやつが言ってたんだが、『ライオンおじさん』って、聞いたことあるか? なんでも最近目撃されたそうだが」
かえれさんに俺がそう聞くと、いつもの感じでぶっきらぼうに返してくるかと思ったが、何も言わなかった。
ただ、目の前を指差した。
「あれか?」
背広姿の、頭だけライオンの着ぐるみをかぶった何かが、道路のど真ん中に立っていた。その手にはノコギリが握られている。
頭の着ぐるみも、背広も、ノコギリも、返り血にまみれていた。
それが何の血かは、容易に想像できた。
「らしいな」
かえれさんの問いに、かろうじて一言返した。
背筋が一瞬で冷え込んでいく。
どっからどう見ても危険度が高すぎるビジュアルだ。殺意に溢れている。友好的な感じが一切なく、淡々と追い詰めて淡々と殺しにかかるとしか思えない。
「おい、せなかをみせるなよ。へらされるぞ」
横の美少女めいた何かから、得体のしれない不安しかない助言がきた。
背中を見せたら一体何を減らされるのか。怖くて考えたくない。この怖さに比べたら、将来への悩みなんて薄っぺらい紙切れみたいなものだ。
「まあ、まかせろ」
噂と噂の激突が始まろうとしている。
俺は、また一つ、忘れることのできない恐ろしいエピソードが増えようとしているのを、ただ見ていることしかできなかった──