7◆エクスラー
半日ほどで堅牢な要塞であるシュミッツ砦が見えてきた。
今は良好な関係を保てているレプシウス帝国ではあるが、いつ何時も隙を見せてはならないのが国家というものだ。
女王である姉もレプシウス帝国の皇帝ディートリヒも、顔で笑って腹では探り合いをしていることくらいアルスにもわかっている。
アルスは日中でも薄暗く見える黒壁の砦を荷馬車の荷台から見上げた。
見張り番の兵は速度を上げた荷馬車が近づいてくることにそろそろ気づくだろう。まさかその荷馬車に王妹が乗っているとは思わないだろうけれど。
まず何から説明しようか。かなり難しい。
余計なことは言わないようにとラザファムに注意されるだろう。
アルスは、ここでは王族として振る舞うべきなのだ。このところ自由にしすぎたので、公式の場での堅苦しさを忘れつつあるが、それではいけない。
「砦に着いたら、事情の説明は僕がします」
やはりラザファムがそれを言った。そして、クラウスにも目を向ける。
「クラウス、君の噂は断片的に広まっていて、アルス様との婚約を解消した理由まで正確に知る者の方が少ない。君には好奇の目が向けられるか、絡んでくる者もいるだろう」
クラウスに絡むつもりなら、アルスがやっつけてもいいだろう。婚約者を侮辱するのはアルスを侮辱するのと同じだから。
喧嘩っ早いアルスを気にしているのか、なんとなくクラウスの目が泳いだ。
「今の俺は、もう公爵家の人間とは言えない。どこの誰でもない。それは仕方がないことだが、そういう手合いの相手をするつもりはないから心配するな」
これを言った時のクラウスは落ち着ていた。
どこの誰でもない――。リリエンタール家との繋がりはもうないのだとクラウスは考えている。
実家の後ろ盾はなくとも、クラウスがクラウスであることに変わりはないとアルスは思うけれど。
リリエンタール公は、クラウスが駄目なら弟のダリウスでいいと、アルスの婚約者を挿げ替えようとした。あの時のことは絶対に忘れないし許していない。
「とにかく、アルス様には大人しくしていて頂きたい。それだけです」
ラザファムにひどいことを言われたが、ここにナハティガルがいたら、『まったくだよ』と相槌を打っただろう。
アルスはそれを考えて苦笑した。ナハティガルがいない今は大人しくしていよう、と。
「わかっている」
そうして、馬車は砦の門前へ差しかかり、速度を緩めた。
紺地の制服を着た兵士がわらわらと門前へ集まってくる。獣の魔族が出没したために特に警戒していたのだろう。
馬車が止まる頃にはすっかり囲まれていた。怯えたのは農夫である御者だけだ。
「この砦に何用だ?」
柄頭を地に突き、槍を構えた兵が訊ねてくる。粗末な荷馬車を敵だとは見なしておらず、いきなり攻撃されることはなかった。
そこでラザファムは荷台から降り、馬になっていたエンテに目配せした。その途端にエンテはいつもの猫の姿になり、兵士たちはざわついた。
「僕は精霊術師、ラザファム・クルーガーと申します。火急の用ができ、こちらへ参りました」
皆、レムクール王国の兵士である。精霊がどんなものであるのかまったく知らないということはない。エンテを従えるラザファムを偽物と罵ることはなかった。
「精霊術師様でしたか。火急の用とは……?」
年嵩の兵が気遣い、言葉を選んでいる。ここでラザファムはアルスに向き直った。
「姫様、こちらへ」
「うむ」
アルスは被っていたフードを取り払った。銀髪を服の下から引き抜くと、エンテが姿を変えた時と同じくらいに周囲がざわついた。
クラウスが先に荷台から降り、荷台の留め具を外して囲いを崩す。それからアルスに向けて手を差し伸べたので、アルスはクラウスの手にエスコートされて荷馬車から降りた。荷馬車というのがまたお笑い種なのだが、誰も笑わなかった。
「皆の者、まずは砦の警護という重要な役目を担ってくれていることに礼を言おう。すまぬが、まずは砦の責任者に会って話がしたい。通してくれ」
皆がひれ伏し、ハッと声を揃えて答えた。
アルスはこうして無事に要塞であるシュミッツ砦に辿り着くことができたけれど、隣にナハティガルがいる時ほどの安心感は得られなかった。
ナハティガルはいつも、アルスの心も護ってくれていたから。
砦の責任者は、 ラウレンツ・エクスラー将軍。
戦もなく平和の続くレムクール王国において、どんな武人であろうとも武勲と言えるものはほぼない。あるのは、国内に出没した魔族との戦いのみである。
人型の魔族に遭遇することはそうそうなく、獣や蟲の相手ではあるが、それでも精霊がいないとなると手こずる。民間人にとっては尚のこと。
こうした兵たちの働きも大きいと言える。兵をまとめ、的確に動かせる人材こそが不可欠であった。
エクスラー将軍は五十を少し越えた武人だ。鍛えられた体躯の威圧感とは裏腹に、その目を覗き込むと奥には優しさがある。整えられた頬髭に白いものが見え始めたものの、印象は以前と変わりない。
アルスは懐かしい顔にほっとしてしまった。
「エクスラー! 久しいな」
エクスラーはアルスの前に恭しくひざまずく。
「まさかこのような場所にアルステーデ姫様がお越しとは思いもよりませんでしたが、こうしてお会いできて光栄です」
「立ってくれ。堅苦しいのは抜きにしよう。昔のように叱ってくれていいんだ」
本当に小さかった頃のことだが、アルスが兵士たちの鍛錬場にちょこまかと入り込んでいたら、礼儀正しくだがそれでもぴしゃりと言われた。
ここにいる兵たちは民を護るために鍛錬するのです、王女であるあなたがその妨げとなってはなりません、と。
エクスラーは、苦りきった笑みを浮かべる。
「皆、姫様が来てくださると浮足立ってしまうので、あれは姫様にというよりも兵たちに聞かせていたようなものですが」
「そうだな、私も今となってはそれがわかる」
懐かしく思い出に浸っている時ではないのだが、ほんの少し気が紛れた。
この時エクスラーはアルスの後ろに控えるラザファムと、そしてクラウスに目を留めた。
「……クラウスか?」
「はい。エクスラー将軍はお変わりなく、ご壮健のご様子で何よりです」
クラウスは、まだ正式な騎士として叙勲式を行ってはいなかったが、そうなるべく鍛錬を重ねた従騎士であった。叙勲後は誰よりも昇級は早いだろうとささやかれていたものの、そこへ至る前にあの事件が起こったのだ。
エクスラーはクラウスを指導した師のうちの一人で、特に目をかけていてくれた。だからこそ、クラウスがノルデンへ送られたと知った時も心を痛めてくれていたのは知っている。
今、そのクラウスがアルスたちと行動を共にしている状況をどう受け止めればいいのか困惑しているらしい。
「あの噂は、まさかお前を陥れるためのものだったのか?」
魔に染まったというが、そのような痕跡もないのだ。そう考えるのが自然だろう。
けれど、クラウスは悲しげに否定した。
「いいえ、事実でしょう」
「では――」
その会話をラザファムが遮ったのは、アルスの肩に動揺を見たからだろうか。
「将軍、事情の説明は追々させて頂きます。まず、姫様を休ませて頂けますか?」
エクスラーはハッとして、それからうなずいた。
「姫様を立たせたまま話し込んでしまうとは、気の利かぬ武骨な老兵で申し訳ございません」
「私はそれほど軟弱ではないぞ」
笑って見せるが、心が弱っている時にはいつもほど体が動かないものらしい。特に何もしていないくせに元気だとは言い難かった。
いつもアルスにつき従っているナハティガルの姿が見えないことに、エクスラーもそのうち気づいてしまうだろうから。