9◆違えた約束
アルスがとっさに鎧窓に近寄りかけると、クラウスに腕をつかんで引き戻された。慌てていたのか手加減がなく、強い力によろけてアルスはクラウスの胸にぶつかった。
「アルス! 窓に近づくな!」
「えっ、あ……」
クラウスの剣幕にアルスの方が驚いてしまった。窓に近寄ったらアルスの命が終わると信じているかのように深刻な顔をしている。
これほど密着していても甘い雰囲気など微塵もない、緊迫した状態だった。
「アルス、ラザファムとエクスラー将軍のところへ行こう」
「う、うん」
廊下へ出ると、兵たちが騒いでいる。本来であれば統率が取れているはずの砦だが、それでも不測の事態に動揺を隠せていないようだった。
アルスとクラウスが将軍の執務室へ向かうと、そちらからラザファムがエンテと共にやってきた。
「アルステーデ姫様、魔族の襲撃です!」
白猫の姿のエンテは、細い尻尾を三倍にも膨らませて叫んだ。その様子を見ただけで、アルスはその魔族がクラウスの心配した通りの〈彼〉であるのだと知った。
ラザファムも青ざめていて、エンテだけでは太刀打ちできないのだと感じている。エンテでなくとも、イービスでもヴィルトでも敵わないのだろう。
「ラザファム、アルスを頼む!」
クラウスはそう言ったかと思うと、アルスたちから離れてそばにあった階段を駆け上った。
「クラウス! 駄目だ!」
アルスが呼び留めても、クラウスは振り返らなかった。彼の背中が遠のいていくから、アルスの心臓が不安でギュッと縮んだ。
こんな夢をこれまでに何度見ただろうかと。
あの魔族がクラウスを迎えに来た。
そうだとするのならば、また連れ去られる。
二年前と同じだ。ナハティガルの助けがなく、アルスは何もできずに盾に取られた。今回もまた同じことが繰り返されるのか。
ナハティガルがここまでしてくれたのに、またクラウスを行かせてしまうのでは不甲斐ない。クラウスが世界のために魔の国を統治するのだと言っても、犠牲にはしたくないと誓ったばかりなのだから。
「アルス様、かなり強力な人型の魔族です。この砦でさえどこまで耐えきれるか……。それでも、あなたにはどんなことをしてでも逃げて頂かなくては」
ラザファムは本気でこれを言っている。けれど、アルスだけ逃げてどうしろというのだ。皆がアルスに生きていてほしいと願うのと同じくらい、アルスも皆に生きていてほしいのに。
「クラウスが、魔族が自分を迎えに来ると言っていたんだ。その魔族は、二年前に私たちの前に現れたのと同じヤツで、きっと誰も敵わないって……。でも、だからってまたクラウスを連れていかれたらどうするんだっ? ナハがあんなに頑張ったのにっ」
叫んでも、今のアルスにできることなどない。
黙ってクラウスを見送ることでしか自分の身は護られないのだとしたら、心を殺すして体を生かすだけのことだ。そんなものは無事とは言わない。
ラザファムばかりでなく、エンテまで苦しげに見えた。
それでも、このまま隠れているだけで終わるのは嫌だ。
「私は、もう一度クラウスを見送るなんてことは絶対に受け入れない」
アルスが背を向けると、ラザファムはアルスの先になって駆け出した。止められるのかと思ったが、そうではなかった。
「あなたがお逃げにならないのでしたら、僕もお供するしかありません」
「ラザファム……っ」
結局のところ、逃れることはできない。これはいつか対峙しなくてはならない相手なのだ。
恐ろしいけれど、この先にクラウスがいるのなら行くしかない。
屋上へ向けて駆け抜けた。砦にいた兵はすでに屋上へ向かい、そしてほとんどの兵が立ってはいなかった。生きているのか死んでいるのかも確かめられなかったが、屋上には弓矢が散乱している。
エクスラーもどこか負傷したのか片膝を突いていた。
そんな中、クラウスはポツリと立っていた。鈍色の空を見上げている。
胸壁に足をかけることなく空に浮かんでいる男は、やはり二年前のあの魔族だった。
長い黒髪、青白い肌に鋭い眼光。二年前と違いがあるとすれば、表情だ。以前は子供を相手に面白がっているようにも見えたが、今は憤怒の形相で砦を見下ろしている。
クラウスがその名を呼んだ。
「ダウザー……」
声が震えている。
ダウザーは怒りを抑えもせずに言い放った。
「お前は約束を違えた」
「それは――っ」
「ならば私も約束を守る道理はない」
それは冷たい眼差しがクラウスを飛び越えてアルスに突き刺さる。
この時、クラウスはハッと背後を振り返った。そこにアルスがいると確かめた途端、彼の表情に絶望が浮かんだ。
けれど、どんな懇願もダウザーは二度と受け入れないであろうことはアルスにもわかった。
声にならないクラウスの絶叫が空に響き渡る。