11◆置き土産
ダウザーの襲撃以上に、アルスには魔族の娘の存在に驚いた。
ただの人間とは明らかに違うけれど、禍々しさよりも美しさを感じた。あんな魔族もいるのかと。
イルムヒルトと呼ばれた彼女は、ダウザーの態度からして高貴な身の上のようだった。彼のような者からも敬われる気品は疑いようもない。
彼女はクラウスを諦めろと言った。その真意はわからないけれど。
相手は魔族なのに、それが優しさであるように受け取れた。
「アルス様も呆けている場合ではありませんよ」
ラザファムに手厳しく言われ、アルスは状況を思い出した。
ダウザーとイルムヒルトはいなくなったけれど、ダウザーはただ退くのでは気が治まらないらしい。魔獣をけしかけて去ったのだ。
黒い羽根が空から降る。烏のような羽根だが、大きさは五倍もあろうか。
この時になって、ラザファムはエンテを下げてイービスを呼んだ。
「精霊イービス、我が呼び声に応えよ」
いつもの鷲の姿のイービスが南の空から現れるが、その頃には魔獣が間近に迫っていた。
大きな黒い翼を持つ狼で、牙の隙間から蛇のように長い舌を垂らしている。羽音にグルグルという唸りが混ざった。
アルスは臆してしまいそうになる自分を叱責し、腰の剣を引き抜いた。ナハティガルのためにもここでは負けられない。
「エクスラー! 動けるかっ?」
声をかけると、老兵は膝に手をやりながら立ち上がった。あの膝には古傷がある。
「はい、もちろんです。姫様はお下がりください」
「今は一人でも戦力が必要だ。私のことは姫ではなく、兵の一人だと思え」
「そんなわけには――」
「私のことはいい。クラウスとラザファムがいてくれる。それより怪我人を護れ」
エクスラーは渋々引き下がり、部下たちに指示を出し始める。戦う余力のある者だけが前に出たが、数にして十五人程度だった。
アルスの前に立つクラウスは深く深呼吸し、剣の柄に手をやった。クラウスの剣はアルスの剣よりも長くて幅のあるブロードソードだ。二年前のものと同じで、背が伸びた分だけ扱いやすくなったのか、物足りないのかどちらだろう。
「剣を振るのは久しぶりか?」
アルスが魔獣から目を放さずに問うと、クラウスは苦笑するように肩を揺らした。
「一人で振っていたけれど、打ち合う相手はいなかったから、腕は鈍っているかもしれないな」
「それはいけない。これからは私が相手になってやる」
こんな時だというのに、口は滑らかに動いた。怖いというよりも、きっと助かると諦めないでいられるからだ。
ダウザーが相手では手も足も出ないけれど、魔獣ならばまったく勝機がないとは言えない。とにかくここを切り抜けることだけを考える。
ラザファムは弩が手元にないらしく、転がっている長弓を拾い上げて引き絞っていた。
砦の兵たちは、これほどまで魔獣に接近したことはなかったのかもしれない。比較的動ける兵は経験が浅い者が多いようで、かなり腰が引けている。
「来る!」
魔獣の数は目視できるもので五体。この先増えないとは言えない。
この兵の数で乗り切るには厳しいが、ここから援軍を求めるのは難しい。
空を飛ぶ魔獣の涎が雨粒のように地面にポタリポタリと落ちた。それを皮切りに、魔獣が宙を蹴って襲ってきた。
真っ先に踏み込んだのはクラウスだった。体が鈍っているということはなかった。むしろ、アルスが知っている頃よりも一撃に重みがある。クラウスの剣が口を開けた魔獣の舌を裂いた。毛が針金のように硬いとわかっているからこそ、まだ歯が立つところを狙っているのだ。
魔獣は怒りの咆哮を上げたが、痛みにのたうち回っている。ラザファムも番えた矢を魔獣の目に向けて放った。当たりはしなかったが、魔獣の気が逸れたところへイービスの鋭い爪が襲いかかる。
「皆の者、臆するな! レムクール王国の兵として姫様をお護りし、戦い抜け!」
エクスラーの声が鼓舞する。
オオッ、と兵たちの声が上がった。士気が高まっていくかに思えたが、やはり魔獣は一筋縄では行かなかった。
どうにか息のつけない混戦を続け、三体は弱体化させることができた。不利と見た三体は北へ逃げ帰り、一体は倒れている。
ただし、あと二体はそれほどのダメージを受けていなかった。だというのに、こちらは疲れきっている。頼みのイービスですら、羽ばたきにいつもの力強さがない。
クラウスも肩で息をしていて、ラザファムは矢が尽きてしまったようだ。あったとしても、長弓は弩よりも膂力がいる。ラザファムは兵士ではないから、あれだけ立て続けに射るほどの訓練は受けていない。まともに肩を上げるのもつらいだろう。
アルスの力ではかすり傷すら負わせられず、ただ動き回って攪乱する程度のことしかできなかった。
これ以上長引くと危ない。
それは誰もがわかっていた。
疲れていたアルスは、それでも動かなくてはと自分を奮い立たせる。自分が休んでいると、他の者が休めない。アルスが魔獣の気を引いて隙を作りたかった。そうしなければ勝機を見出せないと。
けれど――。
「アルス!」
背後から迫ったつもりが、魔獣は振り向くことなく尻尾でアルスの横腹を払ったのだ。脚でもないのに、尻尾ですらかなりの衝撃でアルスは容易く吹き飛んでしまった。剣は床に吹き飛び、そしてアルスの体は胸壁を越えて落ちた。
目を閉じ、アルスは心の中でナハティガルを呼んだけれど、守護精霊のナハティガルは――もういないのだ。