5◆可能性
クラウスは、アルスが落ち着くまでそのままでいてくれた。
心に空いた穴は、多分未来永劫塞がることはないけれど、それでもなんとなく笑うことはできた。
「アルス、何か食べられそうか?」
不意にクラウスがそんなことを言う。
「空腹だと力が出ないから。ナハがいないまま魔族に遭遇することも想定するなら、体力は蓄えておかないと」
とても現実的な話である。
アルスとしても、ここで魔族にやられてしまってはナハの想いを無駄にするだけだから、そんなのは嫌だ。
「……食べる」
答えると、クラウスはアルスから体を離した。けれど、どこか名残惜しそうにアルスの頭を撫で、そこから手が下がってきてアルスの涙が跡の残る頬を摩った。
「よかった」
そう言って、ふわりと甘く微笑む。こういうところは変わっていない。
変わったところと言えばどこだろう。大人びて、声も以前よりも低く感じられる。
「クラウス、自分のことを〈俺〉って言うんだな」
前は、ずっと〈僕〉だった。
それを指摘すると、クラウスは苦笑した。
「過去の自分と決別するために変えたんだ。変かな?」
「ううん。似合ってる」
「じゃあ戻さない。もう子供の自分でいていいと思わないから」
そう言って、クラウスはアルスの手を引いて宿の階段を下りた。
小さな宿なので、下のロビーのソファーにラザファムとエンテがいるのがすぐにわかった。
エンテが猫ではなく蛇になってラザファムの腕に巻きついているのは、〈ペット厳禁〉とでも言われたのだろうか。毛が落ちない蛇ならなんとか許してくれると思いたい。
ラザファムは立ち上がり、部屋から出てきたアルスに安堵した様子だった。
「こんな時ですが、色々と話し合わなくてはならないことがあります。酷なことかもしれませんが」
「私なら大丈夫だ。すまないな、ラザファム」
「いえ……」
緩く首を振ったラザファムは、クラウスに目配せし、それから背を向けて食堂の席を手配し始めた。アルスはそんな彼の背中を眺めながらつぶやく。
「ラザファムがいなかったら、私はこんなに遠くに来れなかった。本当に世話になりっぱなしなんだ」
「うん、俺もラザファムには頭が上がらない」
クラウスまでがそんなことを言った。
かといって、ラザファムはどんな謝礼も要らないと言うに違いない。
いつか素直に感謝を受け入れてくれるだろうか。
野菜がゴロゴロと入ったブラウンシチューをどうにか呑み込み、昼食を終えた。
アルスに食べろと言ったが、クラウスも食事がつらそうだった。急な体の変化に、実は弱っているのではないかとアルスが心配したせいか、クラウスは軽く笑って食事を続けた。
ラザファムは、周囲に人がいないことを確認すると切り出す。
「……精霊というのは、精霊王の御力があってこそこの世に存在します」
いきなりそんなことを言った。ラザファムがこの時に話すのなら何か意味があるはずだと、アルスは静かに耳を傾ける。
「我々生物とは在り方が違い、確たる個体として在るわけではないのです」
わかるようなわからないような話だった。そこで補足するように声を発したのはエンテだ。
「精霊の〈元〉となる要素はもともとこの世界にあるのです。そこに王様の御力が加わり、精霊を精霊として形作ります。だから、確固たる形があるのではなく自在に姿を変えることができるのです。……ナハティガルはこのところ精霊界に帰ることもなく、王様の御力を受けにくい地上にいました。そこで力を使い果たし、〈ナハティガルであったもの〉は霧散したと考えられます」
エンテが丁寧に説明すればするほど、アルスは喉が苦しくなってきた。
クラウスのせいなどではなくて、全部アルスのせいなのではないかと。
うつむきかけたアルスに、ラザファムは告げた。
「ナハティガルの欠片は、まだこの世界に在るのだと思います。精霊王の御力を再び受け取ることができれば、あるいは――」
ハッと、勢いよく顔を上げたアルスだったけれど、ラザファムは少しも表情を緩めなかった。
「すみません、勝手なことを言っています。そんな可能性はないのかもしれません。ただ、もしかするとそれができれば、と僕が考えてしまうだけで」
「わ、私も、それができるなら……っ」
「僕は状況が許せば、何か方法がないかを探しに行きたいと思います。王城の書庫に役立つ文献があるといいのですが」
王城の書庫には蔵書が何万冊あるのか、アルスにもよくわからない。地下へ向かうほどに古く、黴臭い。アルスには馴染めない場所だった。
それでも、ナハティガルのためならそんなことは言っていられない。
思わず立ち上がりそうな勢いで前のめりになった。
「私も手伝う!」
「専門知識がないことには無理でしょう」
「ぐっ……」
それはそうなのだが、何かしたい。
ラザファムやベルノルトを頼みにするしかないのか。
だとしても、僅かな希望でもあるのなら縋りたい。縋りついて、その後で絶望することになったとしても、今はそれを標としていたかった。
どうしても、ナハティガルに会いたい。
そこでずっと考え込んでいたクラウスが口を開く。
「あと、セイファート教団なら何か知っていることはないかな?」
「あっ!」
セイファート教団は精霊王を崇めているのだから、有益な情報をもたらさないとも限らない。
アルスはこんな時こそ王族としての権限を最大に発揮して迫ってやろうと決めた。
「わかった! 私は教団を当たればいいんだな」
「……いえ、その、アルス様はじっとしていて頂けた方が。教団ならベルノルト様か陛下にお願いすべきです」
ラザファムが正直すぎる。アルスが騒ぎ立てると聞ける話も聞けなくなると。
何かしたいと思う気持ちだけが空回りするけれど、真っ暗な闇の中に取り残されているような気分ではないだけマシだ。
また、あの騒がしい声を聞けるのなら――。
「まずはシュミッツ砦へ向かってから、精霊にベルノルト様への報告と迎えを頼みます。その間、我々は無防備ですから、砦で警護してもらうよりありません。精霊が戻ってから迎えを待って城へ帰り、対策を立てましょう」
慎重なラザファムの言うことに間違いはないけれど、アルスにはそれがとても回りくどく感じられるのだった。
アルスはナハティガルがいないと少しも落ち着かない。今回は精霊界帰りのように必ず戻ってきてくれるとは限らない別れなのだ。早く会いたくて堪らなかった。
気持ちが逸るアルスをクラウスが宥めるように言った。
「気が急いているのはわかるけれど、アルスの身の安全が最優先だ。それだけは間違いないんだから、ラザファムの言う通りにしよう」
「う、うん」
心を見透かされたようだが、アルスがわかりやす過ぎるのだろう。
ラザファムも疑わしげに目を細めていた。




